第71話 最後の控え帳
崩壊まで、残り十三日。
朝の宿に、商会の印のない小さな便が届いた。宛名はユリウス。差出人の名は、なかった。
中身は、古い宿帳の写し一枚と、短い報せだった。ユリウスは二度読み、それから顔を上げた。
「見つかりました。トムル・ヴァストロ殿の、最後にいた場所が」
ヤールの手が、卓の上で止まった。
「本店との筋は、切れかけています。ですが、宿帳は商会のものではありません。宿のものです。泊まった者の名は、宿帳だけが覚えている。……調べ続けてくれた者が、いたようです。名は書いてありませんが」
名を書けば、書いた者が危うくなる。この王都では、善意は名を持たずに動く。場所は、王都の南西。古紙買いの家、とだけあった。
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その家は、紙で出来ているように見えた。
束ねた古帳が壁際に天井まで積まれ、紙の匂いが土間まで染みていた。出てきたのは、背の曲がった老婆だった。レンたちを順に眺め、最後にヤールの顔に目を留めた。
「……似てるねえ。あんたが、息子さんかい」
ヤールが、頷いた。声は、出なかった。
「あたしはロズ。古紙を買って、暮らしてるよ。トムさんは、この奥にいた。ひと月前の、雪の晩までね」
老婆は、奥の小部屋へ三人を通した。藁の寝床と、小さな文机。机の上は、きれいに片付いていた。
「ここで、どのように、暮らしていたのですか」
ヤールが、途切れ途切れに訊いた。ロズは、少し笑った。
「よく働く人だったよ。あたしの秤を直してくれた。古紙の目方で誤魔化されてたのも、あの人が数え直してくれてから、なくなった。近所の子に、算の手ほどきもしてたね。読み書きは教えなかった。読めるようになると危ないからって、数だけ。……妙な理屈だと思ったけど、今の話を聞くと、分かるよ」
名を捨てても、目の前の秤が狂っていれば直さずにいられない。そういう手の持ち主だった。
「胸を悪くしてたよ。医者を呼ぼうとしたら、止められた。医者に掛かれば、帳面に名前が載る。名前が載れば、見つかる。……薬より、紙を選んだ人だった」
薬より、紙を。
レンは、その言葉を静かに受け取った。薬が届かなくて死ぬ人を減らすために、薬を諦めた人が、ここに一人いた。
「最後の晩は、雪でね。あたしが気づいた時には、もう文机に伏せてたよ。苦しんだ顔じゃなかった。書きかけの頁の上に、筆を置いたまま。……筆を握ったまま逝くのかと思ってたから、置いてあったのが、あの人らしくてね。紙を汚さないように、最後に筆を置いたんだ」
ロズは前掛けの下から、布に包んだ細いものを出して、ヤールに差し出した。
「形見なんて、これしかないよ。持っていきな」
使い込まれた筆が、一本。軸の下のほうが、指の形にすり減っていた。ヤールは両手で受け取り、しばらく、握りもせずに載せていた。自分の指の、置くべき場所を探すように。
「役所の帳面じゃ、あの人はとっくに死んだことになってたらしいね。死んだ者は、誰も探さない。だから書けたんだと、笑ってたよ」
帳簿の上で死んだ男が、帳簿の外で、書き続けていた。
「あんたに、訊きたいことがあります。なぜ、ここまでしてくれたんですか」
レンが問うと、ロズは古帳の山を顎で示した。
「あたしは字が読めない。トムさんは言ったよ。『読めないあんたにしか、頼めない。読める者は、読んだ中身ごと危うくなる』ってね。……読めないってことが、初めて人の役に立ったのさ」
読めない者は、抜かれても気づかない。王都の仕組みは、そうやって読めない者を使ってきた。トムルは、同じ理屈を裏返して、読めない者に一番大事な紙を預けた。
ロズは、寝床の藁の下から、麻紐で括った束を取り出した。
「葬式も出せなかった。名前を出せば、隠れてた月日が無駄になるって、自分で言い置いてったからね。……せめてこれを、渡すべき人に渡しておくれ」
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束の中は、写しだった。
補給局の控え帳の、本物の頁の写し。日付、品目、数量、決裁の判の番号。几帳面な書記の字が、頁ごとに端まで詰まっていた。正本から頁を抜く手があるなら、写しを残す手もある。他人の頁は抜けても、覚えた者の手の中までは、抜けない。書記の、戦い方だった。
最後の頁だけが、書きかけのまま、開いて挟んであった。
ヤールは、その頁を長いこと見ていた。文机の上で、指が父の字をなぞりもせず、その上で浮いていた。業務日誌は、最後の頁を開いたままにしておきます。関所の夜にそう言った、あの声が思い出された。父も、同じことをしていた。頁を閉じないことが、この親子の続け方なのだった。
沈黙は、長かった。誰も急かさなかった。
やがて、ヤールが顔を上げた。
「父の写しを、会議に、出します」
途切れなかった。断言はできません、と言い続けてきた口が、その一行だけは、途中で止まらなかった。
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午後、写しの要旨を添えて、証文の再申請を出した。
様式は、ヤールが整えた。保留印の書式、決裁の欄、判の番号の引き方。目で写し取ったものを、寸分違わず組んであった。書記課の様式に、書記課の中の者より詳しい紙だった。
差し戻しは、その日のうちに来た。
半月は待たせる返事が、都合の悪い紙にだけ、半日で返る。急げるのだ、本当は。急げる手が、止める側に回っているだけで。
窓口の書役が、無表情に紙を返した。理由の欄には、四文字だけあった。
様式不備。
どこが、とは書かれていない。問えば、照会の様式で、と返るのだろう。ヤールは差し戻しの紙を受け取った。その手が一度だけ震え、すぐに止まった。隅々まで読み、それから静かに畳んだ。
「不備は、ありません。私が、組んだ様式です」
「知っています」
レンは言った。
「様式なら、何度でも直せます。でも、これは様式の話じゃありません。壁は紙の形をしているだけで、紙じゃない。……人です」
人が止めているなら、人が通す道もある。紙の裏に、初めてはっきりと、意志の輪郭が見えた。
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夜、宿の卓に、写しと手持ちの記録を並べた。
ニスが燈を寄せ、ユリウスが頁を繰る係に回った。ヤールは父の筆を胸元に差して、読み上げる役を買って出た。誰も、代わろうとは言わなかった。
抜かれた頁に載っていたはずの品目。冬の飼葉。来春の種籾。そして、薬瓶。薬瓶の数字は、ハーレンの棚から消えていた数に、そのまま嵌まった。飼葉と種籾は、数の突き合わせ先がまだない。だが、送り先の欄は同じだった。荷の行き先は、やはりハーレンだ。写しは、抜かれた頁の中身そのものだった。
もうひとつ、揃ったものがある。
写しに残る搬出の日付。それが、ドランが棚板の裏に書き残した日付と、ベックの厩の、月の暗い夜と、同じ並びで重なった。頁を抜く手と、荷を運ぶ手は、同じ暦で動いている。
ヤールは、写しの束を胸に抱えたまま、言った。
「父は、ここまで数えていました。……ここから先は、私が数えます」
崩壊まで、残り十三日。
閉じられなかった最後の頁に、続きを書く者が決まった。




