第2話 外れスキル《棚卸し》
追放された翌朝、レン・アスターは街道脇の倒木に腰を下ろして、固い保存食を少しずつ噛んでいた。
北方の朝は冷える。
夜露を吸った外套は重く、靴の中には小石が入っている。勇者パーティーの野営地から南へ歩き続け、ようやく空が白み始めたところだった。
眠ってはいない。
目を閉じるたび、濡れた薬箱が浮かんだ。
アルヴィンたちは、予定通り北へ進むだろう。今日の夕方にはラトの補給村へ着く。そこで荷を受け取れれば、まだ少しは立て直せる。
だが、伝令は戻っていなかった。
レンの《棚卸し》は、遠く離れた荷の中身までは見えない。見えるのは、目の届く範囲にある物資と、その流れの乱れだけだ。
だからこそ、見える範囲の異常を見逃してはいけない。
彼は残りの保存食を布に包み直した。
「南の宿場まで、あと半日くらいか」
地図はない。
けれど荷馬車が通った跡、轍の深さ、馬糞の乾き具合、道端に落ちた麻縄の切れ端を見れば、街道の使われ方はある程度わかる。
この道はまだ生きている。
なら、人の流れもある。
レンが立ち上がろうとしたとき、南の方から甲高い馬のいななきが聞こえた。
続いて、木箱の割れる音。
「……荷崩れ?」
レンは鞄を肩に掛け、音のした方へ走った。
街道の曲がり角で、商隊の荷馬車が一台、半分ほど傾いていた。片輪がぬかるみに落ち、荷台から木箱が滑り落ちている。
荷主らしき太った男が、頭を抱えて叫んでいた。
「おい、そっちを押さえろ! 薬草箱を下にするな! 割れ物だ、割れ物!」
「無理です、旦那! 縄が切れてます!」
「馬を落ち着かせろ!」
御者が馬の手綱を引いているが、馬は怯えて前足を鳴らしている。荷台の上では、積み方の崩れた木箱が斜めに重なり、今にもまとめて落ちそうだった。
レンは一瞬で見た。
縄、二本切断。
右後輪、泥に沈下。
上段の軽量箱、落下寸前。
下段の薬草箱、圧壊危険。
硝子瓶入り木箱、左側面に衝撃。
そして、薬草箱の一つに赤い表示。
品質劣化、進行中。
「全員、荷台の左側から離れてください!」
レンは声を張った。
商隊の男たちが振り向く。
「誰だ、お前は!」
「そのまま押すと左へ倒れます。下の薬草箱が潰れて、瓶も割れる。先に上段の軽い箱を三つ降ろしてください。そこの青い印の箱からです」
「はあ? なんでわかる!」
「縄の切れ方と車輪の沈み方でわかります。急いで」
男たちは動かなかった。
レンは舌打ちをこらえ、荷台へ駆け寄った。
「馬を前に引かないでください。車輪がさらに沈む。後ろへ半歩。そう、半歩だけ」
「お、おう」
御者が反射的に従った。
馬が少し下がる。
荷台の傾きがわずかに戻った。
レンは荷台の横木に足を掛け、上段の箱をつかんだ。重さは見た目より軽い。乾燥布か綿。落ちても被害は少ない。
「これを受け取ってください」
「おい、勝手に」
「早く!」
レンの声に、若い商人が慌てて手を伸ばした。
一箱、二箱、三箱。
上段を抜くと、重心が少し下がった。
「次は赤い紐の箱を動かさないでください。その下が潰れています」
荷主の男が目をむく。
「赤い紐の下は一級薬草だぞ!」
「だから動かさないでください。箱の角が割れている。持ち上げると中身がこぼれる。先に隣の樽をどける」
レンは荷台に手を入れ、樽を支える楔を抜いた。
周囲から短い悲鳴が上がる。
樽が滑る寸前、レンは別の木片を差し込んだ。樽の向きが変わり、圧力が横へ逃げる。
薬草箱の軋む音が止まった。
荷主の男が黙った。
「……お前、何者だ」
「ただの補給係です。今は違いますけど」
「補給係?」
レンは答えず、割れかけた箱の蓋をそっと開けた。
中の薬草は、半分ほど茶色く変色している。
「これは売らない方がいい」
荷主の顔色が変わった。
「な、何を言う。昨日仕入れたばかりだぞ」
「下の方が蒸れている。乾燥不足のまま詰めたんだと思います。匂いも酸っぱい。このまま治療院に入れば、薬効が落ちるだけじゃない。腹を壊す患者が出る」
「そんな馬鹿な」
荷主は箱に鼻を近づけた。
すぐに顔をしかめる。
「……なんだ、この匂い」
「使える部分と捨てる部分を分ければ、全部は失わずに済みます。けれど同じ馬車に載せている他の薬草箱も確認した方がいい」
「ま、待て。全部だと?」
「少なくとも、青い焼印の箱があと四つ。仕入れ元が同じです」
レンの視界には表示が出ていた。
青印薬草箱、五箱。
正常、一箱。
軽度劣化、二箱。
重度劣化、一箱。
混入、一箱。
「一箱、数が合いませんね」
荷主が固まった。
「何?」
「積荷目録では青印薬草箱は六箱のはず。でも荷台にあるのは五箱です」
「なぜ目録の数までわかる!」
「箱の並びと空きでわかります。六箱積むための隙間がある。そこに別の小箱を押し込んである。荷札の向きも違う。あれは薬草箱じゃない」
レンが指差した先には、麻布を被せた小箱があった。
若い商人が布をめくる。
