第49話 儀礼の上に
門を開けるかどうかの判断に、レンは長く時間をかけなかった。
関所は形の上で王国に戻っている。
その王国の関所の門を、王国側の代理人として、訪問者に対して開ける。これは、こちらが書き換えた所属を、もう一歩確かなものにする所作だった。
逆に、開けずに門越しに対話を続ければ、関所は「閉じている」という事実が残る。閉じている関所は、書き換えを完了したとは言えない。
「開けます」
レンが言うと、フェンは櫓上から黙って頷き、ニスは厩の入り口から門の方角へ歩き始めた。
ユリウスとヤールは執務室の机をもう一度整え直した。
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門の鉄の留め金が、三段、ひとつずつ外されていく。
最後の留め金が外れる音は、宵闇の中庭の石壁に長く反響した。
門の片側だけが、ゆっくり内側へ開かれた。
全開ではなく、人ひとりが通れる幅。これは王国関所の慣例で、賓客以外を迎え入れる時の標準的な開け方だった。
カルセル・ヴェンは、両手を腰の前で重ねたまま、その隙間からゆっくり中へ入った。
弟のカーレルは、彼女から二歩遅れて後ろに立っている。
二人だけ。隊列の他の馬と人は街道脇の窪地で待機したままだった。
ミナはレンの一歩後ろ。札の縁を握る指は、宵闇の中でも白く見えた。
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執務室の蝋燭の灯が、二本に増やされていた。
関所長の机の前に、椅子が二脚、向かい合わせに置かれている。
カルセル・ヴェンは、勧められた椅子に座らずに、しばらく机の表面を見つめていた。
業務日誌は閉じられ、束ねられた書状は、もう革袋に収まっている。
机の上には、関所長の印章だけが、紙差しの右に置かれていた。
「関所長殿は、ご執務中、と伺いましたが」
「ご執務は、続いております」
「左様で。では、私はご執務の合間に、お話を伺う形で、よろしいですか」
「ええ」
カルセル・ヴェンは初めて椅子に座った。
座る所作は静かで、衣擦れの音さえほとんど立たなかった。
レンも机の向こうに座った。
ユリウスは机の左の壁際、ヤールはその後ろ、ニスは扉の脇。カーレル・ヴェンは机の右の壁際。ミナはレンの椅子の斜め後ろ。
全員の配置が決まると、部屋の中の空気が一度だけ動いた。
動いたあとで、誰も口を開かないまま、しばらく蝋燭の炎だけが揺れていた。
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「お話の中身を、伺います」
レンが切り出した。
「ええ」
カルセル・ヴェンは、両手を膝の上で軽く重ねた。
膝の上の重ね方は、門外で立っていた時の腰前重ねとは、少し違う。座っている時の、対話用の姿勢だった。
「王都補給局の倉庫の奥に、ひとつ、私どもが返却を求めている品がございます」
「品、と申しますと」
「旧神メリディアンの祭具のひとつ。古い銀の鈴一対」
「銀の鈴」
「百年ほど前、北方の神殿から、王国の調査隊が持ち帰った品です。当時の記録では『調査のため一時預かり』とされておりました。一時、が百年続いております」
ユリウスが壁際で、ごく小さく息を吐いた。
商家の記録から、ユリウスはその「銀の鈴」の話をぼんやり聞いた覚えがあるらしかった。
あとでユリウスから補足があるはずだった。今は、カルセル殿の話の流れを切らない方がいい。
レンはユリウスに目で「後で」と返し、話の続きを促した。
「返却の要求は、これまでにも」
「正式な書状で、三度、王都補給局へ送っております。返答は、いずれも『調査継続中』」
「百年、調査が継続している」
「ええ」
カルセル・ヴェンの目に、感情らしい色は浮かばなかった。
浮かばないことで、その百年の重さが、こちらに伝わってきた。
「百年のあいだに、私どもは何度か、武力での奪還も検討いたしました。けれど、武力で取り戻した祭具は、再び音を出さないと、私どもの神殿では伝えられております。鈴の音は、対話で取り戻したときにだけ、戻るのです」
