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第1話 荷物番はいらない

はじめまして、のむ(@nomu_jj1)と申します。


新作『外れスキル《棚卸し》の俺、物資不足で滅びかけた王国を倉庫から立て直す』を投稿開始します。


戦えない補給係が、倉庫と物流で異世界を救う物語です。


毎朝7時更新予定。本日は初日のため、夜20時にも第2話を投稿します。

よろしくお願いいたします。

 薬箱の底に水が染みているのを見た瞬間、レン・アスターは、この遠征がもう勝てないことを知った。


 野営地の中央では、勇者アルヴィンたちが勝利に沸いていた。


 夕暮れの北方街道。倒した魔物の黒い煙がまだ森の向こうに残っている。焚き火の周りでは、剣士が大げさに剣を振り、魔法使いが火球で焼いた魔物の数を数え、神官の少女が疲れた顔で笑っていた。


 今日の戦いだけを見れば、勇者パーティーの勝利だった。


 前哨の魔物は退けた。負傷者も出たが、命に関わる者はいない。アルヴィンは銀の髪を払って、集まった護衛兵たちに言った。


「見たか。魔王軍の前哨など、恐れるに足りない」


 歓声が上がった。


 レンはその輪に入らず、荷馬車の後ろで膝をついていた。


 薬箱の蓋を開ける。


 湿った木の匂いがした。


「……やっぱり、底から入ってる」


 箱の内側に敷いた油紙は破れ、下段の薬瓶が三本割れていた。瓶の中身は箱の隅に溜まり、雨水と混じって薄い琥珀色の水たまりになっている。


 治療薬、三本喪失。


 保存用の乾燥薬草、一束分が湿気で変色。


 清潔布、八枚が使用不可。


 レンの視界の端に、薄い文字が浮かぶ。


 《棚卸し》。


 神殿で授かったとき、誰もが外れスキルだと笑った力だ。箱の中身がいくつあるか、どれだけ傷んでいるか、それが見えるだけの地味な目。


 だがレンには、その「だけ」が命に関わることを知っている。


 彼は薬箱を脇に置き、隣の矢束を確認した。


 矢そのものはまだある。けれど矢羽根の替えが足りない。今日の戦いで魔法使いが炎を撒いたせいで、予備の矢羽根まで焦げていた。


 次に飼葉袋。


 封を開けるまでもなく、軽い。


「二日分、足りない」


 レンは眉を寄せた。


 戦闘で勝った。敵は退けた。勇者は無傷だ。


 それでも遠征は、もう負け始めていた。


「レン」


 背後から声がした。


 振り向くと、神官のエリナが立っていた。白い法衣の袖には泥がつき、額には汗が残っている。


「また荷物を見ているの?」


「薬箱が濡れていた。清潔布も駄目になってる」


「え……本当?」


「本当だ。あと、飼葉が予定より二日分少ない。矢羽根も足りない。次の補給村で受け取る荷が予定通りならまだ持ち直せるけど、昨日の伝令が戻っていない」


 エリナの表情が曇る。


「アルヴィン様に伝える?」


「伝える」


 レンは薬箱の蓋を閉めた。


 そのとき、胸元の内ポケットに入れていた古い荷札が指に触れた。雨で文字の滲んだ、小さな木片。もう何年も前のものだ。


 薬がないなら、まだ諦められる。


 けれど、薬があるのに届かないのは、レンにはどうしても許せなかった。


「今すぐに」


 レンは立ち上がった。


 焚き火のそばでは、剣士ダリオが肉を串に刺して笑っていた。


「で、俺が最後に斬ったやつが一番でかかったわけだ。あれを見たか、アルヴィン」


「見ていた。少し前に出すぎだがな」


「勝ったんだからいいだろう。なあ、荷物番」


 ダリオがレンに気づき、口の端を上げた。


「また箱の数でも数えてたのか?」


 周囲の護衛兵が小さく笑った。


 レンは息を吸う。


「報告があります」


 アルヴィンが焚き火の前で振り向いた。


 勇者アルヴィン。王都で聖剣に選ばれた青年。強く、美しく、前に立てば誰もが道を開ける。


 レンも、彼の強さは認めている。


 だからこそ、言わなければならなかった。


「今日の戦闘で、治療薬を三本失いました。清潔布も八枚、使用できません。矢羽根の替えが不足しています。飼葉も予定より二日分少ない」


 アルヴィンはしばらく黙っていた。


 やがて、軽く息を吐く。


「それで?」


「このまま北へ進めば、七日目に治療薬が尽きます。九日目には馬が二頭倒れる。十一日目には撤退用の食料を切ります」


 焚き火の音だけが一瞬大きくなった。


 ダリオが吹き出した。


「おいおい。勝った日に言うことか、それ」


 魔法使いのリゼットも肩をすくめる。


「薬が足りないなら、私の魔法で焼き払えば怪我人も減るわ。矢羽根くらい現地で拾えばいいじゃない」


「矢羽根は拾えない。規格が合わなければ矢は曲がる。曲がった矢は当たらない。あと、怪我人が減るかどうかは魔物の数次第だ。今日の消費から見ると、次の前哨で薬が足りなくなる」


