第68話 銀貨の厩
崩壊まで、残り十六日。
朝、宿の食堂にユリウスの姿がなかった。取次に訊くと、夜明け前に荷を抱えて戻り、部屋に荷を置いて、すぐまた出ていったという。書き置きも、言伝もない。あの人が黙って動くのは、まだ話せる形になっていないときだ。レンは、それ以上訊かなかった。
ヤールは今日も局へ行く。残るのは、厩だ。
「厩へ、参ります」
ニスが先に立った。ハーレンの倉で見た、銀貨を置く台。あの台を据えさせたのと同じ決まりが生きている場所は、王都にもある。ニスが十年前までいた、王都厩舎だ。
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王都厩舎は、王宮の北側の壁に沿って、細長く延びていた。
飼葉の匂いと、蹄が石を打つ音。門の脇で、ニスは足を止めた。
「ここから先は、厩の者しか入れません。……昔の同輩が、まだ中におります。半日、ください」
「頼みます」
ニスは一度だけ頷いて、門の奥へ消えた。十年ぶりの敷居を、迷いなく越えた。体が道を覚えている足取りだった。
レンは外の荷寄せで待った。
待つあいだ、目だけは動かした。門の内では、蹄鉄を打ち替える鎚の音が、規則正しく続いている。出入りする馬の数を、荷寄せの柱にもたれたまま、頭の中で拾った。入る馬より、出る馬のほうが、わずかに多い。昼のうちから、どこかへ馬が出ている。
搬入口の脇に、低い木の台がひとつ。天板の隅の丸い擦れまで、ハーレンの搬出口のそれと同じだった。誰が据えたのでもなく、最初からそこにあったような顔で立っていた。
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ニスが戻ったのは、日が傾きかけた頃だった。
厩壁沿いの飯屋の隅で、ニスは低く報告を始めた。公務の報告と同じ、硬い声だった。
「まず、飼葉です。馬は、嘘をつきません。帳面の頭数に、飼葉の減りが合っとりません。決まった夜だけ、帳面にいない馬の分まで食われとります」
「決まった夜」
「月の暗い夜です。間を空けて、規則正しく。……ドランが棚板の裏に書いとった日付と、重なっとります」
帳面にいない馬が、月のない夜だけ飼葉を食い、荷を曳いて出ていく。ハーレンの棚から薬瓶が減った日付と、王都の厩で飼葉が余計に減った夜。別々の帳面に残らなかった二つの列が、一本の道として繋がった。
「銀貨の決まりの、出どころは」
「分かりません。ですが、古株のベックが、こう言いました」
ニスは、そこで一拍置いた。
「『あの決まりは、誰かが作ったんじゃない。出来上がった形で、上から降りてきた。いつからかと訊いた者は、順に厩から出されとる』……ヘイルも、そうでした。それから」
ニスの声が、わずかに揺れた。
「俺たちは、訊きすぎたんです。……私は、の間違いです」
ベックは、話のあいだ一度も座らなかったという。立ったまま、馬房の柵に手を置いて、戸口へ目をやりながら話した。二十年その厩で生き残った男の、話し方だった。
十年前、ニスが王都厩舎から公爵家へ移った理由。本人は一度も語らなかったし、レンも訊かなかった。訊いた者から順に出される厩で、ニスは出された側だった。それは、白に寄る話だ。
だが、ニスは続けた。隠さない男だった。
「ひとつ、晴れないものが、あります。ベックが、厩の奥から古い受け渡し簿を抱えてきました。私にだけ見せる、と言って。……その簿に、私の認め印がひとつ、残っとりました。月の暗い夜の受け取りに、です。押した覚えが、ありません」
「覚えがない印が、あなたの名で残っている」
「はい。ベックは言いました。『これがある限り、お前は白と言い切れん』と。その通りです」
ニスは目を逸らさなかった。ハーレンの倉の銀貨の台の前で、ドランが見せたのと同じ目だった。
レンは、短く答えた。
「疑いは、俺が持ちます。ニスは、数えてください」
「……承知しとります」
それから、ニスは思い出したように付け足した。
「もうひとつ、厩の噂を。北から、儀礼の一行が王都へ向かっとるそうです。街道筋の宿場の馬が、五日先まで押さえられとると。厩の者らは、久しく見ない格の一行だと言っとりました」
南門へ向かった朝に見た、房飾りの二騎。あれは先触れで、本隊は後から来る。ニスは、あの時そう言った。その本隊が、街道の馬を押さえながら、王都へ近づいている。誰が、何のために。それはまだ、噂の輪郭の外だった。
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日が落ちる前に、二人は厩の裏路を辿った。
荷車がやっと擦れ違える幅の道が、家々の裏を縫って、北へ延びている。表通りと違って、雪かきだけは行き届いていた。手入れされている道だ。それも、丁寧に。
道の先、王都の北の縁に、小さな倉があった。
二人は離れた軒下から、それを見た。荷札のない荷車が一台、倉の前に着く。倉から出てきたのは、補給局の下役の服を着た男だった。男は荷を検め、綴りを開き、判を押した。荷役が箱を下ろす。すべてが、昼の倉と同じ手順で、同じ顔で進んだ。
判を押した男は、若かった。手順に迷いがなく、急ぎもしない。やましい者の手つきではなかった。あの男にとって、これは今日の何件目かの受け入れで、明日も同じ刻に同じ判を押すのだろう。荷がどこから来たかを、あの綴りは訊かない。訊かない形に、最初から出来ている。
盗みの顔をした者は、ひとりもいなかった。それが、いちばん寒かった。
「……裏の道の終わりに、表の印があります」
レンは、自分の声が硬くなるのを聞いた。
帳簿から荷を消す手と、消えた荷を受け取る手。そのどちらもが、正規の判を持っている。ハーレンの空いた棚は、闇に呑まれたのではない。表の顔をした手続きの中へ、吸い込まれていた。
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宿へ戻ると、ユリウスの部屋の戸の下から、灯りが漏れていた。
廊下まで、古い紙の匂いが薄く届いている。夜明け前に置いていった荷を、いま開いているのだろう。レンは、声をかけずに通り過ぎた。話せる形になれば、あの人は自分から来る。
レンが部屋へ入ろうとしたとき、背後でニスが足を止めた。
「補給官殿。報告が、もうひとつだけ」
振り向くと、ニスは廊下の暗がりで、声をさらに落とした。
「厩からの帰りに、見ました。あの、布で顔を隠した方が……カルロス様から離れて、独りで動いとりました。補給局の裏口を、見張るように」
連れではなく、独りで。
誰の目として、何を見張っているのか。暗がりに立つその姿だけが、まだ誰の帳面にも載っていない。
崩壊まで、残り十六日。
表の印は、今夜も裏の荷に押されている。




