第4話 倉庫を動かせば命が助かる
倉庫を動かすのは、魔物を倒すより難しい。
少なくともレン・アスターは、リンドホルムの共同倉庫でそう思った。
「その箱は治療院行きです。雑貨棚に戻さないでください」
「でもよ、昨日は雑貨扱いで入れたんだぞ」
「昨日が間違いです」
「言い切るなあ、この若造」
「間違いです。荷札に治療院の印があります」
人夫の男は面白くなさそうに顔をしかめたが、監督役のガルドが睨むと、渋々箱を運び直した。
倉庫内は、朝からずっと騒がしい。
レンに与えられた権限は、日没までの仮整理だけ。正式な倉庫改革ではない。棚を壊すことも、人員配置を変えることも、長期の保管規則を決めることもできない。
それでも、今日中にやるべきことは山ほどあった。
まず、治療院向けの清潔布を拾い出す。
次に、薬液瓶を割れ物区画へ移す。
湿気の多い南壁際から薬草を離す。
門前で止まっている医療物資を先に入れる。
食料品を日陰へ。
燃料荷を濡れない軒下へ。
赤線の優先札を、医療、食料、その他に分ける。
どれも地味だ。
だが、一つ間違えば命に関わる。
「レン! この箱はどこだ!」
ガルドが木箱を蹴るように示した。
レンは一目見た。
外側の荷札は香辛料。
内側の焼印は薬師ギルド。
箱の底、湿り。
中身、消毒用蒸留酒。
「香辛料じゃありません。薬師ギルドの消毒用蒸留酒です。治療院行きに回してください」
「またか! 誰だ、香辛料札を貼ったやつは!」
ガルドの怒声に、人夫たちが肩をすくめた。
セリア・グランヴェルは倉庫の入り口で、その様子を見ていた。
白い外套はすでに埃をかぶっている。領主が倉庫に立つだけで、人夫たちの動きは少し変わった。だがセリア自身は、偉そうに命令を飛ばすのではなく、黙って荷の流れを見ている。
レンはそれを少し意外に思った。
王都の貴族なら、匂いと埃に耐えられずすぐ出ていく。
彼女は出ていかない。
「レン」
セリアが声をかけた。
「はい」
「治療院へ送れる物資は、現時点でどれだけありますか」
「清潔布三十包。薬液瓶六箱。消毒用蒸留酒二箱。乾燥薬草は、使えるものが四箱、乾燥し直せば使えるものが二箱。捨てるべきものが一箱」
「捨てるべきもの」
セリアの表情が曇る。
「もったいないですが、使えば患者が悪くなります」
「わかりました。捨てます」
即答だった。
レンは少しだけ目を見開いた。
「確認しないんですか」
「ガルド」
セリアが倉庫長を見る。
ガルドは苦々しい顔で頷いた。
「あれは駄目です。臭いが出ている」
「では捨てます。レン、続けてください」
「……はい」
やりやすい。
そう思った瞬間、レンは胸元の古い荷札に触れそうになり、手を止めた。
やりやすい現場など、いつ崩れるかわからない。
だからこそ、今のうちに進める。
「次は荷車です。治療院へ送る分を一台にまとめます。清潔布は上、瓶は中央、薬草は揺れないように箱の間へ。消毒用蒸留酒は横倒しにしない」
「おい、瓶が真ん中だと取り出しにくいぞ」
人夫の一人が言った。
「取り出しやすさより割れにくさです。治療院に着く前に割れたら意味がない」
「だが、いつもは」
「いつもで割れてます」
男は黙った。
ガルドが喉の奥で笑った。
「言うな、小僧」
「事実です」
「そこが腹立つんだ」
ガルドの声には、朝ほどの棘はなかった。
倉庫内の空気も少しずつ変わっていた。
最初、人夫たちはレンをよそ者の若造として見ていた。だが、彼が指差した場所から実際に必要な荷が出てくる。傷んだ箱を見抜く。積み違いを直す。無駄に怒鳴らない。
そして、動かした荷がきちんと出口へ流れていく。
倉庫の通路に、久しぶりに道ができていた。
レンの視界に表示が浮かぶ。
治療院向け第一次配送、準備率七十二パーセント。
清潔布、必要数充足。
薬液瓶、充足。
消毒用蒸留酒、充足。
乾燥薬草、不足。
医療物資需要、急増予測。
鉱山街道、事故発生確率上昇。
まただ。
レンは倉庫の入り口から外を見た。
西の空に、鉱山の方角から黒い雲のような土埃が上がっている。
「ガルドさん」
「なんだ」
「鉱山街道から伝令は来ていますか」
「鉱山? いや、聞いていない」
「荷車をもう一台、空で用意してください」
「なぜだ」
「たぶん、運ぶものが増えます」
ガルドが眉をひそめた。
そのとき、城門の方から鐘が鳴った。
緊急を知らせる、短い鐘。
倉庫内の人夫たちが動きを止めた。
門番の声が響く。
「鉱山街道で落盤! 負傷者多数! 治療院へ搬送準備!」
セリアが顔色を変えた。
「落盤……」
ガルドがレンを見た。
「お前」
「今は理由より準備です」
レンは声を張った。
「治療院向けの荷車を先に出します! 清潔布、薬液瓶、消毒用蒸留酒を積んだ一台目はすぐに出発! 二台目は空で鉱山街道へ向けてください。帰りに軽傷者と道具を載せる。薬草は乾いているものだけ持たせます。湿ったものは使わせないでください!」
人夫たちは一瞬だけ固まった。
ガルドが怒鳴った。
「聞こえたな! 動け!」
倉庫が一斉に動いた。
さっきまで荷を出すために整理していた通路が、そのまま緊急搬送路になった。清潔布の包みが荷車へ積まれる。薬液瓶の箱が中央に固定される。消毒用蒸留酒が横倒しにならないよう、空箱で支えられる。
