第56話 先を行く蹄鉄
レンは、ぬかるみの蹄跡に指を当てた。
土の縁が、まだ崩れずに立っている。踏まれた土は、時が経てば角が落ちて丸くなる。この縁は鋭い。昨夜のものではない。今朝だ。
釘穴は、後ろ寄りに一列。例の、王宮厩舎の打ち方。
「半日も、離れていません」
ニスが馬車を降りて、レンの肩越しに同じ跡を覗き込んだ。
「夜のうちに雨はやんでいます。この締まり方なら、今朝早く。私たちより、半日か、もう少し前」
「追えますか」
「馬車では、追いつけません」
ニスは即答した。隠す気のない声だった。
「向こうは替え馬だけの軽い身。こちらは荷を積んだ馬車です。脚で勝とうとすれば、馬を潰します。馬を潰せば、王都には着けません」
レンは立ち上がった。腰のあたりが、しゃがんでいた分だけ重い。
追いつけない相手を、それでも見ておきたい。脚で並ぶのは無理でも、向かう先が同じなら、立ち寄る場所は重なる。
「替え馬を、どこで替えますか」
ニスの目が、わずかに動いた。
「この先に、一つ。地図には、載っていない厩があります」
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馬車は街道を外れ、林の縁を回る細い道へ入った。
ニスが御者に告げる道筋は、案内札も道標もない。それでも迷いがない。轍の浅い、草の伏せた跡を、ニスは目だけで拾っていく。
「昔は、ここを使いました」
誰に問われたわけでもないのに、ニスは続けた。
「王宮厩舎の馬を、人目につかせず急がせるとき。街道の宿場は人が多い。馬を見られたくない荷のときは、こういう厩で替えます。馬替えだけ。人は泊まらない」
「あなたが、使った」
「私が、馬を引いて通った、というほうが正しいです」
ニスの声には、やはり隠す色がなかった。
その隠さなさが、かえってレンの喉の奥を渇かせた。
知っていることを、ニスは惜しまずに出す。地図にない厩へ、案内札もなしに馬車を導ける者は、この一行にニスしかいない。
ただ、頼れば頼るほど、レンの頭の隅で同じ問いが回る。
なぜ、この男は、これを知っているのか。
答えはもう聞いている。聞いたうえで、問いだけが減らない。
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厩は、林を抜けた窪地にあった。
屋根の半分が苔に覆われ、囲いの杭は何本か傾いている。打ち捨てられたようにも見える。だが、囲いの内側の土だけは、よく踏まれて固い。馬が、つい先ごろまで立っていた土だった。
馬車を止め、レンが先に降りた。ニスが続く。
厩の奥から、痩せた男が一人、出てきた。年は五十を越えているだろう。腰に古い革帯を巻き、手には馬櫛を握ったままだ。
「馬替えは、やっとらん」
男は、こちらの顔を見るより先にそう言った。
「ここは、もう畳んだ厩だ。替えの馬はおらん。先を急ぐなら、街道の宿場まで戻りな」
「馬を替えに来たのではありません」
レンは、男の手の馬櫛に目をやった。畳んだ厩の番人が、なぜ馬櫛を握っているのか。
「今朝、ここで馬を替えた者がいます。それを、お尋ねしたい」
「来とらん」
男の返事は速かった。速すぎた。
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ニスが、一歩前に出た。
「東の囲いの、二番目の杭」
ニスは、傾いた杭の一本を指した。
「あの杭に、引き綱の擦れ跡があります。新しい。今朝の露を、綱が払った跡です。畳んだ厩に、なぜ今朝の擦れ跡が残るんです」
男の手が、馬櫛を握り直した。
「それと」
ニスは、囲いの内側の土を、爪先で軽く示した。
「あの蹄の跡。釘穴が後ろ寄りの一列。王宮厩舎の打ち方です。街道の鍛冶は、こういう打ち方をしません。私が、知っています」
男は、ニスの顔を、初めてまともに見た。
「……あんた、厩番か」
「昔は。今は、別の務めです」
男は、馬櫛を持つ手を下ろした。革帯のあたりから、ふっと力が抜けるのが、傍目にも分かった。
「畳んだ厩に番を置いてるってことは、そういうことだろう」
ニスは、声を低くした。
「誰かが、まだここを使ってる。あんたは、その馬を世話してる。今朝の客のことを、口止めされてる。違いますか」
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男は、しばらく黙っていた。
