第50話 夜明け前の返答
関所長執務室の蝋燭が、もう一本足された。
三本立てになった炎は、机の上に並ぶ四つの品物の影を、薄く三方向へ伸ばしていた。
業務日誌。
関所長の私印を収めた小箱。
革袋に収まった遺志リストの書状束。
絹布の包み。
四つの品の脇に、ユリウスは新しい紙を一枚広げた。
白紙の上端に、ユリウスは「条件」と一文字書き、その下に空白を作った。
「夜半までに、ひとつでも多く埋めましょう」
♦
「条件、を、こちらから出すのですね」
ヤールが、机の脇から、ごく短く確認した。
「ええ。鈴の返却を一方的に飲むのではなく、こちらの側にも、得るものを置く」
「得るもの、と申しますと」
「三つ、思いついています」
レンは、ユリウスの紙の左に、自分の指で順に数えた。
「一、補給網崩壊の進行を、北方側で一時止めること。鈴返却までの猶予を、こちらが確保するために」
「二、ヤール殿の身柄を、こちらが正式に預かること。書記補佐としての証言は、王都帳簿乖離の重要な記録になる」
「三、オルブライト男爵殿の安否確認。ご本人が今どこにおられるかを、向こうに請け合っていただく」
ユリウスが、紙の右に、三つの条件を順に書き取った。
書き取る筆の運びは、商家の支店長代理だった頃の整った字に近い。
ヤールが机の脇から、初めて自分から付け加えた。
「四、を、よろしいですか」
「どうぞ」
「関所長殿が遺された書状束を、王都補給局・カルロス・ヴェイン殿へ直接お渡しする経路を、北方側にも黙認していただきたい」
「黙認、とは」
「私どもが王都へ向かう途上で、北方側から妨害を受けない、ということです」
ユリウスは頷きながら、紙の四行目に「黙認」と書いた。
書いたあとで、レンを見た。
「四つで足りますか」
「足ります。多すぎればひとつも通らない可能性があります」
「逆に、少なすぎると」
「向こうに『こちらは弱い』と見せてしまいます。四つは、こちらの足元を見せず、なおかつ、相手が呑める数です」
ユリウスは紙の上に「四」と数字を丸で囲んだ。
「それと、もうひとつ確認です。条件は、こちらが優先順位を付けて出すか、横並びで出すか」
「横並びで出します」
「理由は」
「優先順位を付ければ、最下位は『落としてもよい』と相手に伝わる。横並びにすれば、四つすべてを呑むか、呑まないか、の二択になります」
「了解しました」
ヤールが、その机の隅で、自分の手帳に同じ四つを書き写していた。
彼の手帳の余白には、関所長殿の書きぶりに似た細かい注釈が、すでに並びはじめている。
書記補佐としての職務が、ヤールの中で、夜のうちに少しずつ深い場所まで降りてきていた。
♦
ニスが、執務室の入り口に首だけ出した。
「外、動きはありません」
「カルセル殿の窪地は」
「灯はひとつ。揺れておりません」
「向こうも、夜半までの作法を守っています」
ニスは頷いて、また厩の方へ戻っていった。
戻る背中の歩幅は、夜のうちにいくらか短くなっていた。長い一日の疲れが、ニスの腰のあたりに溜まりはじめている。
フェンは櫓上で、変わらず矢狭間から街道の方角を見ている。
ミナは、執務室の片隅で、レンの一歩後ろより少しだけ離れた場所に座っていた。膝の上で、首から外した札を両手で包んでいる。
包む手は、起きてはいるが、瞼は重そうだった。
「ミナ」
「うん」
「少し、休んでおけ」
「平気」
「平気でも、座って目を閉じておけ。明朝、お前にも仕事がある」
ミナは頷き、札を首に戻し、壁際に背を寄せて目を閉じた。
目を閉じても、指は札の縁を撫で続けていた。
♦
夜明け前、東の空がほんのわずか薄くなった頃、街道の方角から、馬の鈴の音がひとつ鳴った。