セリアは護衛に命じた。
「治療院へ先触れを。受け入れ準備をさせなさい。神殿にも人手を出すよう伝えて」
「はっ」
護衛が走る。
レンは荷車の積み方を確認した。
揺れ、許容内。
破損危険、低。
配送先、リンドホルム治療院。
到着予測、二十分後。
「行けます」
御者が頷き、馬を走らせた。
荷車が倉庫を出ていく。
レンはすぐに二台目へ向かった。
「空荷で出すのか?」
人夫が聞いた。
「帰りに人を乗せます。毛布を敷いてください。揺れを減らすため、空箱を両側に固定。水袋も三つ」
「水袋?」
「粉塵を吸っている可能性があります。口をすすぐ水が必要です」
「そんなことまで」
「必要です」
言いながら、レンの指先が震えていることに気づいた。
落盤。
負傷者多数。
清潔布。
薬。
届くか、届かないか。
幼い頃の冬が、喉の奥までせり上がってくる。
雪に塞がれた街道。
宿場で止まった薬箱。
薄くなる呼吸。
まだ届かないの、と聞いた小さな声。
「レン」
セリアの声で、彼は我に返った。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「顔色が悪い」
「大丈夫です。次の荷を」
「レン」
セリアの声は強くなった。
レンは息を吸った。
今、止まるわけにはいかない。
けれど、焦って間違えればもっと悪い。
「……水袋を三つではなく五つに。粉塵なら目を洗う水も必要です。あと、清潔布を二包追加してください。治療院へ全部送るのではなく、現場用を分けます」
セリアは頷いた。
「わかりました」
彼女は余計なことを聞かなかった。
それがありがたかった。
二台目の荷車が出るころ、鉱山街道から最初の負傷者が運ばれてきた。
男の腕は折れ、顔は灰色の粉塵で汚れていた。肩を貸す仲間の足も血まみれだ。
「治療院へ!」
「待って、先に清潔布を」
神殿から駆けつけた若い神官たちが、届いたばかりの布を広げる。薬液瓶が開けられ、消毒用蒸留酒が使われる。
治療院の助手らしき女性が叫んだ。
「清潔布がある! 誰、倉庫から出してくれたの!」
「都市倉庫だ!」
「助かる、昨日から足りなかったの!」
その言葉を聞いたガルドが、顔を歪めた。
昨日から足りなかった。
だが、倉庫にはあった。
届いていなかっただけだ。
レンはその場に立ち尽くす暇もなく、次の負傷者のために荷車の向きを変えた。
「重傷者は治療院へ直行。軽傷者は神殿前の広場へ。歩ける人を先に通すと道が詰まります。担架は戻り便に乗せてください」
「お前、医者か?」
「違います」
「じゃあ何だ」
「補給係です」
人夫は一瞬ぽかんとし、それから笑った。
「補給係ってのは、こんなことまでやるのかよ」
「物が届くまでが仕事です」
「届いた後は?」
レンは治療院の前で清潔布を受け取る神官たちを見た。
「届いた後に困らないようにするのも、たぶん仕事です」
夕方までに、鉱山から運ばれた負傷者は三十二人に増えた。
死者は出なかった。
それは治療院の医師と神官たちの働きが大きい。
だが、もし清潔布が雑貨棚の裏に埋もれたままだったら。
もし薬液瓶が香辛料区画で見つからなかったら。
もし消毒用蒸留酒が香辛料札のまま放置されていたら。
結果は違っていただろう。
日が沈むころ、倉庫前には疲れ切った人夫たちが座り込んでいた。
ガルドも壁にもたれている。
レンは最後の荷札を束ねて、仮分類の棚に置いた。
治療院向け第一次配送、完了。
鉱山事故対応、完了。
負傷者搬送、三十二名。
医療物資残量、低下。
再補充必要、二日以内。
まだ問題は山ほどある。
だが今日、届くべきものは届いた。
「レン」
ガルドが低い声で呼んだ。
「はい」
「朝、俺はお前を倉庫に入れたことを少し後悔していた」
「でしょうね」
「今も少ししている。倉庫の恥を山ほど見せられた」
レンは何も言わなかった。
ガルドは腰の鍵束を外し、そのうち一本だけをレンへ投げた。
レンは慌てて受け取る。
「これは?」
「仮分類棚の鍵だ。日没までの約束だったが、明日の朝まで延長だ。勝手に奥の棚をいじるな。必要なら俺を呼べ」
「いいんですか」
「よくない」
ガルドはむすっと言った。
「だが、今日死ななかった連中がいる。なら、鍵一本くらい貸してやる」
レンは手の中の鍵を見た。
勇者パーティーで持っていたのは、誰も見向きもしない荷札と在庫表だけだった。
この街で初めて、彼は鍵を渡された。
「ありがとうございます」
「礼は明日の朝にしろ。倉庫はまだ地獄だ」
「はい」
そのとき、城門の方から一人の配達人が駆け込んできた。
「北方街道から伝令! 勇者アルヴィン様の遠征隊、魔物の前哨を撃破して北上中!」
倉庫内に小さな歓声が上がる。
勇者が勝った。
それは良い知らせのはずだった。
だが、レンの視界には別の文字が浮かんでいた。
北方遠征隊・治療薬、残り五日。
馬匹飼料、残り七日。
次回補給、未着。
レンは鍵を握ったまま、北の空を見た。
勝っている。
けれど、やはり負け始めている。
そして今度は、レンの手元に鍵がある。