「対話、というのは」
「今夜のような形での、対話です」
彼女は机の上の絹布の包みのことを、まだこの段階では口にしなかった。
まず、対話の必要性を相手に納得させる順序を踏んでいた。
「だから、夜半まで、と仰った」
「夜半までは、対話の時間。夜半を過ぎれば対話は対話でなくなる、というのが、私どもの作法です」
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「銀の鈴と、王国補給網の崩壊と、どう繋がります」
レンは、本題の核心に踏み込んだ。
カルセル・ヴェンは少し間を置いた。
間の中で、彼女の指が膝の上で一度、わずかに動いた。
「銀の鈴は、物流の理を保つ祭具です。鈴の音は、消えゆく荷の場所を、神殿に告げる音と、私どもは理解しております」
「物流の理」
「百年前、銀の鈴を王国側が持ち去ってから、北方の物流は、徐々に乱れました。乱れは長い時間をかけて広がり、近年は、王国側の街道にも、その影響が及び始めております」
「補給網の崩壊は、銀の鈴の不在が原因、ということですか」
「原因の一つ、と申し上げます。すべて、とは申しません」
「では、私どもが鈴を返せば、補給網は回復する」
「徐々に、と申し上げます。一夜にして、ではありません」
レンは、頭の中で、二つのことを同時に走らせた。
一つは、銀の鈴の返却が政治的に可能かどうかの計算。
もう一つは、カルセル・ヴェンが本当のことを話しているかどうかの判定。
二つとも、答えは、まだ出ない。
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「カルロス殿は」
レンは話題を変えた。
「私どもの甥にございます」
「彼は、私に私信を送りました。その内容は、なぜ、北方まで届いていたのですか」
カルセル・ヴェンは、わずかに目を伏せた。
伏せた目を、すぐに上げた。
「カルロスは、私の意を汲んでいる部分と、王国補給局の書記官としての職務を守る部分の、両方を持ち合わせております」
「両方」
「彼の私信は、私の意を汲んだ部分です。北方の私どもの動きを、レン殿に静かに伝えるため、彼自身が判断して書きました」
「では、カルロス殿は、こちら側でもあり、そちら側でもある」
「申し上げにくいことですが、その通りです。彼にとって、こちら、そちら、という線引きそのものが、もう、生活の中にはございません」
レンは、その答えを、しばらく咀嚼した。
カルロスの私信は、こちら側のための情報。同時に、向こう側にも、私信を出したという事実は伝わっている。
二重の場所に立つ人物は、両方の側から信用される反面、両方の側から疑われる。カルロスがそれを承知でやっているなら、彼の覚悟は、レンが思っていた以上に深い。
「カルロス殿は、今、王都に」
「ええ。本日、リンドホルムから王都へ、戻る予定だと、私どもは伺っております」
「マゼル殿のもとへ」
「マゼル殿のもと、というよりは、書記課の机のもとへ。マゼル殿ご自身は、別の場所におられます」
「別の場所」
「申し上げられる範囲は、ここまでです」
レンは、もうひとつだけ確認した。
「マゼル殿は、王都補給局の書記課長です。彼が『別の場所』におられる、というのは、職務を離れている、ということですか」
「職務は離れておりません。机の上の職務と、別の場所での職務が、彼の中ではひとつに繋がっております」
「ヴェン家の系統と、関わりが」
「申し上げられません」
短い拒絶だった。
拒絶そのものが、レンの問いがある程度の核心を突いた、という証拠でもあった。
ユリウスが、壁際から、ごく短い咳をひとつ落とした。
咳の意味は、レンには分かった。これ以上、踏み込むと、対話が終わる。終わると、夜半までの時間がそこで止まる。
レンは話を、最初の核心に戻した。
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「私どもからのお願いは、ひとつです」
カルセル・ヴェンは、両手をもう一度、膝の上で重ね直した。
