第67話 沈む船の帳簿
崩壊まで、残り十七日。
王都の朝は、南門よりひと刻遅れて明けるようだ。レンたちを見送ってから、私は一晩、宿の机で数字と睨み合っていた。目が痛む。それでも、足はヴェルナー本店へ向いた。
十年前まで、私の名札が下がっていた店だ。看板は変わっていない。潜り戸の軋む音も、覚えているままだった。
「支店の、バルト様で」
取次の小僧が、私の名を持て余すように言った。支店の、バルト様。役職では、もう呼ばれない。それだけのことに、少し胸が冷える。
店の中は、朝の勘定で騒がしかった。荷の受け入れ、値の付け合い、走り回る小僧の草履の音。十年前と同じ喧騒だ。違うのは、私を見て会釈だけして目を逸らす顔が、いくつもあることだった。かつての同輩たちは、私が何を追っているか、もう耳にしているらしい。
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通されたのは、帳場の奥。古い印箱の並ぶ棚の前だった。
「久しいな、ユリウス」
声をかけてきたのは、老番頭のゲンスだった。私が支店へ出る前、この帳場で数字の付け方を教わった相手だ。十年経って、髪はすっかり白い。目の光だけは変わらない。
「リンドホルムの、補給の一件で。抜かれた頁の、行方を追っております」
「聞いている。……本店も、無風ではいられんよ」
ゲンスは、それだけ言って古い元帳を積み上げた。私が求めた通りの、十年ほど前の控えだ。手が、少し震えているように見えた。歳のせいか、それとも別の理由か。今は、判じずにおく。
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頁をめくる。数字は、覚えているより硬い筆致で並んでいた。
一冊目は、何事もない。二冊目、三冊目と進めて、私は数え方を変えた。金額でなく、繰越の欄だけを、上から下へ目でなぞる。合わない箇所は、必ず繰越で帳尻を合わせる。それが、この店の古い癖だ。私も、教わった。
繰越の欄で、指が止まった。
数字の頭に、丸みのある癖。九の払いが、いつも一拍長い。若い頃、私はこの癖の持ち主の手元を、幾度となく脇から覗き込んでいた。誰の手だったか、名は今は伏せておく。確かめる前に口にすれば、私自身が同じ穴に落ちる。
だが、この癖には見覚えがありすぎた。
見習いの頃、荷抜けの一件を上に報告したことがある。翌日、報告は「調査継続中」の判が押されて戻ってきた。その判の脇の検算の数字に、この丸みのある九が交じっていた。「若いうちは、数えることだけ覚えればいい」。走り書きの一言も、添えられていた。あの筆跡だ。忘れていたのではない。忘れたことにして、十年を過ごしていた。
次の頁も、その次も、同じ癖で繰越が書き足されている。額はそのつど小さい。小さいから、目立たない。十年かけて積めば、決して小さくない数になる書き方だった。
ハーレンの控え帳を、私はまだ実物では見ていない。それでも、あの倉の数字が「不自然に欠けている」と聞いたときから、頭の隅で疼いていたものが、ここで形になった気がした。
「ゲンス殿。この筆は、当時の会計方の誰の手ですか」
「……さて。古い帳は、幾人もの手が入っている」
答えは、濁った。濁らせる理由がある濁り方だった。
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「ユリウス」
ゲンスが、声を落とした。
「お前が支店で何をしていたか、私は知らん。知らんことにしている。だが本店には、本店の勘定がある。……古い帳を掘り返して、誰が得をする」
「私が、得をするとは、思っておりません」
「なら、なおさら愚かだ。証言台に立てば、お前は商人として終わる。この街で二度と、帳場に座れなくなる」
ゲンスは、湯呑みに口をつけなかった。両手で包んだまま、指の背で縁をなぞっていた。若い頃、悩みごとがあるとき、いつもそうしていた仕草だ。師は、脅しでこの手を動かしはしない。本気で、私を案じている手だった。
