第64話 灰色の目、ふたたび
補給局を出ると、急に音が増えた。
照合の小部屋には、窓がなかった。筆の音と、印の音だけ。そこから路地へ出ると、王都の生活がいちどに押し寄せてくる。物売りの声、荷車の軋み、子の泣き声、どこかの炉で何かを焼く匂い。冬の冷えた空気に、煮炊きの湯気が白く混じった。
レンはひとつ息を吐いた。白い息が、すぐに人波の中へ散る。
数日ぶりに、紙でないものを見た気がした。
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路地は、人で詰まっていた。
肩がぶつかるたびに、誰かの荷の匂いがする。塩漬けの魚、古い革、薬草、焦げた油。冬の冷えの底で、人いきれだけが温かい。物乞いの椀の音、天秤棒の軋み、値を競る声。補給局の小部屋の静けさが、嘘のようだった。
路地の角に、小さな机を出した男がいた。
代筆屋だ。墨と筆を並べ、字の書けない者の手紙を、銭をもらって書いてやる。机の前に、数人が並んでいた。
先頭の男は、北の宿場へ薬代を送りたいと言っている。代筆屋は筆を止めずに答えた。
「文は書ける。だが、北へ行く便は、いまふた月遅れだ。書いても、しばらくは動かんぞ」
「それでも、書いてくれ。送ったと、伝えたい」
男は、届かないかもしれない手紙に銭を払った。送った、という事実だけを買って帰っていく。
次の、順番の女が、たどたどしく用件を伝えた。北の村の、息子への手紙らしい。代筆屋は慣れた手で要点だけ書き取っていく。女が言った長い言葉が、短い数行になった。
「これで、届きますか」
「届くかどうかは、わしの仕事じゃない。書くまでが、わしの仕事だ」
女は銭を置いて、手紙を握って去っていく。
レンはその背を見送った。書く者と、運ぶ者と、届ける者は、みな別だ。どこか一つが欠ければ、手紙は途中で止まる。女には、その途中が見えない。書いてもらった一枚を握って、届くと信じて帰る。
北へ行く便が、ふた月遅れ。ここでも、物は王都から北へ流れない。手紙さえも、だ。
横で、ユリウスが低く言った。
「字の書けない者は、自分の手紙が何と書かれたかも、確かめられません」
「うん」
「書いた者が、別のことを書いていても、分からない」
レンは頷いた。昨日の荷役を思い出す。読めない者は、運ぶ。書けない者は、託す。どちらも、中身を確かめられない。
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代筆屋の机の、その先。
人波の隙間に、布で顔を隠した一人が立っていた。
あの連れだ。門前で見た、カルロスの連れ。王都に入ってからは、見ていなかった。それが、路地の人混みの中に、また立っている。
レンと、目が合った。
布の影の中で、目だけが見えた。濡れたように光る、灰色。
カルロスの目とは、違った。カルロスの目は、広間で揺れた。この目は、揺れない。レンを見ているのに、何も動かない。見られていることを、相手は分かっている。分かっていて、なお、動かない。
レンは足を止めた。もう一度、その目を見ようとする。
けれど、布はもう戻っていた。連れは人波に背を向けて、するりと隙間へ消える。追う間もなかった。
見たのか、見間違えたのか。灰色だった、とだけ、残った。
レンは連れの消えた方へ、《棚卸し》を回そうとした。王都じゅうの荷の流れの中から、あの一人の居場所を、辺境でするように、数で拾えないかと。
像は、結ばなかった。
王都は、繋がりが多すぎる。荷の線が何千本も重なって、一人を拾い出せない。辺境では、数えれば見えた。ここでは、数えても見えない。
レンは《棚卸し》を閉じた。これ以上は見えない、と判じて、手を引いた。
その手を引いたあとで、こめかみの奥が、遅れて鈍く軋んだ。
レンは目を閉じた。一拍だけ。
「補給官殿」
横で、ユリウスの声が低く落ちた。心配する声ではない。ただ、見ている声だ。
「なんでもない」
レンは目を開けた。ユリウスは、それ以上は聞かなかった。けれど、その目は聞くのをやめていない。商家の目が、レンの顔の色を一度だけ確かめた。
ニスが人混みを背で割って近づいてきた。
「いまの、見ました。布の男」
「ああ」
「あれは、一人で動いています。カルロス殿の供は、別に」
レンはそれを聞いた。
あの連れは、カルロスの連れだったはずだ。王都の門前まで、カルロスの先を歩いていた。それが今は、カルロスから離れて、一人で路地を動いている。
誰のために、動いているのか。
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宿に戻ると、辺境からの便が届いていた。
王都まで、初めて届いた便だ。リンドホルムを出てからの日数を思えば、ちょうど今ごろ着く。ガルドの字の、倉庫の報告。セリアの印の、短い書状。
その束の間に、もう一枚あった。
ミナの字だった。
大きく、まだ角の取れない字で、こう書いてある。
『ほきゅうたいちょうへ。きょうどうそうこ、ぜんぶうごいてる。フェンとかぞえた。ひとたなぶんの、すうじがあわない。まだうごかない。みはってる。ミナ』
レンはその一枚をしばらく見ていた。
荷札に名前を書けなかった子だ。炭で「ミナ」と書いてやった、あの子だ。その子の字が、辺境から王都まで、一枚の紙で届いている。
レンの口元が、少しだけ緩んだ。
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その夜、レンは灰色の目を思い返した。
路地で見た、揺れない灰色。カルロスの目とは、違った。けれど、どこかで見た気もする。カルロスの、ではなく。もっと前。もっと北の――
手繰ろうとした。その先を、もう一歩、手繰ろうとした。
こめかみが、また軋んだ。
思考が、そこで途切れた。繋がりかけた線が、痛みに散らされて、ほどけてしまう。誰の目だったか。どこで見たか。喉まで出かかって、出てこない。
レンは目の奥を指で押さえた。
机の上に、ミナの一枚があった。角の取れない字。きょうどうそうこ、ぜんぶうごいてる。
レンはその字を見て、息を整える。
あの目を、どこかで見た。
どこかで――その手前で、今夜は止まった。
崩壊まで、残り十九日。