それから、馬櫛で、自分の肩のあたりを一度叩く。考えをまとめるときの、長年の癖なのだろう。
「今朝、一頭来た。替えて、すぐ出た。北へ」
「人は」
「一人。顔は布で隠してた。物は言わん。革袋から銀貨を出して、台の上に置いて、それだけだ。馬の脚は、上等だった。あれは、街道の馬じゃねえ」
レンは、その四つを、頭の奥の板へ写した。一人、顔を隠した者、上等な脚、北。
「銀貨を、台に置いた」
レンは、そこに引っかかった。
「畳んだ厩で、口止めされた客が、なぜ銀貨を払うんです。口止めなら、銀貨こそ目につく。黙って通り過ぎればいい」
男は、ふんと鼻を鳴らした。
「払うのが、決まりなんだとさ。昔っからだ。ここを使う者は、必ず台に置いていく。銀貨を置けば、おれは何も見なかったことにする。それが、この厩の決まりだ」
「決まりを、作ったのは」
男は答えなかった。
答えない代わりに、馬櫛を握り直して、厩の奥へ目をやった。その目の先に、答えがあるとでもいうように。
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厩を出るとき、レンは台の上を見た。
古い木の台に、銀貨の擦れた跡が、いくつも残っている。一枚や二枚ではない。長いあいだ、何度も同じ場所に置かれた跡だった。
この厩は、打ち捨てられてなどいない。北へ抜ける誰かのために、ずっと、生かされてきた。
「ニス」
馬車に戻りながら、レンは、隣のニスに声をかけた。
「あの決まりを、あなたは知っていましたか」
ニスは、すぐには答えなかった。
御者台に手をかけ、囲いの杭をもう一度見てから、口を開いた。
「銀貨の決まりは、知りませんでした」
「厩は、知っていた」
「厩は、知っていました」
ニスは、レンのほうを向いた。
「私が王都厩舎にいたころ、急ぎの馬をこの道で替えたことは、あります。けれど私は、馬を引いて通っただけです。台に銀貨を置いたのが誰で、何の決まりだったのか――そこまでは、私の役ではありませんでした」
隠さない声だった。
知っていることは知っていると言い、知らないことは知らないと言う。その境目が、いつもくっきりしている。
くっきりしすぎている、とレンは思った。本当に潔白な者は、ここまで境目を整えて話せるものだろうか。それとも、整えて話せる者だからこそ、信じてよいのか。
小骨は、抜けない。抜けないまま、また一つ、数が増えた。
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馬車が街道へ戻ったころ、日は中天を過ぎていた。
幌の中で、ユリウスが帳面から顔を上げた。
「厩で、何か」
「先を行く者がいます。一人。今朝、あの厩で馬を替えて、北へ抜けました」
「銀の鈴の話を、知っている者でしょうか」
「分かりません。北へ向かう用が、ほかにあるのかもしれない。ただ」
レンは、革袋の上から、布に包んだ蹄鉄の固さを確かめた。
「同じ型の蹄鉄が、私たちの半日先を進んでいます。それだけは、確かです」
ユリウスは、帳面の端を指で折った。
「中継地の商会取次までは、あと一日。カルロス殿の返しが置かれているなら、そこで受け取れます」
「向こうから、何か言ってきているといいんですが」
「言ってくるでしょう。あの方は、黙って待つ性質ではありません」
ユリウスは、何か言いかけて、口を閉じた。言わずに飲み込んだものがある。それが分かる程度には、レンもこの番頭代理を見てきた。
だがユリウスは、それきり帳面に目を戻した。
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馬車は、北へ進んだ。
崩壊まで、残り二十五日。王都までは、あと五日。
残り二十五日。
その数は、頭の中では、ただの数字だ。けれど王都で帳簿の空白を埋められなければ、その数字の向こうで、薬の切れる街がいくつも出る。ミナが札を握って数えている共同倉庫も、その一つになる。
数えられる人の数を、一人でも多く、崩壊の手前に残す。そのために、この馬車は北へ向かっている。
誰かが、同じ道を、半日先で進んでいる。顔を布で隠し、銀貨を台に置き、何も見なかったことにさせながら。
レンは、幌の隙間から、前を行く街道の先を見た。
その先に、まだ見ぬ顔が一つ、馬の背で揺れている。