「支店を任せた時から、お前は危うい奴だと思っていた。数字より先に、人の顔を見る癖がある。商人には、向かん」
「向いていないと、私も思っております」
脅しではなかった。忠告として、静かに言われた分だけ、重かった。ゲンスの言う通りになる未来が、私には容易に見えた。信用を失った商人に、名を名乗って生きる場所は、もうない。
それでも、と思う。
いつか自分が口にした言葉が、耳の奥で返ってきた。
『沈む船で帳簿を守っても意味がない』
あれは、レンに向けて言った台詞だったはずだ。今になって、自分自身に返ってくるとは、思っていなかった。
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ゲンスの前を辞して、帳場を出た。
中庭で、顔なじみの荷役頭とすれ違った。十年前、幾度も一緒に荷を担いだ相手だ。目が合った。相手は口を開きかけ、結局、何も言わずに頭だけ下げて通り過ぎた。何かを言えば、自分の側の話にもなる。それを恐れる者の頭の下げ方だった。私は、それを責める立場にない。同じ下げ方を、昔は私もしていた。
冬の陽が、軋む潜り戸を白く照らしていた。かつて私はこの店の帳場で、合わない数字に「調査継続中」の判を押すことを覚えた。支店へ移ってからも、押し続けた。『やっておりました。十年ほど』。いつかレンに、そう明かした通りだ。それを恥じる気持ちより先に、当時の自分の手つきを今でも指が覚えていることに気づいて、寒くなった。
あの頃、判を押す手は震えなかった。上を信じていたからではない。信じないことに、疲れていただけだ。疑うより、押すほうが早い。早ければ、今日が終わる。そうやって、いくつもの今日を終わらせてきた。
私は、あの頃と同じ判を、今度は押さない。
断定は、まだできない。あの筆の主が誰であるか、今の私に言えるのは「見覚えがある」までだ。だが見覚えのある癖が、十年後の今の帳にも、生きて動いていることだけは、確かだった。
過去の亡霊ではない。今も、この帳場のどこかで、筆を握っている。
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宿へ戻る道すがら、若い会計方が一人、追いついてきた。ゲンスの弟子筋の男だ。名は、まだ知らない。
「バルト様。……処分に回される前の古い帳が、あと数冊、蔵にございます。お求めなら、今夜のうちに」
「なぜ、私に」
男は、少しの間、答えを選んでいた。
「ゲンス様のお顔を見て、思っただけです。あの方が、あんな顔で古い帳を出すのは、初めて見ました」
「今夜」
「明日になれば、蔵の鍵が替わると聞きました。理由は、存じません」
男は、それだけ言って足早に去った。名も名乗らなかった。恩を売る顔でも、脅す顔でもなかった。ただ、見てしまった者の顔だった。
鍵が替わる。誰の指図かは、まだ分からない。分かったのは、この帳場が今、静かに動き出したということだけだ。船が傾いたことに、乗組員たちが気づき始めている。
今夜、私は蔵へ行く。断定はできない。だが確かめずに王都を発てば、私はまた、疑わないほうを選んだ十年前の自分に戻る。それだけは、御免だった。
表通りは、朝市の声で埋まっていた。麦の焼ける匂いが漂い、買い物籠を提げた女たちが行き交う。荷馬車の轍の泥が、石畳の隙間で凍りついている。誰もが、崩壊まで十七日という数字など知らずに、今日の値を叫んでいる。それでいい、と思う。知らずに済む者は、知らずに済ませておくのが、こちら側の仕事だ。
露店の女将が、常連らしい客に声を張っていた。「今朝のは、いつもよりいい麦だよ」。売る側も買う側も、明日も同じ朝が来ると信じて疑わない顔をしている。十七日後、この声がまだ同じ調子で響いているかどうかは、王都の誰も知らない。
ハーレンへ発った二人は、もう戻る頃合いだろうか。レンの目に、棚の半分が映ったかどうか。私が今日見たものと、同じだけの重さで届いていればいい。片方だけが重さを知る話は、長くは保たない。
崩壊まで、残り十七日。
王都の帳場でも、残りの日々は、同じ速さで削れていく。




