第57話 名宛のない返書
中継地の取次屋は、街道に面して荷の出入りが絶えなかった。
馬車が止まると、すぐに小僧が一人駆けてきて、替え馬の世話を申し出る。ユリウスが御者台から降り、慣れた手つきで小僧に小銭を握らせ、馬の水と飼い葉の段取りを先に通した。
レンも荷台を降りた。固まった脚に、地面の感触が戻ってくる。半日の揺れのあとの土は、妙に確かだった。
取次屋の番台には、革張りの帳面を抱えた年寄りが座っている。商家の符牒を交わすユリウスを、その目だけで追っていた。
「ヴェルナーの、ユリウス様で」
「ええ。私宛に、何か」
番台の年寄りは、帳面の脇から布で包んだものを一つ取り出した。蝋で封じた、ひと束の紙だ。
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返書を受け取る前に、別の小僧が、息を切らして取次屋へ駆け込んできた。
「リンドホルムから、伝令」
小僧が差し出したのは、ミナの手による伝令札だった。木の札に、共同倉庫の符牒で短く数が刻んである。レンは、それを受け取って読んだ。
倉庫の在庫が、一棚分、合わない。
帳面の数と、棚の実数。その差に、最初に気づいたのはフェンだった。札の隅に、フェンの几帳面な筆で「数え直し済み、誤記にあらず」と添えてある。
「フェンが、留守の三日目で見つけたか」
レンは、札の角を指で撫でた。
一棚分。今すぐ誰かが倒れる数ではない。だが、留守のあいだに合わない数が出たという事実は、軽くない。フェンに任せた目が、さっそく仕事をしている。
「返しは」
「『見張り続けよ。動かす前に必ず数えよ』と。それだけ伝えてくれ」
小僧は札を握って、また駆けていった。
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ユリウスが、蝋封を爪で割った。
中の紙を開き、商家の符牒の混じった文面に目を走らせる。読み進むにつれ、ユリウスの口元から、いつもの余裕が少しずつ抜けていった。
「カルロス殿からです」
「向こうから、来ましたか」
「来ました。落ち合いは、手筈どおり王都の二日手前の宿場で。それは変わりません。けれど――」
ユリウスは、紙の中ほどを指で押さえた。
「王都の帳簿の乖離が、私の見込みより、開いているそうです。補給局に届く控えと、地方から上げた元の数。その差が、ここ二月で、倍に近い」
「倍」
「カルロス殿の書き方では、『冬を待たずに、数が合わなくなる場所が出る』と。王都の帳簿の上では足りているのに、現地では空になる倉庫が、もう動き始めていると」
「どこの倉庫か、書いてありますか」
「一つ、名が挙がっています。王都の南、ハーレンという宿場町の薬倉。帳簿では薬瓶が満ちているのに、棚は半分も埋まっていない、と」
レンは、その名を頭の奥に写した。
ハーレン。顔も知らない町だ。だが、薬倉が空きかけているなら、そこには、薬を待っている者がいる。咳の止まらない年寄りか、熱を出した子か。帳簿の数字は、その者の顔を映さない。映さないまま、足りていることになっている。
レンは、紙の文面を、横から目で追った。
商家の符牒は半分も読めない。だが、数を並べた箇所だけは分かる。届いたことになっている数と、実際に届いた数。その二つが、列をなして、ずれている。
リンドホルムで見た二割の差が、王都ではもっと大きく開いて、棚を空にしている。
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文面の終わりに、署名があった。
カルロス・ヴェイン。商家らしい、流れるような筆だ。
その署名の脇に、細く添え書きがある。レンは、何気なくそこを読んだ。
『北の縁者の件、追って話す。同じ名を名乗る者が、必ずしも同じ血とは限らぬ』
「縁者、とは」
「さあ」
ユリウスは、わずかに首をかしげた。
「カルロス殿には、商売の縁者が方々にいます。どこの誰のことかは、会って聞くほかありません」
レンは、その添え書きを、もう一度だけ目でなぞった。
同じ名を名乗る者が、必ずしも同じ血とは限らない。今は、意味が取れない。けれど、わざわざ書いてよこした一文だ。意味がないなら、書かない男だろう。
頭の奥の板に、その一行だけを、そのまま写しておいた。読めない言葉は、読めないまま置いておく。いずれ、欠けた数のように、どこかと噛み合う日が来る。
