第6話 辺境都市の胃袋
リンドホルムの朝は、倉庫の鍵が鳴る音から始まった。
ガルドが腰の鍵束を揺らしながら共同倉庫の扉を開ける。まだ日が昇りきらない時刻だというのに、門前にはもう荷馬車が並び始めていた。
昨日の鉱山事故で、治療院は一晩中動き続けた。
死者は出なかった。
その知らせは街に広がり、倉庫前には朝から感謝を口にする者が何人も来た。だがレン・アスターは、その言葉を受け取る余裕がなかった。
感謝はありがたい。
けれど、感謝では在庫は増えない。
仮分類棚の鍵を返そうとすると、ガルドは顔をしかめた。
「持ってろ」
「日没までの約束でした」
「明日の朝まで延長した。まだ朝だ」
「屁理屈では」
「倉庫では理屈が通れば勝ちだ」
ガルドはぶっきらぼうに言って、倉庫の奥へ歩いていく。
レンは鍵を握った。
昨日まで自分のものではなかった鍵。今も正式なものではない。けれど、これがあれば仮分類棚を開けられる。
届くべきものを、少しだけ届かせやすくできる。
「レン」
倉庫の入り口にセリアが立っていた。
白い外套は昨日より簡素なものに変わっている。袖をまとめ、髪も後ろできつく結んでいた。領主というより、現場を見に来た管理者のようだった。
「昨日はご苦労さまでした」
「治療院の人たちが頑張ったからです」
「それでも、物資が届かなければ治療はできませんでした」
レンは返事に困った。
セリアはそれ以上言わず、手元の板書を差し出した。
「ガルドから聞きました。医療物資は再補充が必要だと」
「はい。二日以内に補充しないと、次の事故や魔物襲撃に対応できません」
「他には?」
レンは倉庫内を見た。
昨日の混乱で、医療物資の問題は見えた。だがそれは、この街の詰まりの一部でしかない。
物資の流れは、人の体に似ている。
一箇所の血流が悪いとき、そこだけが悪いとは限らない。
「食料倉庫を見せてください」
セリアがわずかに目を細めた。
「食料ですか」
「はい。治療院が詰まっていたなら、他も詰まっています」
「ガルド」
セリアが呼ぶと、倉庫長は奥から顔を出した。
「今度は食料庫だそうです」
「次から次へと」
ガルドは面倒そうに言いながらも、腰の鍵束から別の鍵を選んだ。
「ついてこい。胃袋を見せてやる」
共同倉庫の裏手には、石造りの食料庫があった。
壁は厚く、窓は少ない。中に入ると、麦、豆、干し肉、干し魚、根菜、酒樽、油壺が棚ごとに並んでいる。昨日の倉庫より整って見えた。
セリアが少しだけ安堵した顔をする。
「食料は、ありますね」
「量だけ見れば」
レンは食料庫の中央に立った。
《棚卸し》の文字が、視界の端に浮かぶ。
麦、備蓄十分。
豆、備蓄十分。
干し肉、備蓄中。
干し魚、劣化進行。
塩、残量不足。
保存燃料、残量不足。
乾燥炉、停止中。
塩蔵庫、未稼働。
冬越し可能日数、急減。
レンは息を吐いた。
「食料はあります」
セリアが頷く。
「なら」
「でも、このままだと腐ります」
セリアの表情が止まった。
ガルドが低く唸る。
「腐る? 麦も豆も乾いてるぞ」
「麦と豆は大丈夫です。問題は干し魚と肉、根菜、それから今後入ってくる鉱山村向けの保存食です」
レンは干し魚の樽を開けた。
海から遠いリンドホルムでは、魚は貴重な保存食だ。だが樽の底に近い部分は、塩がまばらにしか回っていない。
「塩が足りていません」
「塩なら棚に」
「残量は三日分です」
「三日?」
ガルドが棚へ歩き、塩袋を開けた。
見た目にはまだある。
だがレンには、用途別の消費が見えていた。
治療院の消毒用。
食料保存用。
皮革職人用。
鉱山労働者の配給用。
神殿の炊き出し用。
そして、冬支度用。
「街全体の必要量で見ると足りません。食卓の塩だけなら持ちます。でも保存に回す分がない」
セリアは板書を握り直した。
「塩の入荷予定は?」
ガルドが答える。
「南の河川便が三日後です」
「なら間に合うのでは」
「その便も遅れています」
レンが言った。
二人がこちらを見る。
「門前の滞留に、南河川便の荷が混じっていませんでした。昨日入るはずの酒樽が来ていない。酒樽が来ていないなら、同じ船団の塩も来ていない可能性が高い」
ガルドの顔が渋くなった。
「船団の遅れか」
「川の水位か、関所か、積み替えです」
「なぜそこまで」
「酒樽の荷札だけが先に届いていました。荷がないのに札だけあるのは、船団がどこかで積み替えに失敗しているか、荷だけ押さえられているときです」
セリアが静かに言った。
「塩が届かなければ、どうなりますか」
「今ある魚と肉の一部が冬前に使えなくなります。根菜の保存も短くなる。鉱山村への保存食も減ります。そうなると鉱山が止まる」
「鉱山が止まれば、鉄具も止まりますね」
「はい。荷車の修理部品も、農具も、釘も不足します」
セリアは目を伏せた。
治療院の次は食料。
食料の次は鉱山。
鉱山の次は荷車。
物資は一つずつ独立しているのではない。全部つながっている。
「燃料は?」
セリアが聞いた。
レンは食料庫の奥の薪束を見た。
「足りません」
ガルドが頭を抱えた。
「またか」
「乾燥炉を動かす燃料がありません。厨房用、鍛冶場用、治療院用、神殿用で取り合いになっています。今のままだと、食料を乾燥させる前に燃料が冬支度へ回ります」
「冬支度を削れば」
