第51話 父からの最後の手紙
北方第三関所の灰青の旗が、馬車の窓から、もう小さく見えなくなった頃、レンは膝の上の革袋を一度だけ確かめた。
関所長の遺志リスト、業務日誌、男爵書状束、銀の鈴の音の波形を写した絹布、それからヤール父からの最後の手紙。
五つの紙ものが、革袋の中で、馬車の揺れに合わせて、ごく小さく音を立てていた。
御者台では、護衛のひとりが手綱を握っている。
もう一人は関所に残った。途中、街道の中継宿で公爵家からの伝令と交代する手はずだった。
馬車の中は、レン、ユリウス、ミナ、ヤール。
ヤールは出発からしばらく、窓の外ばかりを見ていた。
窓の外には、北方街道の枯れ草の野が、朝の薄い光に照らされて広がっていた。
北の地平線では、もう関所の石壁の輪郭は溶けている。
代わりに、空の高いところに、まだ夜の名残の薄い藍色が残っていた。
その藍色の中に、北方の神殿の方角に向かう細い雲がひとつ、長く流れている。
銀の鈴の片割れの音が、その雲の下のどこかで、今も鳴り続けているはずだった。
レンは胸の中で、もうひとつの数字を置いた。
王国補給網崩壊まで、推定残り三十日。
カルセル殿の言う「片割れの音の猶予」も、ちょうど三十日。
ふたつの三十日が同じ朝、同じ街道の上で、同時に動き始めている。
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半刻ほど経った頃、ユリウスが膝の地図を広げた。
地図の北方第三関所の位置に、小さな丸が打たれている。丸の脇に、ユリウスの細い字で「灰青/預かり中」と書き加えられていた。
「リンドホルムへの戻りは、寄り道せずに進めば二日」
「お願いします」
「途中、南宿場には立ち寄りますか」
「立ち寄りません。素通りで」
レンが答えた。
「南宿場で立ち止まれば、ヤン殿やトビ、ピップたちと、また話が長くなります。今は、リンドホルムへ戻ることを優先します」
「了解いたしました」
ユリウスは地図を畳んだ。
畳むときに、南宿場の位置に、別の小さな印を打った。商家の符牒で「あとで戻る場所」を示す印だった。
あとで、というのは、銀の鈴返却の動きが固まったあと、ということだった。
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「ヤール殿」
レンは、ヤールに、ゆっくり声をかけた。
「はい」
「お父様の手紙、開いていただいても、よろしいですか」
ヤールはしばらく、膝の上に手を置いていた。
置いた手を、ゆっくり懐に入れる。
懐から、関所で見せてもらった時と同じ薄い紙が、もう一度取り出された。
「読み上げる必要は、ありません。ご自分でお読みください。ただ、後で要点だけ、教えていただければ」
「分かりました」
ヤールは紙を膝の上で、ゆっくり広げた。
馬車の中の三人は、それ以上、何も言わなかった。
ヤールの目だけが、紙の上を、左から右へ、また右から左へ、何度も往復した。
読み終わるまで、四半刻ほどかかった。
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読み終わったヤールは、紙を膝の上に置いたまま、しばらく窓の外を見ていた。
外の枯れ草の野は、相変わらず朝の光に照らされていた。
「父は」
ヤールはぽつりと言った。
「父は、王都補給局・書記課で、ふた月前に、書状の保管庫を一度、夜の間に開けています」
「保管庫を」
「開けて、その日に出された書状の控えを、控え帳と照合した、と書いてあります」
「結果は」
「控え帳の二割が、本物の書状と一致しなかったそうです」
ユリウスが目を細めた。
「二割の差異。これは、書記課の中で、誰かが控え帳とは別の書状を出している、という意味になります」
「父は、その夜のうちに、関所長殿宛ての書簡を一通、書きました。けれど、書いた翌日、書記課で何かがあったらしく、父はその書簡を関所長殿に送る前に、家に持ち帰りました」