「銀の鈴を、私どものもとへ、お返しいただきたい。返却の道筋を、リンドホルム公爵家の補給官である、レン殿に、お繋ぎいただきたい」
「私が繋ぐ」
「ええ。王都補給局を通すと、銀の鈴は『調査継続中』のまま、百年から、もう百年、動きません。リンドホルム公爵家の独自の経路で、王都の倉庫から銀の鈴を取り出し、私どもへお渡しいただく。それが、可能であれば」
「可能かどうかは、即答できません」
「即答は、求めておりません」
カルセル・ヴェンは静かに頷いた。
「私どもは、明朝までは、この街道脇にて、お待ちいたします。明朝までに返答がいただけない場合は、私どもは引き上げます」
「引き上げる、ということは」
「赤と黒の旗を、もう一度、関所のどこかに揚げることになります。次は、関所側ではなく、私どもの側で」
「それは」
「ご想像にお任せいたします」
彼女はそれ以上、説明を加えなかった。
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カルセル・ヴェンは、立ち上がった。
立ち上がる前に、彼女は懐から、小さな包みをひとつ取り出し、机の上に置いた。
包みは絹布で、紐は赤と黒の二色。
「これは、銀の鈴の片割れの音を、紙に写したものです。鈴そのものではありませんが、音の波形だけを、神殿の作法で写しております」
「写し」
「もし王都の倉庫で銀の鈴を見つけられた際、これと音の波形を照合いただければ、本物かどうかは判別がつきます」
「お預かりします」
レンは包みを受け取った。
包みは、思ったより軽かった。けれど、軽さの中に、百年分の重みが詰まっている、と分かる軽さだった。
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カルセル・ヴェンとカーレルは、来た時と同じ静かさで、執務室を出て、門の外へ戻っていった。
門の片側が、ゆっくり閉じられる。鉄の留め金が、三段、順に戻された。
関所の中庭に、夜の冷えが、もう一段深く降りていた。
灰青の旗は、宵闇の中でほとんど見えない。けれど、揚がっている、という事実だけは、誰もが分かっていた。
レンは机の上の絹布の包みを、もう一度見た。
包みの脇に、関所長の印章。印章の脇に、業務日誌。日誌の脇に、革袋に収まった関所長の遺志リスト。
四つの品が、机の上で、夜の蝋燭の灯に照らされていた。
明朝までの返答。
銀の鈴。
カルロスの二重の立ち位置。
マゼルの「別の場所」。
答えるべき問いは、一晩のうちにひとつでも多く、頭の中に並べておかなければならなかった。
ユリウスが、机の前まで歩いてきて、絹布の包みを指でわずかに撫でた。
「銀の鈴の話、私もうろ覚えながら、商家の古い記録で読んだことがあります」
「中身は」
「王都補給局の倉庫の、奥の方に、百年前の調査品が一区画、未整理のまま積まれている、と。その中に北方由来の品があり、銀の鈴一対も、おそらくそこにある、と」
「未整理のまま、百年」
「ええ。未整理ということは、誰も整理していないということです。整理していないということは、整理に関わる人物が、王都補給局の中で、ずっと『調査継続中』と言い続けてきたということになります」
レンは、その人物の輪郭を、頭の中で描いた。
百年は人ひとりの寿命を超える。ということは、職位として継承されてきた、ということ。
王都補給局・書記課に、銀の鈴を「調査継続中」のままにしておく職位が、ひとつ、伝統的に存在する。
マゼル書記課長。
いま、その職位を継いでいる人物だった。
レンの頭の中で、ひとつの線が、太く繋がった。
マゼルの背後の「もっと北の方」が、ヴェン家系統だとすれば、マゼル自身は、北方の銀の鈴を百年押さえ続けてきた一族の末裔、ということになる。
押さえ続ける側と、取り戻したい側。同じヴェン家の中で、二つの派が対立している。
そこにカルロスが「両側」にいる。
関所長が、独自にカルロスを信頼していた理由も、おそらく、ここに繋がっていた。
夜の蝋燭の炎が、もう一度だけ揺れた。
揺れた光の中で、レンの頭の板は、もう一晩寝かせる種類の問いを、いくつも抱えていた。




