第55話 連れていく者、残す者
夜明け前の空気は、息を吐くと白く残った。
共同倉庫の前に、馬車が一台。替え馬の二頭は、まだ眠そうに首を垂れている。
レンは荷台の脇に立ち、目を閉じて、一度だけ《棚卸し》を回した。
馬車一台、保留中扱い、七日分の干し肉と堅麺麭、塩袋二、水袋六、薬箱一。
頭の奥に、いつもの鈍い痛みが差した。
今日の分は、これでいい。深くは回さない。先は長い。道中ずっと使う頭だから、朝のうちから根を詰めることもない。
崩壊まで、残り二十七日。
今日から、その日数を、馬車の車輪で一日ずつ削っていく。
目を開けると、荷の最後に、布で包んだ古い蹄鉄がひとつ薬箱の脇に収まっている。
王宮厩舎印の蹄鉄。ヘイルから預かったものだ。これだけは荷の数には入れず、自分の手の届く場所に置いておく。
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「配置を、もう一度だけ詰めさせてください」
領主館から早朝に降りてきたセリアは、門灯の下で、レンの差し出した手控えを受け取った。
「残す側から決めます」
「ええ」
「ミナと共同倉庫の数字。ヤール殿の家。それから、領内の荷の動き。この三つは、留守のあいだも止めません」
「その守りに、フェンを」
「はい。あの者は若いが、迷ったときに黙りません。黙らない護衛は、留守を任せるのに向いています」
セリアは手控えの端を、指で軽く押さえた。
「では、王都へは」
「ニスと、もう一人。公爵家衛兵から、王都までの街道を一度でも踏んだ者を、選んでいただけますか」
「ニスを連れていく理由は」
レンは、薬箱の脇の蹄鉄を、目だけで示した。
「王都の厩舎を、内側から知っている者が、一人要ります。道だけなら御者でも足ります。けれど、馬と厩番の事情まで分かるのは、ニスだけです」
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セリアは、すぐには頷かなかった。
「あの蹄鉄は、王宮厩舎の馬が、十年前に北方裏道へ混じっていた証です。ニスも、王都厩舎を踏んだ者の一人」
「承知しています」
「疑いの線の上に立っている者を、王都へ連れていくということになります」
「だから連れていきます」
レンは、自分でも少し驚くほど、短く答えていた。
「疑う相手を遠ざけても、疑いは晴れません。近くに置いて、王都の厩舎の話を、あの者の口から一つずつ聞きます。役に立つなら役に立つ者として扱い、線が動いたら、そのとき動きます」
セリアは、しばらくレンの顔を見ていた。
見たあとで、ひとことだけ言った。
「レン殿のそういう割り切りは、父代にはありませんでした」
褒めているのか案じているのか、声の色だけでは分からない。
ただ、セリアは手控えに、ニスの名ともう一人の衛兵の名を自分の字で書き足した。
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馬車の支度が整うころ、フェンが門の脇に立っていた。
荷を運ぶでもなく、ただ、出ていく馬車の方を見ている。
レンが近づくと、フェンは姿勢を正した。それから迷いを隠さずに口を開く。
「私は、留守でよかったのでしょうか」
「よかった、と俺は思っています」
「ニスさんが王都に行くと聞いて、正直、引っかかっています。あの蹄鉄の件が、まだ腑に落ちていません。なのに私は、ここに残る」
レンは、フェンの目を見た。
「腑に落ちないことを、腑に落ちないまま覚えておいてください。それが、留守を任せる側の仕事です」
「覚えておく、だけ」
「ミナの数字に、おかしな動きが出たら、それはあなたが最初に気づく場所にいます。王都で何かを掘り当てるより、ここで一日早く気づくほうが、人が助かることもあります」
フェンは、すぐには返事をしなかった。
返事の代わりに、馬車の荷台の蹄鉄の包みを、一度だけ見た。
見たあとで、短く頷いた。
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ヤールが、布の鞄を胸に抱えて、最後に馬車へ乗り込んできた。
昨日の午後、フェンに付き添われて自分の家から持ち帰った、父トムルの書簡だった。
鞄の口から、紙の束の角が覗いている。束は、思ったより薄い。
「父の机の引き出しは、すでに一度、誰かが検めた跡がありました」
ヤールは、座席に落ち着くと、声を低くした。
「残っていたのは、これだけです。控え帳の写しが、途中の頁から先、抜き取られています。残った頁にだけ、本物の書状との差が、父の字で書き込まれていました」
「差は、どれくらい」
「父の書き込みでは、二割。けれど、抜き取られた頁の分を入れれば、もっと開くはずです。その分が、まるごと、無くなっています」
ヤールは、残った頁の一枚を、鞄の口から少しだけ引き出して見せた。
「これが、父の字です」
頁の隅に、細かい走り書きがある。本物の書状の数量と、控え帳に写された数量が、二行に並べて書かれていた。