待機していた一行が、こちらへ動き出した合図だった。
フェンが櫓上から短く合図を送り、ニスが入り口に立った。
レンは胸元の革袋に指を一度添え、その手を離した。
門の留め金が、また三段、ひとつずつ外されていった。
♦
カルセル・ヴェンは、夕暮れに門前で見たのと同じ姿で立っていた。
カーレルは二歩後ろ。隊列の他は窪地に残ったまま。
ただし、先ほどと違うのは、カルセルの肩の徽章が、布の覆いの下に隠されていることだった。
神殿階位の金縁を、夜明けの光に晒さない選択。これは、対話の終わりを意味する作法だった。
「ご返答、伺います」
カルセルの声は、夜更けに聞いた時より一段だけ低かった。
「四つ、お願いがあります」
「どうぞ」
レンは、ユリウスの紙を見ずに、暗誦した。
「一、王国補給網崩壊の進行を、北方側で一時止めていただく。鈴の返却までの猶予を、こちらが確保するために」
「二、ヤール殿の身柄を、こちらが正式に預かる」
「三、オルブライト男爵殿の安否確認をお願いしたい」
「四、関所長殿の遺された書状束を、王都補給局・カルロス・ヴェイン殿に直接お渡しするための経路を、北方側で妨害なさらないと、お約束いただきたい」
カルセルは、しばらく無言で立っていた。
立ったまま、四つの条件を、ひとつずつ頭の中で並べているらしかった。
♦
「一、二、四は、お受けします」
カルセルは、静かに答えた。
「三については、ひとつ申し上げることがございます」
「どうぞ」
「オルブライト男爵殿は、ただいま、私どもの預かりの中におられます」
レンの足の裏が、もう一度、石を踏んだ感触を確かめた。
動揺の動きを、表に出さないように、足の裏で吸収する。
「預かり、とは」
「保護、と申し上げてもよろしいかと。男爵殿は、二月ほど前から、王都補給局の名で出される書状の筆跡が、ご自分のものでないとお気付きでした。ご自分の名が悪用されている、と判断されて、北方の私どもに、保護を求められました」
「ご本人の意思で」
「ご本人の意思です。私どもは、男爵殿の安全をお預かりしておりますが、いま現在、男爵殿は私どもの隊列の中にはおられません。もっと北、私どもの神殿のひとつに、滞在されております」
「お会いすることは」
「神殿までお越しいただければ、お会いできます。ご本人がそれをお望みかどうかは、別の話ですが」
カルセルは、それ以上は説明を加えなかった。
加えないが、男爵が自ら保護を求めた、という事実は、それ自体が大きな証言だった。
書状名義を悪用していた者と、本人とは別。
悪用していた者の手は、王都補給局・書記課に伸びていた可能性が高い。マゼルか、その上の「もっと北の方」か。
ユリウスが、机の脇から、ごく低い声で確認した。
「男爵殿ご本人は、ご無事なのですね」
「ご無事です」
「お連れする日が来れば、ご本人にも、関所側からの返答を、お聞かせいただけるかと」
「いずれは。ただし、男爵殿の意思を尊重します。男爵殿が王国へ戻ることを望まれた時にのみ、お戻しいたします」
その答え方には、含みがあった。
含みは、悪意ではなく、男爵本人が望まなければ戻れない事情がある、という事実を示していた。
悪用されている王国側に戻れば、また同じ手に巻き込まれる。それを承知の保護だった。
♦
「一の、補給網崩壊の進行を止める、とは、具体的には」
「私どもの神殿で、銀の鈴の片割れの音を、儀礼として鳴らし続けます。鈴の片割れだけでも、音を続ければ、物流の理の乱れは、一時、止まります」
「期間は」
「三十日が限度です。三十日のうちに、銀の鈴の本体を、私どものもとへお返しいただければ、理は安定します。三十日を過ぎれば、片割れの音も尽きます」
