第53話 呼ばせなかった
リンドホルムの市門が見えてきたのは、午後の鐘の前だった。
街道の枯れ草が、宿場手前のそれより少し高くなっている。リンドホルム近郊の土は、北方街道のそれより肥えていて、冬の手前でも青みを残す草が混じる。
その青みを馬車の幌の隙間から見て、ミナが小さく息を吐いた。
「帰ってきた」
ぽつりとひとこと。
帰る場所がある子供の声だった。
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市門の衛兵は、馬車の御者を見て一度頷き、それから幌の中のレンを認めて、敬礼の手を上げた。
通行記録は型通りに進み、馬車は石畳の上を進んでいった。
共同倉庫の前に着いたとき、ガルドは扉のすぐ脇に立っていた。
白い息を吐き、腕を組んでいる。出立の朝と、同じ姿だった。
レンが馬車から降りると、ガルドはそれ以上は動かずに、ひとことだけ言った。
「戻ったか」
「戻りました」
レンは胸元の革袋から、預けた古い鉄の鍵を取り出して、ガルドの掌の上に置いた。
ガルドの掌は、出立の朝と同じ重みで、鍵を受け取った。
「数字は」
「持ち帰っています。後で、ここの帳簿と突き合わせます」
「待ってる」
それだけだった。
ガルドはミナの方を一度だけ見て、目で「無事か」と確かめた。ミナは札の紐をひとつ握って、無言で頷いた。
言葉にしないことの方が、ここでは早く伝わる。
ガルドは、レンの後ろの馬車から降りてきたユリウスとヤールにも、目だけで会釈を返した。
ヤールの姿を見て、ガルドの眉がほんのわずか動いた。
「あとで、領主館に上げる」
ガルドはそれだけ言って、共同倉庫の扉に手を掛けた。
扉が低く軋み、出立以来の倉庫の埃と煙草の匂いが、外の冷えた空気と混じった。
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領主館の門は、レンたちを待っていたかのように、すぐに開いた。
執務室の扉の前で、レンは胸元の革袋を一度だけ整えた。
関所で集めた七つの物が、革袋の中で布越しに、肌に当たっている。
扉が開いた。
セリアは机の向こうに立っていた。出立の朝と同じ正装、襟元の刺繍は控えめ、髪はきっちりと結われている。
ただ、机の上には、青蝋封の欠片を収めた小皿が、今日もそのまま残っていた。出立の朝、伏せられた書類のいちばん下に覗いていた、あの深い青の欠片。
セリアは、その小皿に手を触れずに、レンを迎えた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
短いやり取り。
短いから、いま帰ってきた、という事実だけが、部屋の中に落ち着いた。
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「先に、ひとつだけ申し上げます」
レンは机の前に進み、姿勢を正した。
「家名は、呼ばせませんでした」
セリアの目が、ほんのわずか細くなった。
細くなった目に、感謝でも喜びでもない、もっと静かな何かが浮かんだ。
「ありがとうございます」
「呼ばせない、と出立の前にお答えした言葉を、関所の手前で何度も思い返しました。家名を呼ばれる場面は、確かにあり得る場面でした。けれど、向こうがその一線を越える前に、別の話が、机の上に上がりました」
「別の話」
「銀の鈴一対の話、です」
レンは胸元の革袋から、絹布の包みをひとつ取り出した。
赤と黒の紐で結ばれた、軽い包み。机の上、青蝋封の小皿の隣に、静かに置いた。
「これは」
「銀の鈴の片割れの音を、紙に写したもの。北方ヴェン家の神殿の作法によるものです。北方第三関所まで来られたのは、ヴェン家の現当主、カルセル・ヴェン殿。彼女はカルロス・ヴェイン殿の叔母にあたります」
セリアの指先が、絹布の縁に、ごく軽く触れた。
触れたあと、すぐに離した。
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「カルロス殿の」
「叔母です」
「叔母が、関所まで」
「ご当主自ら、北方の隊列を率いて来られました。目的は、銀の鈴一対の返却要求。百年前、王国の調査隊が北方神殿から持ち帰り、王都補給局の倉庫奥に、未整理のまま今も眠っている品です」
「百年」
「過去三度、正式な返却要請がヴェン家から出ています。いずれも王都補給局の書記課に握り潰されました。書記課長マゼル殿が、その押さえ手を継いでいる職位の現任者である可能性が、こちらの推定です」
セリアは、机の脇の椅子に腰を下ろした。
長くなる話を、立ったまま聞く立場ではない、と判断した動きだった。
「補給網崩壊の進行と、銀の鈴の不在は、繋がっています」
「繋がる、というのは」
「物流の理を保つ祭具が、本来あるべき場所から離れたままになっている。その不在が、王国の流通の乱れを徐々に広げてきた、というのが、北方側の主張です」
「主張だけでは、判断できません」
「判断はまだ要りません。判断の前に、こちらが知った事実を、まず机の上に並べたいと思います」
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レンは、革袋から残りの品を順に出した。
関所長の遺志リスト書状束。業務日誌。男爵書状束。ヤール父からの手紙。王宮厩舎印の古い蹄鉄。
それらが机の上に並ぶと、青蝋封の欠片の小皿と、絹布の包みが、その列の両端を挟む形になった。
「四条件、合意してまいりました」
「順に、伺います」
「ひとつ。北方側は、銀の鈴の片割れを、神殿で鳴らし続けます。それで、崩壊の進行が三十日止まります」
「三十日。崩壊までの残りと、同じ数字です」
「向こうが、意図して合わせてきました」
セリアの指が、机の上の絹布の包みに、一度だけ触れた。触れて、すぐに離した。