薬瓶、本物は四十。控えは三十二。
保存食、本物は百二十。控えは九十六。
「八瓶と二十四。どちらも、ちょうど二割です」
「割り戻すと、同じ手が、同じ割合で引いている」
「父は、そう見ていたと思います。一度きりの抜き取りなら、数は揃いません。二割で揃うのは、続けて、同じ者が引いているからです」
レンは、二行の数字を、目で確かめた。
数字は嘘をつかない。揃いすぎた二割が、人の手の癖を、紙の上に残している。
頁を戻すヤールの指の先で、抜き取られた境目が、糸の切れ端を残してほつれている。
足りない頁が、王都で埋めるべき空白だった。物が、欠けたかたちで、目的地を指している。
「無くなった頁を、王都で探します」
「父が、それを書いた相手が、まだ王都にいるなら」
ヤールは、そこで言葉を切った。
父の生死は、まだ分からないままだ。
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馬車の支度が、いよいよ整った。
セリアが、御者台の脇まで進んできた。請求書を収めた革筒を、レンの手にじかに渡す。
「ひとつ、約束をします」
「約束、ですか」
「この紙を王都へ運ばせるのは、領主家の都合です。けれど私は、レン殿を領主家の都合の道具にはしません。リンドホルムの補給は、紙一枚より、数えられる人ひとりで保っています。王都で危ういと判じたら、紙より先に、補給官の身を退かせます。それが領主の判断です」
レンは、革筒を胸の革袋に収めた。
「届けたいものを、届けに行くだけです。道具にされるとは、思っていません」
「思っていなくても、私が、そう決めておきます」
セリアの声は静かだったが、決めた、という語だけは、いつもより重く落ちた。
レンは、それ以上は返さなかった。返さないことが、受け取った返事だった。
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馬車が動き出したのは、東の空がようやく白み始めたころだった。
ガルドが倉庫の扉の脇から、煙草を一度吐いて見送った。ミナは首から下げた札を握ったまま、走りもせず立って手を上げる。
馬車が街道に乗ると、リンドホルムの灰青の屋根が、後ろへ遠ざかっていく。
幌の中で、ユリウスが小さな帳面を膝の上に開いた。
商家の符牒で、中継地までの行程と、合流の段取りが書き込まれている。
「カルロス殿との落ち合いは、王都の二日手前の宿場でと密信に書いて送りました」
「向こうから、返しは」
「まだ。届くなら、中継地の商会取次に、私の名宛で置かれているはずです」
ユリウスは帳面の端を、指で軽く折った。
「ひとつ、申し上げておきます。私が王都へ動いたことは、いずれヴェルナー本店の知るところになります。本店は、王都補給局と長く商いをしてきた相手。私が補給局長へ近づく動きを、本店がどう読むかは、読めません」
「番頭代理の一存で動いた、では済みませんか」
「済めば良いのですが。済まないときのために、商人として説明のつく荷を一台、別に立てております」
ユリウスの口元に、いつもの含みが戻った。
含みの奥で、商家の一線を越える算段を、彼はもう組み終えていた。
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御者の隣で、ニスが道の先を見ていた。
半日も進んだころ、ニスが誰に言うでもなく口を開いた。
「この先の中継地ですが」
「何か」
「街道筋の宿場とは別に、馬替えだけを置いた小さな厩が、一つあります。地図には、載っていません。王宮厩舎の馬を急がせるとき、昔は、そこで替えました」
レンは、手控えに目を落としかけて、止めた。
地図に載らない厩を、ニスは当然のように知っている。役に立つ知識だ。その役立ちが、そのまま喉の奥の小骨になる。
「なぜ、それを」
「私が、王都厩舎にいたころの話です」
ニスの声に、隠す色はなかった。
隠す色がないことが、かえってレンの胸の奥に小石のように残った。
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日が高くなったころ、馬車は最初の中継地の手前に差しかかった。
街道の脇、土がぬかるんだ窪みに、馬の足跡が残っている。
レンは馬車を止めさせ、降りて、その跡をしゃがんで見た。
蹄鉄の跡。
ふつうの街道馬の蹄鉄とは、釘穴の並びが違う。間隔が狭く、後ろ寄りに一列。
ヘイルから預かった、あの王宮厩舎印の蹄鉄と、同じ型だった。
「新しい跡です」
ニスが、レンの肩越しに覗き込んで、低く言った。
「昨日の夜か、今朝。この道を、王宮厩舎の馬が、私たちより先に通っています」
レンは、ぬかるみの跡から顔を上げた。
王都までは、まだ六日。崩壊まで、残り二十六日。
誰かが、同じ道を先に進んでいる。
その誰かが銀の鈴の話を知っているのか、それとも別の用で北へ向かったのか――まだ何も分からない。




