第3話 この街は五日後に薬が切れる
リンドホルムの城門前は、荷馬車の渋滞で埋まっていた。
石壁の外に伸びる街道には、麦袋を積んだ馬車、薪を満載した荷車、酒樽を縛りつけた商隊、鉱山へ向かう鉄具の馬車が列を作っている。
誰もが苛立っていた。
「まだ通れないのか!」
「こっちは魚を積んでるんだぞ、日が暮れたら売り物にならん!」
「先に治療院の荷を通せ、赤線の優先札だ!」
「優先札ならうちも持ってる!」
怒号が飛び交う。
門番たちは書類を抱えて走り回っていたが、列はほとんど動かない。
レンはモリス商隊の荷台から降り、城門の脇に立った。
目に入るものが多すぎる。
待機中の馬車、二十七台。
医療物資、三台。
食料品、七台。
燃料、四台。
行き先不明、五台。
荷札不一致、八件。
腐敗進行、二件。
優先札重複、十二件。
レンは眉を寄せた。
「優先札が多すぎる」
「最近は皆、赤線を入れたがる」
モリスが隣でため息をついた。
「本当に急ぎの荷もあるが、少しでも早く通りたい連中が真似をする。門番も見分けきれない」
「荷札を確認する人は?」
「門の中に倉庫組合の受付がある。だが、そこが詰まっているらしい」
レンは城門の奥を見た。
石畳の道の先に、背の低い倉庫がいくつも並んでいる。古い瓦屋根。太い木扉。積み上げられた空箱。荷を運ぶ人夫。
街の心臓部だ。
だが、動きが悪い。
荷馬車は入れず、入った荷も出ていない。門前で止まった荷が、日差しと湿気にさらされている。
近くの荷台では、麻袋の上で泣いている子供がいた。母親らしき女が、桶の水を布に含ませて顔を拭いてやっている。
その隣の馬車では、御者が荷の隙間から覗いた魚樽の匂いを嗅ぎ、舌打ちした。
風が動かない一日だった。
止まった荷の数だけ、止まった仕事と、止まった暮らしがある。
「このままだと、治療院の荷が今日中に入らない」
「そうだな。だが、私たちも順番を待つしか」
「待てません」
レンは言った。
「この荷の清潔布と薬液瓶は、遅れるほど使えなくなる。薬草も乾燥が足りない箱がある。今日中に治療院か、せめて乾いた倉庫へ入れないと駄目です」
「しかし、門番に言っても」
「行きます」
「どこへ」
「受付です」
レンは荷台から赤線の荷札を一枚取り、城門へ向かった。
門番が槍を横に出す。
「待て。順番だ」
「リンドホルム治療院向けの薬液瓶と清潔布です。荷札は赤線。薬草に劣化があります。日差しに当て続けると廃棄が増える」
「皆そう言うんだ」
「この荷は本当に急ぎです」
「だから、皆そう言うんだと言っている」
門番の声には疲れが滲んでいた。
レンは一瞬、言葉を止めた。
この門番が悪いわけではない。見分ける仕組みが壊れている。
「では、倉庫組合の責任者に会わせてください」
「お前、商人か?」
「違います」
「なら無理だ」
「補給係です」
門番は怪訝な顔をした。
「どこの」
レンは答えに詰まった。
昨日までなら、勇者パーティーの、と言えた。
今は違う。
「……今は、どこのでもありません」
「なら余計に無理だ」
門番が槍を戻そうとしたとき、城門の内側から怒鳴り声が響いた。
「また荷札違いだと!? 誰だ、この麦袋を薬師ギルド行きに回した馬鹿は!」
人夫たちが道を開ける。
現れたのは、灰色の髭を短く刈った大柄な男だった。革前掛けをつけ、腰には鍵束が下がっている。肩幅が広く、目つきが鋭い。
男は門番を睨んだ。
「次の荷を入れろ。ただし赤線札は一度俺に見せろ。偽物が混じってる」
「ガルドさん、こちらの若いのが治療院の荷を先に通せと」
「またか」
男、ガルドはレンを見た。
「お前の荷か」
「俺の荷ではありません。モリス商隊の荷です。リンドホルム治療院向けの薬液瓶二十二本、清潔布十二包、乾燥薬草三箱。薬草は劣化あり。瓶は二本破損済み。今日中に乾いた場所へ入れないと、さらに使えなくなります」
ガルドの眉が動いた。
「なぜ本数まで知っている」
「見ました」
「箱を開けたのか」
「荷崩れで開けざるを得ませんでした。積み違いもあります。青印薬草箱が一つ足りない代わりに、薬液瓶の箱が紛れていました」
ガルドはモリスを見た。
モリスが慌てて頭を下げる。
「本当です。この若い方に助けてもらわなければ、街道で荷を潰すところでした」
「若い方、ねえ」
ガルドはレンをじろじろ見た。
「名前は」
「レン・アスター」
「職は」
「補給係でした」
「でした?」
「今朝から無職です」
門番の一人が吹き出しかけ、ガルドに睨まれて黙った。
ガルドは鼻を鳴らした。
「無職が倉庫の順番に口を出すな」
「順番が壊れているからです」
空気が止まった。
モリスが小さく「あ」と声を漏らす。