「お父様は、その家に持ち帰った書簡を」
「私に渡し、自分は別の場所に身を移しました。最後の手紙、というのは、別の場所に移る前に、私に残された手紙です」
「お父様は、今、ご無事で」
「分かりません」
ヤールはそれだけ言って、紙をまた懐にしまった。
しまう手は、震えていなかった。
ユリウスが、低く付け加えた。
「ご無事を、こちらでも調べさせてください。リンドホルムに戻り次第、ヴェルナー大商会の王都支店に問い合わせます。商家の手は、補給局の中までは入りませんが、補給局の外周までは、いくらか動かせます」
「お願いします」
「お父様のお名前と、ご職位を、教えていただいてもよろしいですか」
「父の名は、トムル・ヴァストロ。王都補給局・書記課・上席書記です」
ユリウスは手帳の頁を一枚めくり、新しい頁に「トムル・ヴァストロ/書記課上席」と書いた。
書く字は、いつもより一文字ずつ深く沈んでいた。商人の手帳に、生死を確かめるべき相手の名を書くときの、特別な力の入り方だった。
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「ヤール殿のお父様の書簡は」
「私の家に、いまもあります」
ヤールは静かに答えた。
「リンドホルムへ戻ったら、お預かりしてもよろしいですか」
「もちろんです。父の書簡は、関所長殿宛てに書かれたものですので、関所長殿の遺志リストと並べて、カルロス殿へお渡しいただければ」
ユリウスが手帳に、もうひとつ項目を書き加えた。
「書記課・控え帳と本物書状の二割差異」
「これは、銀の鈴の話とは、別の線です」
レンが言うと、ユリウスは頷いた。
「銀の鈴は、北方ヴェン家の側の動き。控え帳の二割差異は、王都補給局の中の動き。二つは繋がっているかもしれませんが、別々に確かめる必要があります」
「マゼル殿が両方を握っている可能性は」
「あります。ですが、まだ断定はできません」
「断定しない、というのは」
「カルセル殿が仰った『マゼル殿のさらに上に、もっと北の方がおられる』という言葉を、私はまだ信じきっておりません」
ユリウスは、地図の余白に、二本の線を書いた。
一本は北方ヴェン家から関所への線、もう一本は王都補給局・書記課から関所への線。
二本の線は、関所の手前で交差しているように見えた。
交差点に、ユリウスは「マゼル?」と疑問符付きで書いた。
疑問符を残したのは、誠実な手の動きだった。
「もし二本が同じ場所で交わっているなら、マゼル殿は鈴の押さえ手であり、控え帳偽造の手でもある」
「もし別々の場所で交わっているなら」
「マゼル殿は、より大きな組織の駒のひとつにすぎない、ということになります」
馬車の窓の外を、北方街道の枯れ草が、規則正しく後ろへ流れていった。
流れる枯れ草の上を、低い高さで、鳥の影がひとつだけ南へ抜けていった。
南へ抜ける鳥の影は、もう少しすれば南宿場の方角に届くはずだった。
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「ミナ」
レンは、片隅で札を握って黙っていたミナに、声をかけた。
「うん」
「お前が今日まで首から下げてきた札と、関所で見つけた手紙類、それから銀の鈴の音の波形。これらの整理を、リンドホルムに戻ったら、お前に手伝ってもらいたい」
「あたしが」
「ああ。お前の札の数え方なら、紙の束も、内容ごとに分けられる」
「うん。やる」
ミナは札の紐をひとつ握り直した。
握る指は、関所のあいだ白くなり続けていた指とは、もう違う色をしていた。
仕事の前の指の色に、戻っていた。
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昼を過ぎて、北方街道は南宿場の手前一刻の地点まで来ていた。
街道の脇に、小さな影がひとつ立っていた。
