第72話 突き返した銀貨
崩壊まで、残り十二日。
朝の膳が下がる前に、ニスが口を開いた。珍しいことだった。
「厩へ、もう一度行かせてください。……昨日の、ヤール殿の父上の写しの話を聞いて、決めました。私の一点も、宙吊りにしたままにはしません。晴れるにせよ、晴れないにせよ、数え直してきます」
覚えのない認め印。ベックに「これがある限り、お前は白と言い切れん」と言われた、あの一点だ。命じられて行くのではなく、自分から数え直しに行く。レンは、短く頷いた。
「頼みます。……俺も、行きます」
今日は、門の外で待つだけでもいい。疑いを預かった者として、晴れる場に立ち会う義理があった。
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厩舎の門の前で、今日は向こうが待っていた。
背の低い、腕の太い老人だった。飼葉の屑が肩に載ったままの外套。ニスの足が、一拍だけ遅れた。
「ベック」
「来ると思っとった」
老人は、レンを一瞥し、それからニスへ顎をしゃくった。小脇に、色の褪せた綴りを二冊、抱えていた。
「お前が目を逸らさんかったのが、癪に障ってな。二十年、黙って生き残った。黙っとることが、生き残る術だった。……だが一度くらいは、返しておきたくなった。あれから、いつでも渡せるように、手元に置いとった」
厩の脇の、飼葉小屋の陰で、ベックは綴りを開いた。
一冊は、見覚えのある受け渡し簿。もう一冊は、レンが初めて見る綴りだった。表紙に、几帳面な文字で「咎めの綴り」とある。厩舎で処分を受けた者の、記録の束だった。
「罰した側は、罰した記録を捨てん。自分らの正しさの、証文だからな。……十年前の頁を、見てみろ」
ニスが、頁を繰った。その手が、止まった。
十年前の冬。厩番ニス、規律を乱した咎により、七日の謹慎。仔細の欄に、事務的な字が並んでいた。搬出口の台に置かれた銀貨を突き返し、上役に届け出た。よって、厩の規律を乱した。届け出の晩のうちに、身柄を裏の小屋へ移す、とも。
銀貨を、突き返した。それが、咎めだった。
「見なかったことにしなかった男は、お前とヘイルの、二人だけだった。ヘイルは南の宿場へ流され、お前は公爵家へ出された。……罰の綴りには、そう書けん。だから『規律を乱した』とだけ、書いてある」
ニスは、長いこと頁を見下ろしていた。それから、静かに言った。
「謹慎は、覚えとります。厩の裏の小屋に、七日、入れられました。……あの七日の間のことだけは、誰にも証してもらえんと、思っとりました」
「小屋の中で、何を考えていましたか」
レンが問うと、ニスは少しだけ間を置いた。
「馬のことです。私の受け持ちの三頭に、誰が飼葉をやるのか。それだけを、七日、考えとりました。……悔しさは、後から来ました。小屋を出たら、受け持ちが替わっとりましたので」
罰の中身は、謹慎ではなかった。馬を取り上げることだった。ベックが、鼻から短く息を吐いた。
「その三頭の世話は、俺がやっとった。文句を言わん馬ばかりで、張り合いがなかったな」
それだけ言って、老人は綴りを二冊とも、ニスの胸に押し付けた。
「持っていけ。厩に置いとけば、いずれ竈の焚き付けにされる。……ヘイルに会うことがあったら」
ベックは、そこで言葉を探し、結局こう続けた。
「いや、いい。生きとるなら、それでいい」
レンは、受け渡し簿を引き寄せた。覚えのない認め印の頁。月の暗い夜の、受け取りの記録。その日付を、咎めの綴りの謹慎の日付と、並べた。
重なって、見える。
だが、この場では断定しなかった。二つの帳面は、書式が違う。数え方の違う日付を突き合わせるのは、燈の下で、一枚ずつやる仕事だ。ニスも、それ以上は求めなかった。十年前の日付までは、本人も覚えていないのだった。
