第52話 十年前の厩番
南宿場の門をくぐると、土間の奥から湯気の匂いが先に届いた。
ヤン・コルテスが、片耳に手を添えた姿勢で土間の入り口に立っていた。
馬車の車輪の音を、彼はもう半刻も前から聞いていたらしい。
「お戻りで」
「ヤン殿。ご無沙汰しております」
「無沙汰ってほどでもねえ。ひと月も経っとらん」
ヤンは湯呑みを人数分、卓に並べはじめた。
並べる手の動きは、前に見た時と変わらない。慣れすぎた宿屋の主人の手だった。
レンは卓につく前に、ひとつだけ確かめた。
「ヤン殿。ハル殿のことで、こちらで分かったことが、ひとつあります」
ヤンの手が、湯呑みの上で一度だけ止まった。
「ほう」
「関所の書記補佐から、伺いました。半年前まで、関所の書記課で、木片を彫っておられたそうです」
「半年前まで、か」
「ヤール殿と申します。今、馬車に同乗しております」
ヤンは土間の外の馬車の方を、しばらく見ていた。
見たあと、湯呑みに湯を注ぎ足した。
「生きてた、ってことだけは、半年前まで確かなんだな」
「確かです。半年前に関所から別の場所へ移されたと、ヤール殿は聞いています。移された先は、まだ分かりません」
「別の場所、ね」
ヤンは、その言葉を口の中で一度だけ繰り返した。
繰り返したあとで、卓の縁を、節くれた指で軽く撫でた。
「親ってのは、行き先が分かってる方が、まだ眠れる。分からねえと、夜中に何度も天井を見ることになる」
「お辛いことを、伺いました」
「いや。半年前まで生きてた、ってのは、俺にとっちゃ、ひと月前より、よっぽど新しい知らせだ。礼を言う」
ヤンは、それ以上を聞かなかった。
聞けば、長くなる。長くしないことが、今のヤンの強さだった。
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「ヘイルは、北の厩だ」
ヤンが、湯呑みを置きながら言った。
「あいつも、もう五年ここの厩番でな。馬の扱いは、宿場のどの若いのより確かだ」
「お会いしてきます」
「ええ。ただ、ひとつ」
ヤンは土間の梁を一度見上げた。
「ヘイルは昔の話をあまりせん。十年前、王都の厩舎にいた頃の話は特にな。聞き出そうとすると、貝になる」
「無理には聞きません」
「聞かんでも、あいつの方から話す気になったなら、それはよほどのことだ。よほどのことだと思って、聞いてやってくれ」
レンは頷いた。
頷いて湯を一口だけ飲み、北の厩へ向かった。
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北の厩は、宿場の建物の裏手、風下に建っていた。
厩の中は、馬の体温で外よりわずかに暖かい。
藁の匂い、馬具の革の匂い、それから鉄を磨いた後の匂いが薄く混じっていた。
馬房の前に、ひとりの男がしゃがんでいた。
白髪まじりの髪を短く刈り、背中は厩仕事で丸くなっている。手には、馬の蹄を挟む鉄の道具。
馬の前足を膝に乗せ、蹄の裏をていねいに削っていた。
「ヘイル殿ですか」
男は、手を止めずに答えた。
「そうだ。あんたが、レン・アスターさんか」
「はい」
「ピップから聞いてる。座るとこは、そこの藁束で勘弁してくれ」
レンは藁束の上に腰を下ろした。
ヘイルは蹄を削り終えると、馬の足をそっと地面に戻した。
戻された馬は、何ごともなかったように飼葉桶に鼻を寄せた。
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「ニスは、元気か」
ヘイルが、最初に聞いたのは、そのひとことだった。
「お元気です。今、北方第三関所を預かっていただいています」
「関所を、ニスが」
「関所長代理として」
ヘイルは鉄の道具を布で拭いた。