ガルドの目がさらに細くなる。
「言ったな、小僧」
「はい」
「この倉庫街が壊れていると?」
「倉庫街ではなく、流れが壊れています」
レンは城門前の列を指した。
「赤線の優先札が多すぎて、本当に急ぐ荷が埋もれている。荷札の書式が揃っていない。受付で仕分ける前に、門前で腐り始めている。入った荷も出ていないから、門が詰まる。たぶん倉庫内でも、行き先別ではなく到着順に積んでいる」
ガルドの顔が険しくなった。
「続けろ」
「医療物資と燃料と食料を同じ列で扱っているのがまずいです。劣化速度が違う。馬車の滞留時間も違う。あと、あそこの魚荷は二刻以内に通さないと半分捨てることになる」
「魚まで見るのか」
「匂いでわかります」
「本当に補給係か?」
「そうです」
「どこの軍だ」
「軍ではありません」
「じゃあどこの」
レンはまた黙った。
ガルドはその沈黙を見て、何かを察したように鼻を鳴らした。
「まあいい。口だけなら誰でも言える。来い」
「どこへ」
「倉庫だ。壊れているかどうか、見せてやる」
門番が驚いた。
「ガルドさん、いいんですか」
「俺が連れていく。責任は俺が持つ」
ガルドはレンに背を向け、城門の内側へ歩き出した。
レンはモリスを振り返る。
「荷を動かさないでください。瓶の箱は日陰に。薬草箱は上に布を掛けて、地面から離してください」
「わかった。任せろ」
レンは頷き、ガルドを追った。
城門の内側は、外から見た以上に混乱していた。
荷下ろし場には、行き先の違う木箱が積み上げられている。王都行きの布束の隣に、鉱山村向けの鉄具。神殿の古着袋の上に、酒樽。治療院行きの箱が、香辛料の袋の陰に埋もれている。
人夫たちは忙しく動いている。
だが、忙しいだけだ。
流れていない。
レンの視界に文字が次々と浮かぶ。
治療院向け清潔布、倉庫内に十八包。
位置、雑貨棚裏。
薬液瓶、未開封四箱。
位置、香辛料区画。
乾燥薬草、劣化進行中。
位置、南壁際、湿気多。
配送遅延、五日。
治療院在庫、推定残り五日。
レンは足を止めた。
「ある」
ガルドが振り返る。
「何がだ」
「治療院向けの清潔布です。外の荷だけじゃない。倉庫内に十八包ある。あと薬液瓶が四箱。薬草もある。でも、場所が悪い」
ガルドの顔が強張った。
「お前、今どこを見た」
「倉庫です」
「俺はまだ案内していない」
「見えます」
「見える?」
「スキルです。《棚卸し》」
ガルドは一瞬、ぽかんとした。
次に、低く笑った。
「棚卸しだと? また地味な名だな」
「よく言われます」
「で、その地味な目には、この倉庫がどう見える」
レンは倉庫全体を見回した。
「物はあります」
「だろうな。見ての通り山ほどある」
「でも、届いていません」
ガルドの笑みが消えた。
レンは奥の棚を指した。
「治療院に必要な物資が、別用途の棚に混じっています。受付では入庫済みになっているから、誰も不足扱いにしていない。治療院側は未着だと思っている。倉庫側は出したつもりでいる。だから、誰も探していない」
ガルドは黙っていた。
「この街は」
レンは言葉を選びながら言った。
「五日後に、治療院の薬と清潔布が切れます」
倉庫の奥で、木箱を落とす音がした。
人夫たちがこちらを見た。
ガルドはレンの襟元をつかみそうな顔で一歩近づき、だが踏みとどまった。
「根拠は」
「いま倉庫内にある医療物資の量、門前で止まっている荷、治療院の消費速度、薬草の劣化速度です。正確な治療院在庫を見れば、もっと絞れます」
「見ていない在庫まで言うな」
「だから、推定です」
「推定で街を脅すな」
「脅していません。間に合うと言っています」
ガルドが眉をひそめた。
「間に合う?」
「今日中に倉庫内の医療物資を拾い出して、外の荷を優先的に乾いた区画へ入れる。明日の朝までに治療院へ回せば、切れる前に間に合います」
「簡単に言う」
「簡単ではありません。でも、物はある」
レンは濡れた薬箱を思い出した。
薬はあった。
けれど届かなかった。
同じことを、ここで繰り返すわけにはいかない。
「届かせれば、助かります」
ガルドは長く黙った。
やがて、腰の鍵束を乱暴に鳴らした。
「俺の一存では倉庫の組み替えはできん。優先順位を変えるには領主家の許可がいる」
「領主に会えますか」
「普通は会えん」
「普通では間に合いません」
ガルドは苦虫を噛み潰したような顔をした。
そのとき、倉庫の外から馬の蹄の音が近づいた。
人夫たちが一斉に道を開ける。
白い外套をまとった若い女性が、護衛を一人だけ連れて倉庫前に馬を止めた。淡い金髪を後ろで束ね、腰には細身の剣。顔立ちは整っているが、表情には疲れがある。
「ガルド。門前の混雑はまだ解消しないのですか」
