第65話 先回りする手
翌朝、レンはまた補給局の広間に立っていた。
崩壊まで、残り十八日。
昨日通った突き合わせの願いの、その次。受理の段が、もう一つあった。書役が、台帳を繰りながら言った。
「願いは、受けました。あとは、本物の控えと、最後の照合を。原本の控え帳を、こちらへ」
「原本の控え帳」
「三の棚にあります。月ごとの、大本の帳面です。それと数字が合えば、受理印を押せます」
三の棚。
レンは、昨日見たあの隙間を思い出した。背表紙の月が一月だけ飛んでいた、あの棚だ。
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書役が、三の棚へ向かった。
指で背表紙の月をたどっていく。一月、二月、三月。指が、止まった。
もう一度、たどる。今度はゆっくり。また同じところで止まった。
「……ない」
書役の声が、低くなった。
「一冊、ない。先月の、大本の控えが」
書役は、慌てて持ち出し簿をめくった。棚から帳面を出すときは、誰が持ち出したかを必ずこの簿に書く決まりだ。
めくる手が、止まった。
「持ち出しの、記しもない」
「無断で持ち出された、ということか」
書役は、首を振った。それから、もう一度、簿を確かめる。指が、頁の端で、わずかに震えていた。
「いえ……無断なら、ここが乱れます。慌てて抜けば、前後の頁に跡が残る。これは、簿の一行が、きれいに消してある。初めから無かったことに、なっている」
レンは、棚の前に立った。背表紙の月が、一つだけ飛んでいる。前後はある。真ん中の、一月分だけが抜けていた。
昨日、荷役が「別の人が持ってる」と言った、あの隙間だ。運ぶ前からなかった、と言っていた。
帳面が消え、持ち出しの記しも消えている。抜いた手は、抜いたことの跡まで、抜いていた。
レンは、昨日の荷役を探して、呼び止めた。
「この棚の、先月の控え。前は、誰が書いてた」
荷役は、少し考えた。
「……前は、痩せた書記の人が。この頃、見ないです。別の人に替わったって」
「替わった」
「はい。前の人の字は、もっと細かかった。今の繰越は、その人の字じゃ、ないです」
字の読めない荷役が、字の形だけは覚えていた。
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レンは別の月の控え帳を一冊引き寄せた。昨日、自分で足し直した帳面だ。
墨の濃い、あの繰越の行。前後より新しく、落ち着いて書き足されていた、あの一行。
繋がった。
大本の控えを、一冊抜く。抜けば、繰越の数字が宙に浮く。だから次の月の頭に、辻褄の合う数字を、後から書き足す。墨が濃いのは、後から書いたからだ。
抜くことと、書き足すこと。二つは、別々の悪さではなかった。一つの作業の、表と裏だ。頁を抜いた手と、繰越を書き足した手は、同じ手だ。
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ヤールが、抜けた棚の前で、背表紙の並びを見ていた。関所から連れてきた書記補佐だ。書記課の中を、内側から知っている。
「レン殿。この棚から一冊抜くには、ただ持ち出すだけでは、できません」
「どういうことだ」
「大本の控えを抜き出すには、書記課の決裁が要ります。それも、下の書役の印では足りない。課の、高い位置の決裁印が要る様式です。私の父も……扱えない位置でした」
ヤールの声が、一度、途切れた。父の名は、出さなかった。
「つまり、これを抜いた手は」
「下の者では、ありません。決裁の届く、高い手です」
レンは墨の濃い繰越の行をもう一度見た。
几帳面で、落ち着いた筆だった。慌てた手ではない。時間と、権限のある手だ。
誰かが急がず、咎められもせず、毎月、頁を抜いて数字を書き足してきた。何年も。
「誰が抜いた」
レンは書役に問うた。書役は、答えられなかった。運ぶ者は、知らない。書く者も、上の決裁までは見えない。
レンは棚の隙間を見た。
誰が、ではなかった。
頁を抜くのに、決裁の様式がある。正しい手続きで、頁が消せる。これは、誰かが規則を破ったのではない。規則の中に、頁を抜く道が、初めから通してある。
悪い者が一人いるのではない。抜けるように、出来ている。
「……仕組みだ」
レンは低く言った。それきり、言葉にしない。
仕組みが見えた。見えたところで、その仕組みがレンの請求を止めている。掴んだぶんだけ、紙は遠ざかる。
「この一枚が抜けるたびに、北のどこかで、薬を待つ列が一つ伸びる」
レンは、誰にともなく言った。抜かれたのは紙ではない。紙の向こうの、誰かの順番だ。
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抜けた頁の品目の控えだけは、別の綴りに残っていた。何がその頁に載っていたのか、レンは目で追った。
冬の飼葉。来春の、種籾。
今すぐ要るものではない。飼葉は冬を越すため、種籾は春に蒔くため。すぐに減って困るものではないから、抜いても、しばらくは誰も気づかない。
レンは一度それを目で素通りさせ、それから、ふと止めた。
春に蒔くはずの籾が、いま、抜かれた頁の中で眠っている。
それ以上は、考えなかった。今は、目の前の受理が止まっている。
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受理印は、押されなかった。
本物の控えがない以上、最後の照合はできない。願いは、ここで止まった。昨日、一枚だけ前へ進んだ紙が、また宙に浮く。
崩壊まで、残り十八日。
紙は、まだ一歩も進んでいない。
レンは抜けた棚の隙間をもう一度見た。
頁を抜いたのは、誰か。形は見えた。高い所の、几帳面な手。けれど、顔がない。
そして、その隙間の先を思った。
抜かれた頁に載っていた荷は、どこへ消えたのか。帳簿の上では満ちて、棚は半分も埋まっていない、あの薬倉。
ハーレン。
レンはその名を、もう一度胸に置いた。




