第70話 課長印の壁
崩壊まで、残り十四日。
神殿で鳴らした片割れの音は、崩壊の足取りを三十日ぶん緩めた。緩んだのは悪化の速さであって、もとの期限が延びたわけではない。砂時計の口が広がるのを防いだだけで、砂が増えたわけではないのだ。だから、日数は今日も一つ減る。
朝の卓に、ユリウスが古い帳を積んだ。
「お待たせしました。話せる形に、なりましたので」
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蔵から持ち出された帳は、五冊あった。
ヴェルナー本店の、十年より前の元帳。ユリウスは頁を開き、繰越の欄を指でなぞった。
「この癖字を、見てください。数字の頭が丸い。九の払いが、一拍長い。……同じ手が、こちらにも」
別の頁。合わない数字の脇に押された「調査継続中」の判。その隣の走り書きが、同じ癖を持っていた。
「本店で印を消していた手と、繰越を書き足していた手は、同じです。そしてこの癖は、今の帳にも生きています。名は、まだ申し上げません。……申し上げるには、まだ根拠が一つ、足りません」
レンは頷いて、卓の上を片付けた。それから、持っているものを並べ直した。
左の列。ドランの炭書きの写し。控え帳の欠けた一冊の記憶。厩の受け渡し簿の話。そして、この蔵の帳。荷を帳簿から抜く手の痕だ。どれも、書記課の高い決裁と、本店の古い筆に繋がっている。
右の列。赤と黒の組紐。北へだけ流れる紙。布の人の、温度のない言葉。見る手の痕だ。こちらはヴェン家に繋がっている。
二つの列は、卓の上で交わらなかった。
「別の手です。抜く手と、見る手は」
レンは言った。ユリウスが、静かに続けた。
「ええ。ただ、どちらの列も、上へたどるほど名前が消えます。名前が要らなくなる高さが、この王都には、あるようです」
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昼、補給局の書記課へ、再申請を出しに行った。
局の前には、今日も薬待ちの列があった。空の瓶を提げた老人が、列の先頭で戸の開くのを待っている。ハーレンの棚の空いた分は、まだこの列のどこにも届いていない。届く紙が、止まっているからだ。列の横を抜けるとき、レンは歩を緩めなかった。緩めても、渡せるものがまだない。
ヤールが様式を整え、レンが証文を携えた。窓口の書役が奥へ消え、二人はいつもの差し戻しを待った。だが、出てきたのは書役ではなかった。
「お待たせをいたしました。書記課長の、マゼルと申します」
中背の、四十絡みの男だった。声は低くも高くもなく、歩幅は机の間隔に合っていた。案内された課長の机は、紙の角がすべて揃えてあった。筆は削りたてが三本、長さの順に置かれていた。
蔵の帳のことは、口にしないと決めてあった。癖字の名は、まだ誰のものとも言えない。言えない札は、切らない。切れば、こちらの手の内だけが相手の帳面に載る。
「リンドホルムの、都市補給官代理殿とお見受けします。証文の件は、私が預かっております」
代理殿。役職の正称を、一字も略さない呼び方だった。
「預かっている、というのは」
「言葉の通りです。証文は、本物と拝察いたします。本物ですから、正しく扱わねばなりません。正しく扱うには、時間がかかります」
一つの文に、一つのことしか入っていない。積み上げ方に、隙がなかった。
「三十年前の証文です。当時の貸付の記録と、突き合わせが要ります。記録は古い。古い記録は、崩れやすい。崩れた記録で支払えば、帳簿が乱れます」
マゼルはそこで、束の間、目を伏せた。
「帳簿が乱れれば、配りが乱れます。配りが乱れれば、飢える者が出ます。……私は、それを見たことがあります」
それ以上は、言わなかった。身の上話でも、脅しでもない。規則を守る理由を、棚から一つ下ろして見せただけ、という置き方だった。
レンは、一拍おいて言った。
「保留の間も、末端では薬が減ります。帳簿は待てても、人は待ちません」
「その通りです。ですから、急いでおります。正しく急ぐには、順を踏むしかありません」
レンは、問いを変えた。
「調査継続中、という判を、末端の倉で見ました。十年、同じ返事だったそうです。その調査は、誰が、どこで、何を調べているんですか」
「記録の突き合わせは、課の内で行います。進みについては、照会の様式があります。様式で出していただければ、順に回答いたします」
「回答まで、どれほど」
「案件によります。正確なところは、申し上げられません。不正確なことを申し上げるのは、規則に反しますので」
噛み合っているのに、一歩も進まない。壁を叩いている感触さえなかった。壁なら、叩けば音がする。この男は、扉の形をしたまま、開かないのだった。
マゼルは印を取り、朱肉を正確に一度だけ使って、証文の写しに押した。
保留。
理由の欄に、几帳面な字が並んだ。
調査継続中。
証文の正本は、返された。局長へ直接手渡すのが、証文の条件だ。だが、その目通りの願いそのものが、書記課の預かりで止まる。課長の机が、局長の扉の前に置かれた、最後の関所だった。
ドランの倉へ、十年届き続けた言葉。ユリウスが、かつて押す側だった言葉。それが今、目の前で、崩れも歪みもしない手つきで押された。悪意は、どこにも見つからなかった。見つからないことが、いちばん堪えた。
退出の間際、ヤールが保留印の様式を、目で写し取っているのが見えた。判の番号、日付の書式、決裁の欄。書記の子は、書記のやり方で戦う気でいる。レンは、何も言わずに待った。
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宿へ戻ると、公爵家の定期継ぎが着いていた。
公爵家の継ぎは、街の便屋とは別の筋だ。領の馬で、領の宿場を自前に継いでいく。北へふた月遅れる便の話は、この筋には当てはまらない。
セリアの公信に、小さな紙が挟まれていた。ひらがなの並んだ、見覚えのある字。
『ほきゅうたいちょうへ。あわなかったすうじ、フェンとなおした。ガルドさんが、はるのたねのばしょ、あけてまってる。ミナ』
春の種の場所を、空けて待っている。辺境の倉は、レンが戻ることを疑っていない。読み終えて、レンはしばらく紙を置けなかった。
それから、返信を書いた。
宛名は、リンドホルム公爵セリア・グランヴェル様。書き出しは、いつもの報告と同じにした。証文の停止。書記課長の名。そして、新しく分かったことに番号を振り、順に並べた。
最後の一段だけ、筆が遅くなった。
この先は、ヴェン家と書記課の絡繰りに、公爵家の名前で踏み込むことになる。家名に、傷が付くかもしれない。それでも進めと言えるのは、俺ではなく、あなたです。退いてくれてもいい。倉は、別の形でも守れます。ご判断を。
書き終えて、封をした。公爵家の早馬継ぎなら、リンドホルムまで四日。雪が深ければ五日。返事が来るのは、早くて八日の後。残り十四日のうちの、八日だ。
それでも、これは飛ばせない順だった。正しく急ぐには、順を踏むしかない。あの男の言葉に、皮肉な形で、胸の中の自分が頷いていた。
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夜、レンは窓の外の暗い王都を眺めた。
調査継続中。
十年、ドランの倉へ届き続けた。そして思い出す。銀の鈴は、百年、王都の倉の奥に眠っている。あれもきっと、同じ言葉の下でだ。誰かが悪意で留めたのではなく、正しく扱うために保留され、保留のまま百年が過ぎた。
その鈴を押さえる職位に、今、あの几帳面な男が座っている。
崩壊まで、残り十四日。
紙は、止まった。順を、探すしかない。