「ふたつ。関所書記補佐のヤール殿を、こちらで正式にお預かりします。関所長殿の筆跡を、いちばん近くで見てきた人です。手放せば、向こうの手に戻ります」
「先ほど、廊下にいた方ですね」
「はい。あとで、ご挨拶に上げます」
「みっつ。オルブライト男爵殿は、ヴェン家の保護下です。ご本人の意思で、北方神殿に滞在しておられます」
「男爵殿が、ヴェン家のもとに」
「書状の筆跡が二月前から男爵殿ご本人のものでないと、ご自分でお気付きになりました。それで、身を移されたのです。関所長殿もまた、男爵書状の相違点を九箇所、独自に記録しておられました。机の右に置いた束が、その記録です」
セリアは、九箇所の記録を、ひとつずつ指で確かめた。
確かめる指は、領主家の机に長く触れ続けてきた指の動きだった。
「マゼル殿の」
「断定はまだです。ただ、書記課・控え帳と本物書状の二割差異という別線も、トムル・ヴァストロ殿が二月前に確認しております。ヤール殿の父です」
「お父様は」
「現在、生死不明。ヴェルナー大商会王都支店経由で、ユリウス様に調査を進めていただきます」
「四つめの条件は」
「関所長殿の遺志の書状束を、王都補給局のカルロス殿へ、直接届けます。その経路を、北方側は妨げません」
「直接、というのは」
「書記課を通さない、ということです。マゼル殿の手を、経由しません」
セリアは、机の上の書状束に、目を落とした。
落とした目が、四つの条件の最後の一つが、いちばん細い糸の上を通る道だと見抜いていた。
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「ヤール殿を、こちらに」
セリアの言葉に、廊下で控えていたヤールが、扉の手前まで進み出た。
深く頭を下げる。書記補佐の礼儀を、領主代行への礼儀に切り替えた角度だった。
「ヤール・ヴァストロと申します。関所長付の書記補佐でした。本日より、リンドホルム公爵家のお預かりとして、お仕えいたします」
「ヤール殿のお父様のことは、伺いました。私どもの側で、できる調べはすべて尽くします」
「ありがとうございます」
「書記補佐としてのお仕事は、レン殿の手元で、続けてくださって結構です。お父様が遺された記録の取り扱いも、レン殿とご相談の上で」
「了解いたしました」
ヤールは、もう一度、深く頭を下げた。
頭を下げる動きの途中で、彼の懐の中の紙が、布越しにわずかに動いた音がした。
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「もうひとつ、お見せするものがあります」
レンは、机の上に並んだ品の最後、王宮厩舎印の古い蹄鉄を、指で示した。
「南宿場の厩番ヘイル殿から、お預かりした蹄鉄です。十年前、北方裏道を通った馬の一頭が落としていったもの。王宮厩舎の印が、入っております」
「王宮厩舎」
「軍の馬を扱う方の厩舎です。本来、王都厩舎(一般)の裏道に、王宮厩舎の馬が混じることはありません」
「十年前から、混じっていた」
「ヘイル殿は、その混在を上役に問うた翌月に、南宿場へ降格異動になりました」
セリアの目が、蹄鉄の刻印の上で、しばらく止まった。
止まったあとで、ひとことだけ呟いた。
「父代に、よく似た話があります」
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「父代に」
「先代の頃、王宮厩舎と王都厩舎のあいだで、馬の貸借に関する小さな取り決めがあったと、書庫の古い帳面に残っています。詳しくは、後で私の方で確かめます」
セリアは机の上の蹄鉄を、絹布の包みのすぐ脇に置いた。
銀の鈴の音の波形を写した絹布と、十年前の蹄鉄。
二つの物の間に、五寸ほどの距離が空いていた。
その距離の中に、まだ言葉にしていない何かが収まっていた。
「銀の鈴を、王都の倉庫から取り出す経路、ですが」
セリアは、机の脇の引き出しを開けた。
奥から、薄い紙束をひとつ取り出した。表紙に「父代・私的覚書」とだけ書かれている。
「父代の負債書類は、すべてが借金ではありません。中には、王都補給局の倉庫を独自に動かせる、ひとつの紙が混じっています」
レンは、その表紙を見た。
父代の負債書類。出立の朝、セリアが「お話しすべきだとは思います」と切り出して、そのまま夜の時間に流れてしまった話だった。
「お話、伺います」
「明日の朝、改めて。今夜は、皆さま、まず休んでください。長い旅でした」
セリアは表紙の薄い束を、もう一度引き出しに戻した。
戻す動きは、隠す動きではなく、今夜は出さないと相手に示す動きだった。
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領主館を出るとき、リンドホルムの空はもう日暮れの色に傾いていた。
灰青の街並みの上を、北からの風が一度、長く流れていく。
レンは、革袋にすべてを戻した。
絹布の包みと蹄鉄だけは、セリアの机の上に残されている。明朝、また並べ直すための置き方だった。
崩壊まで、推定で残り二十八日。
明日の朝、父代の独自経路の話を伺う。話のあとで、王都への動きを組み立てる。
ミナがレンの脇で、首から下げた札の紐を、もう一度きつく結び直した。
結び直す指は、長旅の疲れより、明日からの仕事への準備の方に向いていた。
ユリウスは、馬車の方へ歩きながら、ヤールに何か低く話しかけていた。
ヴェルナー大商会王都支店への手配を、今夜のうちに飛ばすつもりらしかった。ヤール父トムル殿の生死を、まず確かめる動きを、ひと晩でも早く立ち上げる。
明日の朝、父代の独自経路の話が出るより前に、王都側の調査の口を一度開けておく算段だった。
領主館の灯りが、レンの背中の方で、ひとつだけ点った。