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昼、レンは一人で補給局に寄った。ヤールの再申請の、差し戻しの理由を問うためだ。
マゼルは、今日も机の前にいた。紙の角は揃い、筆は三本、長さの順に並んでいた。窓の外を荷馬車が通る音だけが、時おり紙の静けさを揺らした。
「様式不備の、どこが不備か。照会に伺いました」
「照会の様式では、ありませんが」
マゼルは言い、それでも手を止めて、差し戻しの控えを繰った。
「添付の写しに、作成者の署名と職印がありません。私文書を正しく添えるには、作成者が現職であることを要します。規則です」
「作成者は、亡くなっています」
「存じています。ですから、様式に合いません」
一文に、一つのこと。積み方は、今日も正確だった。レンは、一歩だけ踏み込んだ。
「その規則は、誰が定めたものですか」
「この様式は、私の着任より前からあります。私が定めたものでは、ありません」
即答だった。揺らぎも、含みもない。ただ、その正確さが、かえって輪郭を残した。規則には、定めた手がある。この男の上に、様式を作った側がいる。マゼルという扉は、今日も開かない。だが扉の蝶番が、どちらの壁に打たれているかは、答えの形から見えた。
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夜、宿の卓に、二冊の綴りと、手持ちの記録を並べた。
レンは、一枚ずつ突き合わせた。謹慎の日付。認め印の日付。ドランの炭書きの暦。ベックの言った月の暗い夜。燈の油が減っていくのが分かるほど、時間をかけた。
一つだけ、日付が一日ずれて見えた。認め印の夜と、謹慎の初日。指が止まり、卓の空気が細くなった。だが、綴りの起算は届け出の翌日からで、仔細の欄には、届け出の晩のうちに身柄を裏の小屋へ移す、と一行あった。認め印の夜、ニスは記録の上でも、既に小屋の中だ。ずれは、書式の癖だった。数え方の違う二つの帳面を、同じ暦に置き直して、ようやく四つの日付が一列に並んだ。
同じ夜だった。小屋の中の男が、搬出口で荷を受け取れるはずがない。認め印は、ニスの手が押したものではあり得ない。罰した側の記録が、罰した側の作った偽りを、十年越しに破った。
ニスは急かさず、卓の向かいで背を伸ばしたまま待っていた。ユリウスとヤールも、口を挟まなかった。疑いを解くのに、励ましは要らない。要るのは、検算だけだ。この卓の全員が、それを知っていた。
数え終わるまで、誰も何も言わなかった。
やがてレンは、綴りを閉じた。
「ニス。王都への道で、俺はあなたに、疑ったまま使うと言いました」
「承知しとります。正しい扱いでした」
「数え直しました。日付は、全部で四つ。全部、噛み合いました」
レンは、まっすぐにニスを見た。
「信じています」
ニスは、目を伏せなかった。伏せる代わりに、一度だけ、深く頭を下げた。武人の礼だった。上げた顔は、いつもの顔だった。ただ、声だけが少し低くなった。
「……ヘイルに、伝えたいことができました。南へ便りを出すことを、お許しください」
「許すも何も。俺が書き添えます」
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寝る前に、ニスがふと、綴りの奥の頁を繰った。その手が、また止まった。
「補給官殿。……これを」
受け渡し簿の、別の頁。また別の頁。覚えのない印は、ニスのものだけではなかった。十年の間に厩を出された者たちの名が、去った後の日付で、受け取りの欄に並んでいた。居なくなった者の印で、荷が受け取られ続けている。
「あの決まりを作った手と、頁を抜く手は、同じ高さにあります」
ニスの声は、静かだった。
出された者は、罪だけを置いていかされる。頁を抜かれた帳と、印を作られた者たち。手口の形が、同じだった。
崩壊まで、残り十二日。
消された者と作られた印の、名簿がまた一枚厚くなった。