「ほら出た。数、数、数」


 ダリオが串を振った。


「お前、本当にそれしか言わないよな。勇者パーティーに入ってから、一度でもまともに敵を倒したか?」


「俺の役目は敵を倒すことじゃない」


「そうだな。荷物を見ることだ」


 笑いが広がった。


 レンは拳を握った。


 言い返すべきではない。ここで感情的になれば、肝心の数字が聞かれなくなる。


 彼はアルヴィンだけを見た。


「次の補給村、ラトに送られるはずの荷が未着の可能性があります。昨日の伝令が戻らないのは異常です。進軍を一日止めて、荷の確認をしてください。最低でも薬箱を乾いた馬車へ移し、清潔布の代替を作る必要があります」


 アルヴィンの目が細くなる。


「レン。俺たちは今日、勝った」


「今日の戦闘には勝ちました」


「ならば士気を下げるな」


「士気では薬は増えません」


 言った瞬間、空気が冷えた。


 エリナが小さく息を呑む。


 アルヴィンはゆっくり立ち上がった。


「お前はいつもそうだ。進むべき時に止まれと言う。勝つべき時に退けと言う。俺たちは魔王軍と戦っているんだ。箱の中身と戦っているわけではない」


「箱の中身が尽きれば、魔王軍とは戦えません」


「戦うのは俺たちだ」


「戦えるようにしているのが補給です」


 ダリオが舌打ちした。


「もういいだろ、アルヴィン。こいつがいると空気が悪くなる」


 リゼットも頷く。


「正直、前から思っていたの。遠征のたびに不吉なことばかり言われると集中できないわ」


「不吉なんじゃない。計算だ」


「その外れスキルで?」


 リゼットの声は冷たかった。


「倉庫番の目で、勇者の進軍を止めるつもり?」


 レンは口を閉じた。


 倉庫番。


 外れ。


 何度も言われてきた言葉だった。


 だが、倉庫を馬鹿にする者は、倉庫が空になってから泣く。


 それをレンは知っている。


「アルヴィン」


 レンはもう一度だけ言った。


「このまま進めば、帰れなくなる」


 勇者は焚き火の向こうで、レンを見下ろした。


「ならば、お前はここで帰れ」


 誰もすぐには反応しなかった。


 レンも、意味を理解するまで一拍遅れた。


「……どういうことですか」


「勇者パーティーに、士気を下げる荷物番はいらない」


 ダリオが口笛を吹いた。


 リゼットは目を逸らさなかった。エリナだけが顔を青くしている。


「待ってください、アルヴィン様。レンは確かに言い方はきついですけど、補給を見てくれていたのは」


「エリナ」


 アルヴィンが制した。


「これは決定だ」


 レンは胸の内側で、何かが静かに沈むのを感じた。


 怒りはあった。


 悔しさもあった。


 けれどそれより先に、薬箱の底に溜まった琥珀色の水が頭から離れなかった。


「……俺を外すなら、せめて薬箱を第一馬車に移してください。今の場所だと、次の雨で残りも駄目になります」


 ダリオが笑った。


「追放される最後まで荷物の心配かよ」


「荷物じゃない。命だ」


 レンはそう言って、腰の小さな鞄だけを取った。


 彼の私物は少ない。予備の上着、携帯用の水袋、小刀、針と糸、乾いた保存食が二枚。それから、古い荷札。


 エリナが追ってきた。


「レン、これ」


 彼女は布に包んだ保存食を差し出した。


「持っていって。南の街道まで、一人じゃ危ないから」


「ありがとう。でも、それは残しておいてください」


 レンは受け取らなかった。


「九日目には、一枚でも必要になります」


「でも」


「それと、薬箱を乾いた場所に。清潔布は焚き火の煙に当てないで。煤がつくと傷口に使えない」


 エリナは泣きそうな顔をした。


「どうして、そんなことを言えるの」


「必要だから」


 レンは短く答えた。


 そうしなければ、歩き出せなかった。


 野営地の外へ向かう。


 背後では、また笑い声が戻り始めていた。勝利の宴。勇者の進軍。明日も北へ向かう者たちの声。


 レンは一度だけ振り返った。


 焚き火の明かりに照らされた荷馬車が見える。水の染みた薬箱。焦げた矢羽根。軽すぎる飼葉袋。誰も数えていない予備の食料。


 あの輪の中に、昨日まで自分の居場所があった。


 そう思おうとして、やめた。


 居場所だと思っていた場所で、自分の仕事は最後まで見られていなかった。


 視界の端に、文字が浮かぶ。


 北方遠征隊・治療薬、残り六日。


 清潔布、実用残数十二枚。


 馬匹飼料、残り八日。


 撤退可能日数、残り十日。


 次回補給、未着。


 補給線、危険。


 赤い線が、焚き火の向こうで静かに伸びた。


 森の北へ続く街道。その先にあるはずの補給村。そこから戻らない伝令。見えないどこかで止まっている荷。


 レンは胸元の古い荷札を握った。


 薬はあった。


 けれど、届かなかった。


 あの日と同じことが、また起きようとしている。


 それでも彼は、もうこの遠征隊の補給係ではなかった。


 レンは南へ歩き出す。


 背後で、勝利に酔う勇者たちの補給線が、静かに赤く染まっていた。


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