第5話 勇者様、薬がありません
勇者アルヴィンは、勝っていた。
北方街道の先にある朽ちた砦で、魔王軍の前哨部隊を撃破した。黒い角を持つ魔物を三体、翼のある斥候を六体。配下の護衛兵にも死者は出ていない。
聖剣はよく応えた。
剣士ダリオは敵の隊長格を斬り伏せ、魔法使いリゼットの火球は敵陣の柵を焼き払った。神官エリナの治癒も間に合った。
誰が見ても、勇者パーティーの勝利だった。
「見たか、アルヴィン!」
ダリオが返り血のついた剣を肩に担いで笑う。
「あの角付き、俺があと一歩遅れてたら逃げられてたぞ」
「助かった」
アルヴィンは短く答えた。
砦の中庭には、魔物の残した黒い灰が風に散っている。北の空は暗く、森の奥にはまだ敵の気配があった。
だが、前哨は崩した。
このまま押せる。
そう思ったとき、背後からエリナの焦った声がした。
「待ってください、その布は使えません!」
アルヴィンは振り返った。
負傷した護衛兵の腕に、別の兵が布を巻こうとしている。だがエリナがそれを止めていた。
「どうした」
「清潔布が足りません。これは濡れていて、泥がついています」
ダリオが首をひねる。
「布くらい洗えばいいだろ」
「傷口には使えません。化膿します」
エリナの声は硬い。
アルヴィンは荷馬車の方を見た。
「予備は?」
護衛兵が木箱を漁っている。
「探しています!」
「早くしろ」
アルヴィンは苛立ちを押さえた。
戦いには勝った。なのに、たかが布で動きが止まっている。
たかが布。
そう思った瞬間、レンの声が頭をよぎった。
清潔布も八枚、使用できません。
アルヴィンは眉を寄せた。
あれは昨日のことだ。
勝利の日に水を差し、士気を下げ、進軍を止めろと言った荷物番。
追放したことに後悔はない。
ないはずだった。
「ありました!」
護衛兵が箱を抱えてきた。
だが、蓋を開けたエリナの顔が青くなる。
「これ、薬草袋です。清潔布じゃありません」
「何?」
「荷札は清潔布になっています。でも中身が違います」
ダリオが舌打ちした。
「誰だよ、詰めたやつ」
誰も答えない。
いつもなら、レンが答えた。
どの箱がどの馬車に積まれていて、いつ詰め替えられたか。どの荷札が濡れて読みにくくなっているか。誰が間違えたかではなく、今どこに何があるか。
あいつなら、すぐに言っただろう。
アルヴィンはその考えを振り払う。
「別の箱を開けろ」
「はい!」
護衛兵たちは荷馬車へ走った。
リゼットが焦れたように杖を鳴らす。
「軽い傷なら、もう布なしで治癒してしまえばいいでしょう。エリナ、魔力は?」
「残り半分です。さっきの戦闘でかなり使いました」
「半分もあれば十分じゃない」
「重傷者が出たら足りません」
「出さなければいいのよ」
リゼットの言葉に、エリナは唇を噛んだ。
アルヴィンは二人の間に入る。
「今は言い争うな。エリナ、応急処置を。リゼットは周囲警戒」
「わかったわ」
指示を出す。
隊は動く。
やはり問題ない。
レンがいなくても、遠征は進む。
そう思った直後、荷馬車の方で木箱の割れる音がした。
「す、すみません!」
護衛兵の一人が叫ぶ。
「下の箱が湿っていて、持ち上げたら底が抜けました!」
アルヴィンは歩み寄った。
荷馬車の脇に、薬瓶が転がっていた。二本は割れている。薄い琥珀色の液体が土に吸われていく。
昨日、レンが見ていた薬箱だ。
薬箱を第一馬車に移してください。
今の場所だと、次の雨で残りも駄目になります。
アルヴィンは奥歯を噛んだ。
「なぜ移していない」
護衛兵が震えた。
「申し訳ありません。昨夜、荷を積み直す者がいなくて」