ガルドが姿勢を正した。
「セリア様」
レンはその名を聞いた。
セリア・グランヴェル。
リンドホルムの若き女領主。
セリアは倉庫内を見回し、最後にレンへ視線を止めた。
「その方は?」
「拾い物です」
「人を物のように言わないでください」
「では、問題のある拾い物です」
レンは少しだけ眉を動かした。
セリアは疲れた顔のまま、かすかに笑った。
「問題とは?」
ガルドが答える前に、レンは一歩前に出た。
「治療院の物資が五日以内に切れます」
護衛が手を剣にかけた。
セリアの目が鋭くなる。
「何を根拠に」
「倉庫内の滞留、門前の医療物資、薬草の劣化、清潔布の所在不明、薬液瓶の積み違いです。物資はあります。ですが、届いていません」
セリアはガルドを見た。
「本当ですか」
ガルドは渋い顔で答えた。
「全部は確認していません。ですが、この小僧が言った場所に医療物資があるかは、今すぐ調べられます」
「調べてください」
ガルドが人夫に指示を飛ばす。
「雑貨棚裏を見ろ! 清潔布の包みがあるか確認しろ! 香辛料区画もだ、薬液瓶の木箱を探せ!」
人夫たちが走った。
数分後、奥から声が上がった。
「ありました! 清潔布、十八包!」
「薬液瓶もあります! 四箱、全部未開封です!」
倉庫内がざわめいた。
ガルドは舌打ちした。
セリアはレンを見つめる。
「あなたは、どうやって」
「スキルです。《棚卸し》」
「棚卸し」
セリアはその言葉を繰り返した。
馬鹿にする響きではなかった。
確認するような、測るような声だった。
「あなたの名は?」
「レン・アスターです」
「レン。あなたなら、この混乱を整理できますか」
レンは倉庫を見た。
山積みの木箱。古い荷札。湿った南壁。苛立つ人夫。門前で待つ馬車。治療院へ届かない清潔布。
できる、と言い切るには、情報が足りない。
だが、間に合うかどうかならわかる。
「一日だけ、倉庫の出荷順と置き場所を変える権限をください」
ガルドが即座に言った。
「無茶です、セリア様。どこの馬の骨とも知れない小僧に」
「責任者はガルド。実作業の指示はレン。そうすれば?」
ガルドが言葉に詰まった。
セリアはレンへ向き直る。
「一日で、何ができますか」
「治療院向け物資の拾い出し。門前の医療物資の優先受け入れ。劣化しやすい食料の一時退避。荷札の仮分類。明日の朝までに、治療院へ必要分を届けます」
「失敗したら?」
「物資はさらに詰まります」
「あなたは?」
レンは少し考えた。
「責任を取れる立場ではありません」
セリアの眉が上がる。
レンは続けた。
「だから、最初に言います。判断の責任は、権限を持つ人が取るべきです。俺にできるのは、どの荷をどこへ動かせば助かるかを見ることです」
ガルドが低く唸った。
セリアはしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐く。
「正直ですね」
「よく怒られます」
「でしょうね」
セリアは馬から降りた。
「ガルド」
「はい」
「本日の日没まで、レンに倉庫内の仮整理を許可します。あなたが監督しなさい。治療院向け物資を最優先で拾い出します」
「……承知しました」
「レン」
「はい」
「一日だけ、あなたを信じます」
その言葉は、レンの胸に奇妙に重く落ちた。
昨日、彼は不要だと言われた。
今日、見知らぬ街の領主に、一日だけ信じると言われている。
喜ぶ余裕はなかった。
けれど、足元に一本だけ細い道ができた気がした。
レンは倉庫の奥を見た。
治療院向け清潔布。
薬液瓶。
乾燥薬草。
劣化までの残り時間。
出荷可能な荷車。
足りない人手。
全部が、淡い文字となって視界に浮かぶ。
「まず、南壁際の薬草を全部動かします」
レンは声を上げた。
「湿気で駄目になる前に。次に、雑貨棚裏の清潔布を治療院行きに戻してください。香辛料区画の薬液瓶は割れ物です。上に樽を載せない。門前の赤線札は、医療、食料、その他で分けます」
人夫たちは戸惑っていた。
ガルドが怒鳴る。
「聞こえなかったのか! 動け! 責任は俺が持つ!」
倉庫が動き始めた。
木箱が運ばれ、荷札が剥がされ、古い棚の奥から忘れられた包みが引き出される。
その奥で、レンの《棚卸し》が赤い表示を灯した。
治療院在庫、推定残り五日。
鉱山街道、事故発生確率上昇。
医療物資需要、急増予測。
レンは一瞬、手を止めた。
まだ何も起きていない。
だが、こういう表示が外れたことはほとんどない。
「急いだ方がいい」
レンは誰にともなく呟いた。
この街は五日後ではなく、もっと早く薬を必要とするかもしれなかった。
そして、届くはずの薬が届かなかったとき、人は待ってくれない。




