第69話 顔の下
崩壊まで、残り十五日。
朝、ユリウスの部屋の戸は閉じたままだった。灯りは消えている。夜通し起きて、明け方に眠ったのだろう。廊下に、古い紙の匂いだけが残っていた。
ヤールは局へ。ニスは、朝のうちだけ付き合うと言った。
「補給局の裏口なら、見張るのに向いた場所が三つあります。北の井戸端、炭売りの角、それから薬待ちの列の中です。……列の中が、いちばん見えて、いちばん見られません」
「列の中」
「人は、並んでいる者の顔を見ません。並びの長さしか、見ないものです」
昨夜のニスの報告が、まだ耳に残っている。布で顔を隠したあの人が、カルロスから離れ、独りで補給局の裏口を見張っていた。誰の目で、何を見ているのか。
今日は、こちらが見る番だった。
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補給局の裏口は、朝から人が絶えなかった。
薬待ちの列が壁に沿って延び、炭売りが角に荷を広げ、井戸端では女たちが桶を並べる。レンは炭売りの向かいの軒下に立ち、荷を待つ人足の顔をして、列を眺めた。
立ってすぐ、居心地の悪さに気づいた。
《棚卸し》は、物しか映さない。倉の棚なら、目を閉じても数えられる。だが人は、棚に載らない。誰が誰を見ているかは、この目で見て、この頭で測るしかなかった。数字の裏付けのない場所に立つのは、灯りを持たずに倉へ入るのと似ている。足の裏が、落ち着かなかった。
布の人は、列の中ほどにいた。
ニスの言った通りだ。並んでいれば、誰も顔を見ない。布で頬まで覆っていても、寒さの厳しいこの冬なら、列の誰とも変わらなかった。
半刻ほど過ぎた頃、列が乱れた。
荷車が角を曲がり損ね、人垣が押された。列の前の方で、杖をついた老女がよろけた。倒れる、と思った瞬間、布の人が動いた。二人分の距離を詰め、老女の肘を支え、押してきた人垣との間に、自分の肩を入れた。老女が礼を言う。布の人は小さく頷いて、元の位置へ戻った。
守る側の動きだ。
レンは、そう思いかけて、思い直した。戻った位置が、さっきと違う。列の乱れを直すふりをして、二人分だけ前に出ている。そこからは、裏口の戸が、真っ直ぐに見えた。
どちらとも、取れる。庇ったのか、位置を直したのか。レンは判断を保留にして、待った。
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昼の鐘が鳴って、裏口の戸が開いた。
出てきたのは、カルロスだった。外套の襟を立て、書類の袋を抱えて、井戸端とは逆の通りへ歩き出す。
布の人が、列を離れた。
合流するのだろうと、レンは思った。連れなのだから。だが、布の人は距離を詰めなかった。二十歩。角を曲がっても、二十歩。カルロスが立ち止まれば止まり、歩けば歩く。声の届かない、しかし見失わない距離。
守る者の距離では、なかった。守るなら、もっと近い。あれは、記す者の距離だ。カルロスがどこへ行き、誰と会い、何を渡すか。それだけを、正確に。
レンは、二人からさらに二十歩離れて、後を追った。
通りを二つ。カルロスは市場の帳場に寄り、何かを尋ね、また歩いた。布の人は一度も急がず、一度も振り返らなかった。ただ、店先の銅鍋や、磨かれた秤の皿に、時おり目を落とした。映り込みで背後を確かめる歩き方だと、気づくまでに、少しかかった。慣れた者の足だった。
市場の雑踏で、一度だけ見失いかけた。
人垣の切れ目に布の色を探して、胸の奥で鼓動が急に速くなった。三つ数える間に、布の人は炭俵の陰から元の歩調で現れた。何事もなかったように。こちらの脈だけが、まだ速かった。
カルロスが局へ戻る。布の人は、それを見届けると、初めて自分の用で歩き出した。
向かった先は、代筆屋の並ぶ路地だった。
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北へ行く便は、ふた月遅れ。あの路地の代筆屋が、そう言っていたはずだ。
だが、布の人は文机には寄らなかった。路地の外れの馬留めに立ち、待った。ほどなく、騎馬が一騎、路地に入ってきた。鞍の金具は、王都のものと形が違う。北の作りだ。南門で見た、房飾りの二騎と同じ拵えだった。
布の人が、折り畳んだ紙を差し出す。騎手は無言で受け取り、懐へ入れ、馬首を返した。声は、ひとことも交わされなかった。決まりきった手順の、決まりきった受け渡しだった。
紙を渡したその手首に、組紐が結ばれていた。
赤と、黒。