「誰の担当だ」
問いかけてから、アルヴィンは答えに気づいた。
レンだ。
荷の積み直し。薬箱の位置。濡れた布の乾燥。馬の飼葉の確認。矢羽根の残量。
誰の手柄にもならない、誰も見ていなかった仕事。
それを、あいつが毎日やっていた。
アルヴィンの手が、一瞬、薬瓶の破片の上で止まる。
拾うべきか。
拾えば、あの男の仕事を引き継ぐことになる。引き継ぐということは、あの男が必要だったと認めることだ。
追放したのは、自分だ。
アルヴィンは破片から手を離した。
代わりに、護衛兵を呼ぶ。
「片付けろ。手は切るな」
「は、はい」
逃げているのではない。
そう、自分に言い聞かせた。
ダリオが気まずそうに頭をかいた。
「まあ、二本くらいならまだ」
「二本ではありません」
エリナが言った。
「昨日の時点で三本失っています。今のでさらに二本。残りは」
護衛兵が薬箱を確認する。
「治療薬、残り……九本です」
「九本?」
エリナの声が震えた。
「昨日の朝は十六本あったはずです」
「戦闘で使いました。今日の負傷者にも」
「九本では、次に同じ規模の戦闘があったら足りません」
沈黙が落ちた。
砦の外では、遠くの森で魔物の鳴き声がする。
アルヴィンは言った。
「ラトの補給村まで進む。そこで受け取ればいい」
自分の声が少し硬いことに気づいた。
ラト。
昨日レンが言っていた補給村。
次の補給村、ラトに送られるはずの荷が未着の可能性があります。
伝令が戻らないのは異常です。
「アルヴィン」
ダリオが気楽な声を出した。
「考えすぎだ。あいつの言ってたことが少し当たったからって、全部当たるわけじゃない。俺たちは勝ってる」
「そうだな」
アルヴィンは頷いた。
「俺たちは勝っている」
言葉にすると、本当のような気がした。
二度繰り返せば、もっと本当になる気がした。
だから三度目は言わなかった。
言えば、嘘だと自分で気づいてしまう。
そう言葉にすれば、事実になる気がした。
その日の夕方、遠征隊はラトの補給村へ到着した。
村は静かだった。
静かすぎた。
いつもなら、村の入口には荷馬車が二台は待っている。王国軍の補給印が押された木箱、干し肉の樽、矢束、薬箱、飼葉袋。それを受け取り、ここで一晩休んでから北へ進む。
だが、村の広場には何もなかった。
古い井戸。
閉じた倉庫。
不安そうな村人たち。
そして、泥だらけの伝令兵が一人、倉庫の前に座り込んでいた。
「どういうことだ」
アルヴィンは馬から降りた。
村長らしき老人が慌てて頭を下げる。
「勇者様、申し訳ございません。補給物資は、まだ届いておりません」
「まだ?」
「はい。南の宿場で足止めされていると」
リゼットが声を荒げた。
「足止め? 勇者様の補給よ」
「街道の橋が傷み、荷馬車が通れないそうで……それに、商隊の荷も詰まっていると聞いております」
エリナが小さく呟いた。
「レンの言った通り……」
アルヴィンは彼女を見た。
エリナは慌てて口を閉じる。
ダリオが鼻を鳴らした。
「だったら村の備蓄を出せばいい」
村長の顔がさらに青くなる。
「備蓄は、先月の魔物襲撃で使いまして。残っているのは村人の分だけでございます」
「王国のためだぞ」
「ダリオ」
アルヴィンは制した。
村長を責めても薬は増えない。
その言葉が、なぜか頭に浮かんだ。
薬は増えない。
士気では薬は増えません。
アルヴィンは拳を握った。
「今ある物資を確認する。薬、食料、飼葉、矢羽根。全部だ」
村長は困惑した。
「全部、と申されましても」
「全部だ」
そう命じたものの、誰もすぐには動けなかった。