「老人と子供が凍えます」
セリアは口を閉じた。
レンは言いすぎたかと思ったが、訂正はしなかった。
事実だ。
燃料は暖かさではなく、命の残り時間でもある。
「中央へ支援を求めます」
セリアが言った。
「王都の備蓄から塩と燃料を」
「間に合いません」
レンは即答した。
セリアの表情が少し硬くなる。
「なぜです」
「申請、承認、出庫、護衛、輸送。早くても二週間。今詰まっている街道と倉庫を通るなら、もっとかかります」
「では、どうしろと」
声に苛立ちが混じった。
レンはその苛立ちを責めなかった。
領主が中央へ頼ろうとするのは自然だ。だが、届くまでの時間を見なければならない。
「今あるものを使います」
「塩も燃料も足りないと言ったばかりでは」
「街の中で、使われていないものがあります」
ガルドが顔を上げた。
「何だ」
「古い乾燥炉。廃坑近くにありませんか」
ガルドの目が動いた。
「……あるにはある。昔、鉱山村向けの保存食を作っていた炉だ。今は使っていない」
「なぜ」
「煙道が詰まって、燃費が悪い。修理する金も人手もない」
「燃料を食うなら駄目では?」
セリアが言う。
「煙道を掃除すれば使えるかもしれません。乾燥炉は通常のかまどより少ない燃料で大量に乾かせる。薪を燃やすのではなく、廃材や木くずも使える可能性があります」
「木くず」
「旧倉庫街に、壊れた樽や荷箱が積まれていませんか」
ガルドが嫌そうな顔をした。
「ある。山ほどある。見たくもない」
「見ます」
「だろうな」
レンは続けた。
「塩蔵庫も、使われていないものがあるはずです。古い街道沿いの倉庫。岩塩を一時保管していた場所」
セリアがガルドを見る。
ガルドは渋々頷いた。
「北門の古倉庫だ。今は空箱置き場になってる」
「そこを整理すれば、今ある塩を優先用途ごとに分けられます。食卓用、治療用、保存用を同じ棚に置いているから、消費が読めない」
「塩を棚で分けるだけで増えるのですか」
「増えません」
レンは首を振った。
「でも、足りない塩を一番長く持たせることはできます」
セリアはしばらく黙っていた。
昨日の倉庫での混乱、鉱山事故、治療院へ届いた清潔布。それらを思い出しているのだろう。
やがて彼女は、食料庫の壁に手を置いた。
「この街には食料がある」
「はい」
「でも、このままでは冬まで持たない」
「はい」
「理由は、塩と燃料と保存の流れが壊れているから」
「そうです」
セリアは小さく息を吐いた。
「ガルド。旧乾燥炉と北門の古倉庫を開けます」
「セリア様、本気ですか。あそこは何年も使っていません。埃と鼠の巣ですよ」
「埃と鼠で済むなら、食料を腐らせるよりましです」
ガルドは一瞬だけ驚いた顔をして、それから苦笑した。
「領主様が言う台詞じゃありませんな」
「昨日から、領主らしいことばかりしていても間に合わないと学びました」
セリアはレンを見た。
「レン。あなたは旧乾燥炉と古倉庫を見て、使えるか判断できますか」
「見れば」
「では見てください」
「ただし」
レンは言った。
「俺だけでは無理です。煙道を見られる職人、荷箱を運ぶ人手、塩を扱える者、食料庫の記録を持っている人が必要です」
セリアは頷いた。
「手配します」
「あと、昨日の医療物資の再補充も並行しないといけません」
「それも」
「治療院と神殿にも確認が必要です。塩は食料だけでなく、治療や清潔にも使う」
「わかりました」
即答だった。
レンは、セリアがまた自分を信じていることに気づいた。
重い。
だが、嫌な重さではなかった。
そのとき、食料庫の入口から小さな声がした。
「あの」
振り向くと、十歳ほどの少女が立っていた。薄い上着に、肩から斜めに革の鞄をかけている。髪は短く、膝には擦り傷があった。
ガルドが眉を上げる。
「ミナ。お前、また勝手に倉庫へ」
「勝手じゃないよ。神殿から伝言。炊き出しの塩が昨日から半分に減らされたって。あと、古着倉庫の薪束も誰かが持っていったって」
少女、ミナはそこでレンを見た。
「その人が、昨日の倉庫の人?」
「たぶん」
レンが答えると、ミナはまじまじと彼を見た。
「荷物がどこにあるかわかる人?」
「全部ではないけど」
「じゃあ、捨てられた倉庫街も見た方がいいよ」
ガルドの顔がさらに険しくなった。
「なぜだ」
「昨日の夜、知らない大人が空箱を運び出してた。空箱っていうか、壊れた樽とか、古い板とか。あれ、燃やせるんじゃないの?」
レンとセリアは顔を見合わせた。
壊れた樽。
古い板。
廃材。
燃料。
乾燥炉。
レンの視界に、細い線がつながった。
「ミナ」
レンは少女の名を呼んだ。
「その倉庫街まで案内できる?」
ミナは胸を張った。
「できるよ。あたし、裏道なら大人より詳しいから」
ガルドがぼそりと言う。
「知ってる。いつも勝手口から入ってくるからな」
ミナは舌を出した。
セリアは初めて、少しだけ笑った。
リンドホルムの胃袋は、思っていたより深く傷んでいる。
だが、まだ食料はある。
塩は少ないが、分けられる。
燃料は足りないが、捨てられたものの中に眠っているかもしれない。
レンは古い荷札を胸元で押さえた。
あるのに届かない。
使えるのに捨てられている。
それを放っておくことは、やはりできなかった。
「行きましょう」
レンは言った。
「食料が腐る前に」