子供の身長ほどの影。手には木の杖を持ち、頭には灰色の頭巾を被っている。
馬車が近づくと、影が片手を上げた。
「ピップ」
ミナが先に名前を呼んだ。
南宿場の少年、ピップ。
南宿場滞在のあいだに、街道の伝令見習いとして動くようになった子だった。
「お通りなさるところを、お止めして、申し訳ねえです」
ピップは大人びた口調で、頭巾を脱いだ。
頬には、夜の冷えで紅い斑が残っている。
御者が馬を緩めた。レンは幌の縁から、ピップに目で頷いた。
「ピップ、何かあったか」
「ヘイルさんからの伝言です。ヤンの宿場のヘイルさん」
「ヘイル殿から」
「『北方街道、関所手前の窪地に隠れていた一団は、夜のうちに北へ引き上げた。私の昔の同期、ニス殿の判断は正しかったとお伝えください』」
ピップは伝言を、一度息継ぎをしながら正確に伝えた。
伝え終わると、もう一度頭巾を被り直した。
「もう一つ、あります」
「どうぞ」
「ヘイルさんは、今、宿場の北の厩におられます。レン様がもしお戻りの途中で、お会いになるご都合があれば、と」
「都合は、つけられる」
「そう、お伝えしておきます」
ピップは、それ以上は言葉を継がなかった。
継がない代わりに、首にかけた小さな札を、軽く外に出して見せた。
札の表には、薄い炭で「南宿場・伝令見習い・ピップ」と書かれている。
まだ手の慣れていない字だが、書いた本人の真剣な力が、線の終わりに残っていた。
「その札は」
「ミナさんが、前に、私にくださったやり方で、自分で削って、自分で書きました」
ミナが、馬車の幌の隙間から、ピップの札を見た。
しばらく見たあと、ひとこと言った。
「角、ちゃんと取れてる」
「はい」
「いい仕事」
ピップは、そのひとことを聞いて、頬を少しだけ赤くした。
外の冷えで紅くなった頬の斑とは別の、子供らしい紅さだった。
ピップは、街道の脇から一歩下がった。
馬車の通る幅を空けて、頭を下げた。
子供の頭の下げ方ではなく、伝令見習いの頭の下げ方だった。
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馬車は再び動き出した。
南宿場までは、もう四半刻もない。
レンは、ピップが残した街道の脇の影を、後ろの幌越しに、しばらく見ていた。
影は、馬車が小さくなるまで、その場所に立ち続けていた。
ヘイル本人と、ようやく、会える。
その事実を、レンは胸の中で、もう一度だけ確かめた。
ヘイルが知る十年前の北方裏道の話、王都厩舎の話、ニスとの同期の話。これらが、銀の鈴の動きと、どこかで繋がるかもしれない。
「ユリウス様」
「はい」
「南宿場、立ち寄ります」
「了解しました」
ユリウスは地図を、もう一度広げた。
南宿場の位置に打たれた「あとで戻る場所」の印の脇に、新しい印を加えた。
新しい印は、丸の中に縦線一本。商家の符牒で「今、行く」を示す印だった。
馬車は街道の角を曲がり、南宿場の門の方角へ向かった。
門の方角の空は、午後の薄い雲が静かに広がっていた。
雲の下の地平線で、リンドホルムまで馬車であと一日ぶんの道のりが、まだ長く伸びていた。
南宿場の門が見えてくる頃、馬車の幌の縁で、御者が短く合図を送った。
合図は、ヤンの宿場の煙突から、薄い煙がいつもより遅い時間に上がっている、という合図だった。
ヤンが、こちらの到着を待って、湯を沸かしている。
到着を予測している、ということだった。
ピップの伝令は、こちらが思っているより、ずっと早くヤンに届いていたらしい。
レンは、革袋の中の銀の鈴の音の波形を、もう一度だけ指で確かめた。
絹布の包みは、温かくも冷たくもなかった。
ただ、布の縁から、宿場の煙突の煙とは違う匂いが、ごく薄く立ち上がっていた。
北方の神殿で焚かれている、何かの匂いに、似ているような気がした。
馬車は南宿場の門の手前で、もう一度ゆっくりと足を止めた。
ヘイル本人との初めての対面が、その門の向こうに、控えていた。