何をどこから数えればいいのか。
どの箱が遠征隊用で、どれが村のものなのか。
どれが使える薬で、どれが古い薬なのか。
誰もわからない。
レンなら。
アルヴィンはまた、その名を思い浮かべてしまった。
違う。
勇者は、一人の荷物番がいなくなった程度で止まらない。
「エリナ、薬を確認しろ。ダリオ、矢を。リゼット、食料倉庫を見ろ」
指示を飛ばす。
今度は動き出した。
だが遅い。
誰も慣れていない。
箱を開け、荷札を読み、村長に聞き、また箱を閉じる。荷の数を数えている間にも、馬が鼻を鳴らして飼葉を求めていた。
やがてエリナが戻ってきた。
顔色が悪い。
「治療薬は、村に三本だけです。しかも一本は古くて、使えるかわかりません」
ダリオが戻る。
「矢はある。けど、矢羽根の替えがほとんどない。曲がってるのも混じってる」
リゼットは不機嫌そうに言った。
「保存食は村の分を除けば、二日分。飼葉は……足りないわね」
アルヴィンは目を閉じた。
七日目に治療薬が尽きる。
九日目に馬が二頭倒れる。
十一日目に撤退用の食料を切る。
レンの声が、はっきりと思い出された。
まだ七日目ではない。
だが、薬はもう尽きかけている。
それでもアルヴィンは、認めたくなかった。
認めてしまえば、昨日の自分が間違っていたことになる。
勇者である自分が、戦い以外の何かを見落としていたことになる。
「明日の朝、補給が来るかもしれない」
アルヴィンは言った。
「ここで一晩待つ」
ダリオが頷く。
「それがいい。来なかったら、そのとき考えよう」
エリナだけが黙っていた。
夜が降りた。
ラトの村には、勝利の宴はなかった。
護衛兵たちは小さな火の周りで黙って保存食をかじり、エリナは薬箱の前で残量を何度も確認していた。リゼットは不満げに毛布を被り、ダリオは剣を抱えて眠っている。
アルヴィンは眠れなかった。
村の外れで、馬が一頭、低く鳴いた。
飼葉を減らしたせいだ。
夜番の兵が言った。
「勇者様、明日の進軍は」
アルヴィンは答えられなかった。
進めば、薬が足りない。
戻れば、魔王軍に背を向ける。
待てば、食料と飼葉を削る。
勝つ道はいくつも見える。
だが、帰る道が細くなっている。
アルヴィンは初めて、そのことを実感した。
そのとき、南の街道から一頭の馬が駆け込んできた。
乗っていたのは、泥まみれの補給兵だった。
男は村の入口で転がるように馬から降りる。
「勇者様……申し訳、ございません」
アルヴィンは歩み寄った。
「補給は」
補給兵は唇を震わせた。
「リンドホルムの倉庫で、荷が詰まっています。橋の修理材も届かず、南の宿場で足止めが続いています。明日の到着は……無理です」
誰も声を出さなかった。
補給兵は続ける。
「それと、薬箱の一部が、別の荷に積み替えられた可能性があると」
エリナが両手で口を覆った。
ダリオも、今度は笑わなかった。
リゼットの顔から血の気が引いている。
アルヴィンは空を見上げた。
星は出ている。
明日は晴れるだろう。
進軍にはいい天気だ。
だが、薬がない。
飼葉も足りない。
矢羽根もない。
そして、レンもいない。
アルヴィンは、昨日の焚き火の前で見下ろした青年の顔を思い出した。
このまま進めば、帰れなくなる。
あの言葉は脅しではなかった。
勝利に水を差す不吉な言葉でもなかった。
報告だった。
アルヴィンはようやく、それを理解し始めていた。
そして報告を聞かなかった代償は、明日から数えることになる。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