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馬の替えが済むまでのあいだ、レンはニスを取次屋の脇へ呼んだ。
言伝でも、命令でもない。ただ、二人で話す形を作っただけだ。それでもニスは、姿勢を正して向き合った。
「昨日の厩の、銀貨の決まりのことです」
「はい」
「台に銀貨を置けば、何も見なかったことにする。あれは、あの厩だけの決まりですか。それとも、北へ抜ける道筋に、ああいう決まりがいくつもあるんですか」
ニスは、すぐには答えなかった。
答えをはぐらかしたのではない。答えの輪郭を、正しく見定めようとしている顔だった。
「いくつも、あります」
ニスは、低く言った。
「街道の宿場を通れない荷のために、馬替えだけの厩が、道筋に点々と。私が知るかぎり、王都から北へ、三つか四つ。どれも、台に置く決まりは同じです。誰が始めたのかは――」
「知らない」
「知りません。私が引いて通ったころには、もう、そういうものでした」
「その厩を使う荷は、どういう荷でしたか」
ニスの口が、わずかに止まった。
「……表の宿場に、出せない荷です。誰が、どこへ、何を運んだか。それを帳面に残したくない者の荷。私は引いて通っただけで、中身までは見ていません」
「見ない決まりだった」
「見ない決まりでした。見れば、次は呼ばれません」
また、境目のくっきりした答えだった。
知っていることと、知らないこと。その線が、ニスの口の中では、いつも刃物で引いたように真っ直ぐだ。
帳面に残したくない荷が、表に出せない厩を、北へ抜けていく。王都の帳簿で消えた薬瓶と、その荷とが、どこかで同じ道を使っていないと、誰が言えるだろう。
レンは、その線を、今日は疑いのほうへ転がさなかった。
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「ニス」
レンは、相手の目をまっすぐ見た。
「王都に着いたら、その厩の決まりの出どころを、あなたと一緒に辿ります」
「私と」
「あなたは、王都厩舎を内側から知っている。決まりが王宮厩舎から出たものなら、辿る糸口は、あなたの記憶の中にあります。疑って遠ざけるより、近くで、あなたの口から一つずつ聞くほうが早い」
「私を、疑っていないわけでは、ないでしょう」
「疑っています」
レンは、隠さずに答えた。
「疑ったまま、使います。あなたが役に立つなら役に立つ者として扱い、線が動いたら、そのとき動く。リンドホルムを出るときに、領主にもそう言いました。あなたにも、同じことを言っておきます」
ニスは、しばらくレンの顔を見ていた。
見たあとで、ふっと、肩のあたりの力を抜いた。
「妙な扱われ方です。疑われているのに、これほど当てにされるのは」
「当てにするから、疑いも隠さないんです。当てにしない相手なら、黙って遠ざけて終わりです」
ニスは、それには答えない。
答えの代わりに、一度だけ浅く頭を下げる。下げてから、馬の様子を見に、囲いのほうへ歩いていった。
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馬車が中継地を出たのは、日が傾きかけたころだった。
御者台に戻る前、ニスが街道の北を指した。
「先の馬ですが」
「分かりましたか」
「取次の番に聞きました。今朝、布で顔を隠した一人が、ここで馬を一頭替えて、北へ抜けたと。半日前。私たちとの差は、昨日と変わっていません」
「縮みも、開きもしない」
「同じ脚で、同じ道を、淡々と進んでいます。急いでも、いない。逃げても、いない。ただ、先を行っている」
レンは、北の街道の先を見た。
縮まらない半日。それは、相手がこちらを気にしていない証だ。追われているとも思っていない。だからこそ、その背中は、行き先を隠そうともしない。
崩壊まで、残り二十四日。王都までは、あと四日。
届いたことになっている数と、本当に届いた数。その差が、王都で倍に開いている。
空になり始めた倉庫の一つは、もう、どこかで誰かの冬を削っている。
レンは、革袋の上から、請求書を収めた革筒の固さを確かめた。
届けるべきものを、届けに行く。その一点だけが、北へ向かう馬車の、変わらない芯だった。