拭く手が、一度だけ止まった。
「あいつが関所の代理か。十年前は王都厩舎で、俺と並んで馬の尻を洗ってたんだがな」
「お二人は、同期だと伺いました」
「同期だ。同じ年に王都厩舎に入った。あいつは生真面目で、俺は口が多かった。それだけの違いだ」
ヘイルは布を畳んで、馬具掛けに戻した。
戻す動きの途中で、彼の目が、厩の奥の棚を一度だけ見た。
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「あんたは、北方第三関所の裏門を、ニスの案内で抜けたそうだな」
「はい」
「あの裏門は、十年前まで王都厩舎の馬丁が、北方へ馬を運ぶときに使ってた。表の通行記録には残らない道だ」
「ヘイル殿も、使われたのですか」
「使った。何度もな」
ヘイルは、藁束のひとつに、自分も腰を下ろした。
腰を下ろすとき、片膝が小さく鳴った。長く厩仕事をしてきた膝の音だった。
「十年前のある時期から、その裏道を通る荷が、一方向にだけ増えた」
「一方向」
「北へ。王都の側から北方の側へ。荷は木箱で、中身は俺たち馬丁には知らされなかった。ただ、箱の重さと運ぶ回数だけは覚えてる」
「重さは」
「ひと箱、米俵ひとつ分ほど。けれど米じゃない。米なら運ぶときに、袋の中で中身が動く。あの箱は動かなかった。中で何かが、きっちり固定されていた」
「固定、と申しますと」
「箱を傾けても、中身が片側に寄らない。詰め物で隙間なく押さえてあるんだ。壊れやすいものを運ぶときの、丁寧な詰め方だ。馬丁を十年やれば、箱を担いだ肩の感触で、それくらいは分かる」
「壊れやすいもの」
「ガラスか、陶器か、あるいは、もっと別の何かか。中は見てない。見せてもらえなかった」
レンは頭の奥に、その箱を置いた。
動かない中身。きっちり固定された荷。壊れやすい何か。北へ、一方向に。
「俺は、一度だけ、運ぶ先を聞いた」
ヘイルの声が、わずかに低くなった。
「厩舎の上役にだ。この箱は、どこへ運ばれるんですか、とな」
「お答えは」
「答えは、なかった。代わりに、その月の終わりに、俺の異動の書状が出た。王都厩舎から、南宿場の厩番へ。降格だ」
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厩の中で、馬が一頭、藁を踏み替えた。
踏み替えた音が、静けさの中で、思ったより大きく響いた。
「聞いたから、流された、ということですか」
「そう取るのが、いちばん素直だな」
ヘイルは、否定も肯定もしない言い方をした。
「ただ、俺は運がよかった。流された先が南宿場だった。ヤンの宿場だ。ヤンは昔から、人を簡単に追い出さない男でな。おかげで俺は、まだ馬の世話をして生きてる」
「ニス殿は」
「ニスは流されなかった。あいつは生真面目だから、よけいなことを聞かなかった。聞かなかったから王都に残れた。残って、後にリンドホルム公爵家の衛兵に取り立てられた」
「同じ厩舎にいて、聞いた者と、聞かなかった者で、道が分かれた」
「分かれた。それだけの話だ」
ヘイルは、そう言って立ち上がり、厩の奥の棚へ歩いた。
棚から、布に包んだ小さなものを取り、戻ってきた。
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布を開くと、中から古い蹄鉄がひとつ出てきた。
鉄は黒ずみ、縁は長い使用で丸くなっている。
蹄鉄の内側に、小さな刻印がひとつ。
「王宮厩舎の印だ」
ヘイルが言った。
「王都厩舎じゃない。王宮厩舎。軍の馬を扱う方の厩舎の印だ」
「なぜ、それをヘイル殿が」
「十年前、北方裏道を通った木箱の馬車。その馬の一頭が、この蹄鉄を落としていった。俺が拾って、ずっと取ってある」