中から出てきたのは、銀色の留め具がついた小さな木箱だった。
「旦那、これ……硝子瓶です」
「硝子瓶? 誰がそこに載せた」
「知りませんよ!」
レンは小箱を見た。
瓶、二十四本。
破損、二本。
用途、薬液保存用。
配送先、リンドホルム治療院。
「これ、急ぎの荷です」
「なぜわかる」
「荷札に赤線が入っている。治療院向けの優先便でしょう。薬草箱を一つ抜いて、代わりにこれを積んだ人がいる」
荷主は顔を真っ赤にした。
「うちの積み子か……いや、宿場の積み替えか」
「今それを責めても瓶は増えません。先に梱包を直した方がいい。割れた二本の破片が他の瓶を傷つけます」
レンは布を広げ、破片を取り出した。
指先に小さな傷ができた。
血がにじむ。
エリナがいたら治療してくれただろうか、と一瞬だけ思った。
すぐに頭から追い出す。
今はそれどころではない。
「乾いた藁はありますか」
「荷台の後ろに」
「湿っているものは使わないでください。瓶が揺れます。乾いた布があればそちらを」
若い商人が慌てて布袋を持ってきた。
レンは瓶を詰め直し、薬草箱を三つに分けた。
使えるもの。
乾かせば使えるもの。
捨てるしかないもの。
荷主たちは、最初は半信半疑だった。だがレンが箱を開けるたび、言った通りの中身が出る。数が合わず、劣化が見つかり、傷んだ縄が見つかる。
やがて誰も口を挟まなくなった。
最後にレンは、切れた縄を結び直し、荷台の重い箱を車軸の真上へ移した。
「これで宿場までは持ちます。ただし、次の坂道では一度止めて確認してください。右後輪の軸受けが傷んでいる」
御者が車輪を覗き込む。
「本当だ。割れかけてる」
荷主はしばらくレンを見ていた。
それから、深々と頭を下げた。
「助かった。薬草も瓶も、全部潰すところだった」
「全部ではないです。重度劣化の薬草は捨ててください」
「……本当に遠慮がないな、お前さん」
「使えば誰かが困ります」
荷主は苦笑した。
「名前は?」
「レン・アスター」
「私はモリス商会の支隊長、モリスだ。リンドホルムへ向かう途中だ」
リンドホルム。
辺境都市の名だった。北方街道と南の河川道が交わる古い物流拠点。王都からは遠いが、周辺の鉱山村や開拓地に物資を送るには欠かせない街だ。
「リンドホルム治療院へ行く荷ですか」
「ああ。薬草と薬液瓶、それに清潔布を少しな。最近、向こうで物資の受け取りが詰まっているらしい。倉庫が混んでいて、荷下ろしに半日かかるそうだ」
レンは眉を寄せた。
「治療院向けの優先便が、宿場で積み違えられている。薬草は劣化。瓶は破損。倉庫は混雑」
「どうした?」
「よくない流れです」
モリスは少し首を傾げた。
「お前さん、今は一人旅か」
「はい」
「なら、リンドホルムまで乗っていけ。助けてもらった礼だ。護衛の真似事くらいなら、こちらもありがたい」
「俺は戦えません」
「荷を見られるだろう」
レンは黙った。
昨日まで、それを理由に追放された。
今、同じことを理由に、必要だと言われている。
不思議なほど、胸が痛んだ。
嬉しいのではない。
ただ、見ている人がいるところと、いないところで、自分の仕事の意味がここまで違うのだと、初めて知った。
「……荷を見るだけなら」
「十分だ」
モリスは笑った。
商隊は荷を積み直し、ゆっくりと南へ進み始めた。
レンは最後尾の荷馬車に乗せられた。揺れる荷台の上で、彼はリンドホルム行きの木箱を見た。
治療院向け清潔布、十二包。
薬液瓶、二十二本。
乾燥薬草、使用可能三箱。
積み違い、二件。
劣化進行、一件。
必要なものは、ある。
けれど、流れが乱れている。
夕方、商隊は小高い丘を越えた。
その先に、石壁に囲まれた大きな街が見えた。いくつもの煙突、古い倉庫街、南へ伸びる河川、城門前に並ぶ荷馬車の列。
リンドホルム。
辺境都市と呼ばれるには、あまりに多くの荷が集まっている。
レンは荷台から身を乗り出した。
城門前の列は動いていない。荷馬は疲れ、御者は苛立ち、門番は書類を抱えて走っている。荷を積んだ馬車の一部は、日差しを避けられない場所で止まり続けていた。
視界の端に、薄い文字が重なる。
城門前滞留、二十七台。
医療物資、待機中。
食料品、劣化進行。
燃料荷、配送遅延。
治療院向け清潔布、未着。
レンは息を呑んだ。
街は生きている。
だが血の巡りが悪い。
そのまま放っておけば、どこかから壊死する。
モリスが隣で言った。
「な、ひどいだろう。最近ずっとこれだ」
レンは城門の奥、倉庫街の屋根を見つめた。
昨日、勇者パーティーの補給線は赤く染まっていた。
そして今、目の前の都市にも、同じ色が滲み始めている。
「この街」
レンは小さく呟いた。
「五日以内に、治療院の物資が切れる」
誰にも聞こえないほどの声だった。
けれどレンの《棚卸し》は、城門の向こうで静かに警告を灯していた。
昨日は勇者の補給線だった。
今日は、街そのものだ。