関所で見た徽章の色。カーレル・ヴェンの胸にあった、あの二色だった。
北へ流れない手紙が、この人の手からだけは、北へ流れる。儀礼の一行の早馬継ぎが、途中で拾い上げていくのだろう。誰の便りも運ばない馬が、この人の紙だけを運ぶ。
見張り、記し、北へ報せる。
その形が、そろった。
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「そこまでで、ようございましょう」
声は、静かだった。
布の人が、こちらを向いていた。いつから気づいていたのか。慌てもせず、構えもしない。ただ、向き直っただけだった。布の上で、灰色の目が、揺れずにレンを見ていた。
「私は、見る役でございます。手を出す役では、ございません」
女とも男とも取れる、低く整った声だった。言葉の形は、これ以上ないほど整っていた。関所の夜に聞いた、神殿の当主の言葉と同じ、最上位の格式。ただ、あの夜の声にあった静けさの底の温度が、この声にはなかった。丁寧なだけの、冷えた言葉だった。
「誰の目で、見ているんですか」
レンは訊いた。答えは、期待していなかった。
「お探しの手は、私ではございません。それだけは、申し上げておきます」
布の人は、一拍おいて、続けた。
「カルロス様から、離れて差し上げなさいませ。あの方のためで、ございます」
それだけ言うと、布の人は背を向けた。追う理由が、レンにはもうなかった。追っても、この人は何も落とさない。落とす人間に、見る役は長く務まるまい。
路地の口で、布の人の姿は人混みに溶けた。門の内でも布を取らないことを、ずっと訝しんでいた。今なら分かる。あれは顔を隠していたのではない。見る役に、顔は要らないのだ。
冷えた風が、路地を抜けた。レンは、しばらくその場を動けなかった。
ひとつだけ、腑に落ちない。あの人は、こちらの尾行に最初から気づいていた。気づいていて、受け渡しを目の前でやってみせた。隠す気なら、いくらでも隠せたはずだ。見られたのか。それとも、見せたのか。どちらであっても、寒気のする答えしか浮かばなかった。
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宿へ戻る道で、レンは並べ直していた。
ヴェン家の色を身につけ、ヴェン家の格式で話し、北へだけ紙を送る。あの人は、カルロスの連れではない。カルロスに付けられた、目だ。
そう置いた途端、いくつもの形が、音を立てて嵌まった。
人前で、カルロスがレンを突き放した日。あの声は、レンにではなく、後ろで聞いている耳に向けられていた。去り際に目だけが揺れたのは、そういうことだ。
馬留めに三日も置かれていた、署名のない符牒。「南の倉は、帳面でなく、瓶で数えることだ」。名を書けば、目に記される。手渡せば、目に見られる。だからあの人は、誰の名も書かず、レンの通り道に、紙だけを置いた。
監視の目を、盗んででも報せようとした。そして表では、突き放してみせるしかなかった。
便宜を図る立場にない。あの言い方も、今は違って聞こえる。図らないのではない。図れば、図った相手ごと、北の目に記される。カルロスが冷たくすればするほど、レンたちは監視の帳面から遠ざかる。あの突き放しは、あの人なりの、精一杯の距離の取り方だったのかもしれない。
かもしれない、で止めておく。本心は、まだ誰も聞いていない。あの灰色の目の揺れひとつで、味方だと決めるには、この王都は絡繰りが深すぎた。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
あの人は、王都で生きているのではない。王都に、留め置かれている。
宿の階段で、ニスが待っていた。レンは、短く言った。
「連れじゃありません。見張りです。……見張られていたのは、届けようとする側です」
「ヴェン家の、ですか」
「色と、言葉の格が、そうでした。ただ、あの人は言いました。『お探しの手は、私ではございません』と」
見る役は、ヴェン家。頁を抜く手は、書記課。二つは同じものではない。だが、あの人が北へ送る紙と、書記課の高い決裁と、その両方が見上げる先に、同じ高さの何かがある。線と線の交わる場所に、まだ顔のない手が、ひとつ。
廊下の奥で、ユリウスの部屋に灯りが点った。目が覚めたらしい。戸の下の明かりは、昨夜より落ち着いて見えた。整理を終えた者の灯りだ。
明日は、あの帳の話になる。
崩壊まで、残り十五日。
北の儀礼の一行は、今夜も街道の宿の馬を、押さえながら近づいている。