「王宮厩舎の馬が、王都厩舎の裏道を通っていた」
「そういうことだ。本来、混じらないはずの二つの厩舎の馬が、あの裏道では混じっていた」
レンは蹄鉄を、手のひらに乗せた。
黒い鉄は、思ったより冷たく、十年分の重みがあった。
「これを、あんたに渡しておく」
「よろしいのですか」
「俺が持っていても、もう馬の足には戻せない。あんたが持っていれば、いつか、どこかの記録と突き合わせられるかもしれん」
「十年、お持ちだったものを」
「十年持って、分かったことはひとつだけだ。ひとりで持っていても、蹄鉄は、ただの古い鉄だ。突き合わせる相手がいて、初めて、証拠になる」
ヘイルは、レンの胸元の革袋に一度だけ目をやった。
「あんたは、突き合わせる相手を何人も連れて歩いているように見える。倉庫の娘、商人、書記の若いの。ひとりで抱え込まない人間だ」
「抱え込めない、だけです。俺の数えた数字は、俺ひとりでは誰にも証明できません」
「それを、抱え込めない、と言えるのが、あんたの強みだ」
ヘイルは、そこで初めて、薄く笑った。
笑うと、目尻の皺が深くなった。厩の薄暗がりの中で、その皺だけが、馬の温もりに近い色をしていた。
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レンは、蹄鉄を、胸元の革袋に入れた。
関所長の遺志リスト、銀の鈴の音の波形、ヤール父の手紙。
その隣に、十年前の蹄鉄が、ひとつ加わった。
「ヘイル殿。最後に、ひとつだけ」
「言ってみろ」
「北方裏道を通った木箱は、十年前に、止まったのですか。それとも、今も」
ヘイルは、しばらく、馬房の馬を見ていた。
馬は、飼葉を静かに食んでいる。
「止まっちゃいない、と思う」
ヘイルは、低く言った。
「あの裏道は、表向きは閉鎖された。だが、閉鎖された道ってのは、人の目が届かなくなった道、ってことだ。目が届かない道は、いちばん使いやすい」
「今も、木箱は、北へ」
「確かめたわけじゃない。ただ、近頃、北東街道の方で、行方知れずになる荷が増えてる、という話は、宿場を通る連中から、よく聞く」
レンは頷いた。
北東街道。行方知れずの荷。十年前の木箱。
ひとつの線が、頭の奥でまた少し太くなった。
「ひとつ、言っておく」
ヘイルは立ち上がり、馬房の柵に手を掛けた。
「あんたは今、北方第三関所の話を抱えて、リンドホルムへ戻るところだろう」
「はい」
「なら、街道で、馬の蹄の音に気をつけろ。十年前、俺の異動の書状が出る三日前から、王都厩舎には、見慣れない早馬が何度も来ていた。早馬が増えたあとに、人がひとり、配置を変えられる。順番は、いつもそうだ」
「早馬が、先触れになる」
「先触れだ。荷より早く、人より早く、知らせだけが走る。その知らせを出している場所が、いちばん奥にいる」
レンは、その言葉を頭の板に書き留めた。
早馬。先触れ。いちばん奥。
南宿場へ来る道中、街道で擦れ違った早馬の蹄の形を、レンはもう一度、記憶の中で確かめた。
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厩を出ると、南宿場の空は、もう夕方の色に傾きはじめていた。
馬車は、出立の支度を終えている。
ユリウスが地図を畳み、ミナが札を首に掛け直し、ヤールが御者台の脇に立っていた。
レンは、胸元の革袋に手を添えた。
古い荷札、関所長の遺志リスト、銀の鈴の音の波形、ヤール父の手紙、そして十年前の蹄鉄。
革袋は、関所を出た朝より、はっきりと重くなっていた。
リンドホルムまでは、あと一日。
王国補給網崩壊まで、推定で残り二十九日。
馬車は、南宿場の門を出て、街道を南へ向かった。
夕方の風が、街道の枯れ草を、北から南へ、ひとつなでて過ぎていった。