「三十日」
「お時間としては、十分か、不十分か。それはレン殿のご判断です」
レンは、頭の奥でカウントダウンの数字をもう一度置いた。
王国補給網崩壊まで、推定で残り三十日。
偶然か、必然か、いまカルセルが申し出た三十日と、ぴたり重なっていた。
♦
「お受けします」
レンは答えた。
「四つの条件、お受けくださり、ありがとうございます」
「鈴の返却は、リンドホルム公爵家の独自の経路で進めます。期日は、三十日後を目処に」
「お待ちしております」
カルセルは、両手を腰の前で、もう一度静かに重ねた。
重ねた手を、すぐに解き、レンへ深く頭を下げた。
頭を下げる作法は、神殿祭祀のものではなく、ただの人としての礼だった。
「銀の鈴の音は、レン殿の手の中で、きっとまた鳴ります」
彼女は、ヤールの方も一度だけ見た。
「ヤール殿。お父様のお仕事を、ヤール殿の代で形にしてください」
ヤールは深く頭を下げた。
下げた頭が上がるとき、彼の目には、夜のあいだに整えられた覚悟が、はっきり見えていた。
♦
カルセルとカーレルは、来た時と同じ静かさで、関所を離れていった。
窪地の隊列が、夜明けの薄明かりの中で、北方街道の方角へ静かに動き出す気配があった。
灰青の旗は、揚がったまま。
関所は、王国の所属を保ったまま、朝を迎えようとしていた。
ユリウスが机の上の絹布の包みを、革袋に大事に収めた。
ヤールは、業務日誌を閉じ、表紙に薄い布を掛けた。
ニスは厩の戸口で、馬具をもう一度整えはじめた。
レンは執務室の窓辺に立ち、東の空を見た。
空はまだ薄い藍色だったが、北方街道の彼方は、もう、夜明けの色を少しだけ含み始めていた。
北方の神殿に、オルブライト男爵がいる。
王都の倉庫奥に、銀の鈴が眠っている。
リンドホルムには、セリアが待っている。
三つの場所を、三十日のうちに、ひとつずつ繋がなければならない。
最初に向かうべきは、リンドホルムだった。セリアに、関所での合意を伝え、銀の鈴返却の独自経路を相談する。
ミナが、壁際で目を開けた。
「いつ、出る」
「日が昇りきったら」
「うん」
ミナは札の紐をもう一度きつく結び直した。
その動きには、もう夜中の眠気はなかった。
関所には、ニスとフェンを残す。
ヤールはレンたちと共にリンドホルムへ向かう。書記補佐としての証言と、関所長殿の遺志書状束を、セリアとカルロスの両方に届けるためだった。
ニスが厩から戻ってきて、レンに馬具の状態を一度報告した。
「街道の半ばまでは、私が同行できます。半ばから先は、馬を返してリンドホルムからの伝令と入れ替えます」
「お願いします」
「関所のことは、フェンと私とで、書記課の残りの一名が戻るまでお預かりします」
「戻ってくる兵がいるかどうかも、こちらから合図を出させましょう」
「ええ」
ニスは頷き、東の空の方角を一度だけ見上げてから、また厩へ歩いていった。
歩く背中の歩幅は、夜中より少しだけ伸びていた。
一晩経って、彼の中で、関所長代理という新しい職務の輪郭が、はっきり立ち始めていた。
♦
日が昇りきる前に、レンたちは出発の準備を整えた。
馬車一台、馬は替えを引いて二頭。
乗るのは、レン、ユリウス、ミナ、ヤール。御者と護衛が一名ずつ。
革袋の中身は、関所長の遺志リスト、絹布の包み、業務日誌、ヤールの父からの手紙、男爵書状の束。
関所の門は、出る時も、人ひとり分の幅だけ開かれた。
灰青の旗の下を、馬車は静かに南へ向けて出た。
北の彼方では、銀の鈴の片割れの音が、もう鳴り始めているのかもしれなかった。
音は、こちらには届かない。届かないが、三十日のあいだ、響き続けているはずだった。




