第63話 抜けた頁の気配
突き合わせは、翌日に許された。
補給局の脇の、窓のない小部屋。古い控え帳をここへ運び込んで照合する。レンとユリウスに、立ち会いの書役が一人ついた。
控え帳を運んでくるのは、下級の荷役だった。年は若い。両腕に帳面の束を抱え、棚の番号を声に出さず、指で数えて並べていく。
書役が、苛立った声を出した。
「そこじゃない。三の棚だと言った」
「……すみません」
荷役は、棚の札を見ていない。札の字が、読めないのだ。代わりに棚の高さと、札の色で覚えている。けれど王都の棚は、札の色が途中で変わっていた。古い棚は青札、新しい棚は緑札。荷役は、その差を教わっていない。
レンは荷役の持つ帳面の背に、炭で小さな印をつけた。三本線と、丸。
「この帳面は、三本線の棚。次のは、丸の棚。色じゃなく、これで合わせるといい」
荷役は、印と棚を見比べた。それから三本線の帳面を三の棚へ戻す。
「……合いました」
「うん」
戻すとき、レンは三の棚の並びに、一冊ぶんの隙間があるのに気づいた。背表紙の月が、一月だけ飛んでいる。
「ここ、一冊ない」
「あ……運ぶ前から、なかったです。たぶん、別の人が持ってます」
荷役は、それ以上は知らないようだった。誰が持っているのかも、いつからないのかも。運ぶだけの者は、そこまで知らされない。レンは、その隙間を覚えておいた。今日のところは、照合が先だ。
書役が怪訝な顔をした。荷役が字を読めないことを、たぶん初めて知った顔だ。レンは、それ以上は言わなかった。
字の読める者だけが、この帳簿に触れる。読めない者は、ただ運ぶ。運ぶだけの者は、中身がすり替わっても気づけない。
レンは、それを胸に留めた。
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照合が始まった。
ユリウスは控え帳を一冊、手に取った。頁を繰る指が、商家の手つきだ。
「本店では、月の替わり目に、前月の繰越をかならず次の頁の頭へ書き写しました。繰越が合わなければ、その月の帳簿は閉じられない。決まりでした」
「ここも、同じ形か」
「形は、同じです」
ユリウスは繰越の行を指でたどった。レンも隣で見る。
前月の終わりの数字。次の月の頭の、繰越の数字。たしかに書き写されている。前の月と、次の月が、きちんと繋がっていた。
「合っていますね」
「ええ。合っております」
ユリウスは、次の月をめくった。そこも繰越は繋がっている。さらに次も。レンは頁を追いながら、肩の力が少し抜けた。昨日から、合わないものばかり見てきた。合うものを見るのは、久しぶりだ。
ユリウスも、しばらく黙って頁を繰っていた。その指が、迷いなく数字を拾っていく。
「本店の若い頃、繰越が銀貨一枚ぶんだけ合わず、夜通し帳簿をめくったことがあります」
ユリウスが、頁に目を落としたまま言った。
「結局、書き写しの一字を読み違えていただけでした。それでも、合うまでは眠れない。帳簿とは、そういうものです。一枚合わなければ、何百枚あっても閉じられません」
「ここの帳簿は、閉じてあるのか」
「閉じて、あります。きれいに」
ユリウスの指が、止まった。
「……きれいすぎますね」
褒めているのではない。
「本店の繰越は、もっと汚れます。何度も見比べて、書き直して、墨が掠れる。ここの繰越は、一度で書いたように揃っている。夜通し探した手の跡が、どこにもない。月の替わり目の、忙しい手のものではありません」
レンはその行を見た。
言われてみれば、繰越の一行だけ、墨の色がわずかに濃い。前後の字より、新しい。後から、落ち着いて書き足したような濃さだ。
ユリウスの知識で、照合は進んだ。本店書式の控えが揃い、差し戻されていた願いが、一枚、受理の側へ通る。朝から初めて、紙が前へ動いた。
「動いた」
レンは小さく言った。昨日から、紙は増えるばかりだった。一枚が前へ進んだのは、これが初めてだ。
通った控えの、宛先の欄。そこに、見覚えのある地名があった。
ハーレン。
昨日、窓口の書役が口にした薬倉の名だ。帳簿では薬が満ちて、棚は半分も埋まっていない場所。その名が、今度は控え帳の文字として、宛先の欄に並んでいる。
レンはその名をもう一度覚えた。
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ひと区切りついたとき、ユリウスが帳面を閉じて、ぽつりと言った。
「私どもの商いでは、倉に銀や荷を預けると、証文を一枚切ります。倉庫証券、と申します。あれは、紙と現物を一枚に縛る。証文が動けば、倉の物も動く。証文の数と、倉の物の数は、いつも同じです」
「ここは、違うのか」
「ここの帳簿は、紙と物が、別々に歩いております」
ユリウスは、それ以上を言わなかった。
レンはその言葉を胸の中でなぞった。紙と現物を、一枚に縛る。二つが別々に歩くから、紙だけが満ちて棚が空く。その縛り方を、いつか作るのだろう。今はまだ、控え帳の前にいる。
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照合が一段落して、書役が席を外した。
レンは通したばかりの控え帳を、念のためもう一度引き寄せた。繰越の数字を、自分で足し直してみる。
前の月の、薬瓶の数。次の月の頭の、繰越。
合わない。
少しだけ、足りない。
レンは、もう一月前を繰った。
そこも合わない。同じだけ、足りない。
さらに前。同じだ。
毎月、繰越が、決まった数だけ足りなかった。けれど合計の見た目は、揃っている。足りない分をどこかで埋めて、表の数字だけ合わせてある。
レンは、指を止めた。
間違いなら、毎月同じ額を、同じ方向には間違えない。間違いは、ばらつくものだ。これは、ばらついていない。几帳面に、同じだけずれている。
誰かが、合うように見せて、合わせていない。ずっと前から。毎月、欠かさず。
墨の濃いあの繰越の行を、レンはもう一度見た。後から書き足したような、一行。
合うはずの数字が、合わない。
合わないのに、表は、合っている。
崩壊まで、残り十九日。




