第59話 灰色の目
宿場の手前で、ニスは馬車を表通りへ入れなかった。
手綱を右へ送り、宿の裏手へ回る細い道を選ぶ。表の馬寄せには客の馬が数頭。人の目が集まる場所だ。ニスはそこを避け、厩の陰になった裏の馬寄せへ馬車を静かに着けた。
西へ逸れていた蹄跡は、この宿場の裏手で途切れていた。先の馬も、表を通らずに来ている。
「ここに決めたのは」
レンが問うと、ニスは厩の屋根の角を顎で示した。
「表の馬寄せは、二階の窓から丸見えです。ここは、屋根が一枚かぶさって、上から見えません。荷を解くなら、ここが一番、目が少ない」
「分かりました。任せた以上、口は出しません」
ニスは、それ以上は言わなかった。任された段取りが、馬車の止まった場所にそのまま出ている。
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ユリウスが先に宿へ入り、しばらくして戻ってきた。
「お待ちかねです。奥の、中庭に面した一間に」
通された部屋は、街道沿いの宿にしては静かだった。窓は中庭側にひとつだけ。卓の向こうに、その男は座っていた。
カルロス・ヴェイン。リンドホルムの執務室で一度、卓を挟んだ相手だ。あのときは、王都から来た監査官だった。
旅装に変わっている。役所じみた襟もとも、いまは外していた。膝の上で、革表紙の帳面を閉じたところだ。
男が顔を上げる。
灰色の目。深い、底の見えない灰色だった。
その色を、レンは最近もう一度別の場所で見ている。関所で会ったヴェン家の二人――カーレルとカルセルの、同じ灰色の目。あのときは結びつかなかった。いま、同じ卓を挟んで、初めて重なる。
けれど、似た色の目など珍しくはない。レンは、その重なりをひとまず脇へ置いた。
「久しぶりですね、補給官殿」
カルロスは帳面を脇へ寄せ、軽く頭を下げた。
「リンドホルムの執務室以来です。あのときは、私があなたを試す側でした」
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卓を挟んで、レンは腰を下ろした。
カルロスは、まず茶を勧めた。それから帳面を開き、指で頁を繰る。繰る手つきが、妙に正確だった。一枚ずつ、角を揃えてめくる。書き慣れた者の手だ。
返書の、流れるような筆。あれを書いた手が、いま目の前で動いている。手紙の文字と、この指の動きが、同じ一人のものだ。レンは、そう確かめた。
声は穏やかで、押しつけがましさがない。協力者として、これ以上望めない相手に見える。見えるからこそ、レンは急いで気を許さなかった。穏やかさは、測りにくい。怒鳴る相手より、静かに微笑む相手のほうが、何を考えているか読みにくい。
「道中、ハーレンの話は届きましたか」
「返書で、名前だけ。薬倉が、帳簿どおりには埋まっていないと」
「名前だけで、十分でしょう。あの倉は、ほんの一例です」
カルロスは、頁の一箇所を指で押さえた。
「補給局の控えには、北方領へ送った数が、きちんと並んでいます。送り出した日付も、馬車の数も。けれど、現地で受け取った数と、突き合わせると――」
「合わない」
「合いません。ここ二月で、その差が倍に開きました。紙の上では、何も足りていない場所はない。けれど現地では、ハーレンのような倉が、もう動き始めています」
レンは、頁の数字を目で追った。
送った数と、着いた数。二つの列が、行を下るごとに離れていく。リンドホルムで見た二割の差が、ここではもっと大きく開いている。
「この差に、補給局の誰も気づかないんですか」
「気づいていますよ」
カルロスの声が、少しだけ低くなった。
「数を扱う者なら、誰でも気づきます。差は、隠そうと思って隠れる大きさではない。けれど、気づいた者から順に、口を閉じていきます」
「なぜ」
「気づいたと言えば、次は『お前が直せ』と言われる。直そうとすれば、差を作っている誰かと、ぶつかる。だから、見えていても、見えなかったことにする。帳簿の上で数が合っているうちは、咎められませんから」
カルロスは、頁の端を指の腹で平らに撫でた。
「補給局は、賢い人間の集まりです。賢いから、見て見ぬふりが、いちばん身を守ると知っている。私は、その賢さが、少し息苦しいだけです」
惜しまずに話す。けれど、自分の名は、まだ一度も差の側に置いていない。
レンは、そのことを黙って見ていた。
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「ひとつ、聞いていいですか」
レンは、顔を上げた。
「あなたは、補給局の書記官だ。その立場で、なぜ、よその領の補給官に、私信を送れるんです」
カルロスの指が、頁の上で止まった。
ほんの一瞬。けれど、止まった。
「補給局は、北方領との文書を、一手に握っています。私は、その文書を書く側の人間です。だから、誰の数が合わないかも、誰がそれを黙っているかも、見える場所にいます」
「見える場所にいる人が、なぜ、わざわざ外へ報せるんです」
カルロスは、すぐには答えなかった。
茶碗を、両手で包むように持つ。灰色の目が、窓の中庭へ一度だけ流れた。
「私には、北に、縁者がいます」
「縁者」
「ええ。その縁者の名と、私の名は、よく似ています。似ているだけで、同じ血とは限らない――返書に、そう書きました」
言いかけて、カルロスは帳面の角をとんと卓で揃えた。
「その話は、王都で。ここでするには、長すぎます」
扉を、一枚だけ閉める手つきだった。惜しみなく数字を開いていた男が、ひとつの問いの前でだけ、そうする。
レンは、その閉じ方を言葉の代わりに数えた。
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「外に、もう一人いますね」
レンは、話を変えた。
「ここへ来る道中、半日先を、馬が一頭進んでいました。顔を布で隠した一人が乗って。分かれ道で西へ逸れて、この宿場の方へ」
カルロスは、わずかに目を細めた。それから、苦笑のようなものを口の端に浮かべた。
「私の連れです。先に道を検めさせました。王都から北へ向かう道に、いま、どんな目が増えているか。顔を見せて歩かせる用ではなかったので、布を」
「先に検めさせるほど、道が危ういと」
「危ういのではなく、見られたくないのです。補給局の人間が、よその領の補給官と落ち合う。それが、王都の誰の耳に入るかで、話が変わります」
レンは、それを頭に写した。
筋は、通りすぎていた。なぜ顔を隠す必要があったのか、その一点だけが、まだ手の中で噛み合わない。けれど、今は問わない。
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話が一区切りつくと、カルロスは帳面を閉じ、革紐で結わえた。
「明日、ここを発てば、王都まで二日。私は、別の道から先に戻ります。同じ道を、一緒には行けません」
「別々に」
「補給局の書記官と、リンドホルムの補給官が、連れ立って王都の門をくぐる。それも、見られたくない絵です」
カルロスは立ち上がり、戸口で一度だけ振り返った。
「北の縁者の件は、王都で。あなたが請求書を補給局へ通すころに、嫌でも、その名と向き合うことになります」
戸が閉まり、足音が遠ざかっていった。
レンは、しばらく卓の前に残った。
灰色の目。北の縁者。似ているだけの名。顔を隠した連れ。一つずつは、筋が通っている。けれど、それらを並べると、まだ写し取れていない一行が、間にある気がした。
崩壊まで、残り二十二日。王都まで、あと二日。
届けるべき請求書は、まだ革筒の中にある。その紙が王都の帳簿に触れたとき、何が動くのか。レンには、まだ見えなかった。




