第48話 筆が止まった一行
夕暮れは、夜の縁に変わりかけていた。
関所の中庭の石畳の上で、灰青の旗の影はもう判別できないほど薄い。代わりに執務室の窓から漏れる蝋燭の灯が、石畳の上に黄色い四角をひとつ落としていた。
その四角の中で、ユリウスとヤールが関所長の業務日誌を開いていた。
カーレル・ヴェンの一行は街道脇の窪地に降り、こちらからは姿が見えなくなっている。けれど見えなくなっただけで、距離は変わっていない。半刻と聞いた時間は、もう、半刻には足りないかもしれなかった。
レンは入り口側の見張りをフェンに代わってもらい、執務室へ移った。
ミナはレンの一歩後ろ、いつもの位置。
移った先で、机の上に開かれた日誌が、蝋燭の灯を一段だけ明るく反射していた。
「最後の頁、見せてください」
「これです」
ヤールが頁を一段、手前にめくった。
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関所長の業務日誌。最後の頁。
文字は、関所長の癖のある書きぶり。日付は昨日。
頁の最初の方に、当日の通行記録・馬の状況・兵の配置交代が簡潔に書かれていた。
ここまでは普段通りの記載だった。
異変は、頁の下半分から始まっていた。
> 本日、王都補給局書記課より、書状一通到着。
> 内容、関所兵の引き上げを求めるもの。
> 名義、オルブライト男爵。
ここで一度、改行。
次の一行は、関所長の癖のある書体だが、ほんの少し、線が震えていた。
> 男爵の筆跡と、わずかに異なる箇所、三つ。
ここで、二度目の改行。
最後の一行は、書き始められたが、途中で止まっていた。
> 念のため、
念のため、の四文字の後で、筆は止まっていた。
止まったあとに、続く文字はない。
ただ、紙の上に、墨の小さな雫がひとつ落ちている。筆を止めた瞬間に、筆先から落ちた雫だった。
♦
「これは」
レンは小声で言った。
「関所長は筆跡の違いに気付いていたのです」
ユリウスが頷いた。
「気付いて『念のため』と書き始めた。何を念のためにするつもりだったかは、まだ分かりません」
ヤールが指で頁の脇を示した。
「ここで関所長殿の筆が止まったのは、おそらく、誰かが部屋に入ってきたか、あるいは外から呼ばれたか、です。普段、関所長殿は、書き始めた一行は必ず最後まで書く方でした」
「途中で止めるのは、よほどのこと」
「はい」
ヤールが、自分の懐から、一枚の薄い紙を取り出した。
昼間、レンに「父からの最後の手紙です」と断って、懐にしまった紙だった。
「お見せします」
ヤールは、紙を机の上に、業務日誌と並べて置いた。
紙には、彼の父の細い文字が、ぎっしり書かれていた。
ただし、文字の内容ではなく、紙の端に走り書きされた一行が、レンの目を引いた。
> 男爵の書状、近頃、筆跡に違和あり。
> 関所長殿に、伝えるべし。
日付は、ヤールが懐にしまっていた、その紙の上部に書かれていた。
今より、ふた月前。
「父は、書記課の上席でした」
「では、お父様も、筆跡の違いに」
「気付いていた、と思います。ただ、関所長殿に伝える前に、父は──」
ヤールはそこで言葉を切った。
切ったあとの沈黙が、彼の父の運命を、説明していた。
♦
ユリウスが、業務日誌の「念のため、」の一行を、もう一度指で軽く撫でた。
「関所長は、お父様の伝言を、受け取っていたかもしれません」
「あるいは、ご自分で気付かれたか」
「どちらにしても、気付いた後で、兵を引き上げよ、という命令が来た」
「そして、関所長は、その命令に従いつつ、念のため、何かをしようとしていた」
「何かが何かは、ここでは書かれていない」
四人の上に、執務室の蝋燭の灯が、ひとつ揺れた。
レンは、関所長の机の引き出しを、もう一度、開けてみた。
昼に印章を取り出した、右の引き出しの奥。
奥のさらに奥に、小さな鍵がひとつ、麻紐で吊られていた。
紐は新しい。最近、関所長自身が結び直した紐だった。
「鍵です」
「どこの鍵かは」
「分かりません。ただ、この机の中で最近結び直されたのは、この紐だけです」
紐の結び目は、関所長の癖を知っていれば判別できる結び方だった。
左手で先に輪を作り、右手で巻きつける。普段の物には使わない、念入りな結び方。
大事なものを吊るすときだけ、関所長はこの結び方を使う。
ヤールが、その結び方を口に出さずに目で頷いた。
ヤールが、その鍵を、しばらく見つめた。
「関所長殿の私室、北側の小部屋に、壁の戸棚がひとつあります。普段は開いておりませんでした」
「行きましょう」
♦
関所長の私室は、執務室の奥、廊下を一本挟んだ向こうにあった。
小さな部屋。寝台ひとつ、机ひとつ、本棚ひとつ。
北側の壁に、ヤールが言った戸棚があった。木製の小さな戸棚で、把手のところに、麻紐の鍵穴。
レンが鍵を差し込むと、紐は静かに解けた。
戸棚の中には、書状が、丁寧に束ねられて積まれていた。
束は三つ。古い順から、表面に番号が振られている。
ユリウスが一番上の束を取り、机の上に広げた。
書状はすべて、オルブライト男爵名義。差出は、過去半年分。
書状の本文は、ごく事務的な内容。兵の配置・補給品の数・通行税の改正。
目立つ内容は、ない。
ない代わりに書状の余白に、関所長が書き込んだ細かい印がいくつもあった。
赤い丸印、ひとつ。
青い縦線、二本。
黒い斜線、一本。
「印の意味は」
ヤールが束の中から、別の一枚を引き出した。
「これは、関所長殿の癖です。書状を受け取った後、ご自分で筆跡を比較するために、本物の男爵書状と並べて、相違点に印を打つのです」
「赤、青、黒は」
「赤は文字の傾き、青は線の太さ、黒は終筆の癖、と聞いたことがあります」
ユリウスが、束を順に並べ替えた。
古い書状ほど、印の数は少ない。新しい書状ほど、印が増えていた。
最後の一通、昨日付の書状には、赤丸が四つ、青縦線が三本、黒斜線が二本、揃っていた。
「九つの相違点」
「これだけ違えば、関所長殿が『男爵本人ではない』とご判断されるのは当然です」
ユリウスは九つの印を、もう一度順に指で辿った。
「最後の昨日の書状で、関所長殿は、これを公文書として処理するか、それとも握り潰すかの判断を、迫られていたはずです。処理すれば、命令系統に乗って兵を引き上げる。握り潰せば、命令違反として、ご自分が罰せられる」
「関所長殿は、処理を選んだ」
「処理を選びつつ、念のため、と日誌に書こうとされていた。書こうとされた途中で、何かが起きた」
レンは束の最後の一通を、もう一度開いた。
書状の文面そのものは、ごく事務的だった。けれど、文面の下、押された男爵印の朱の色が、ほんのわずかに、他の書状の朱より明るい。
ヤールが、その違いに、すぐ気付いた。
「印の朱が、新しい朱です。昨日、押されたばかりに見えます」
「印自体は、本物に近いと」
「印そのものは、たぶん本物。押した人物が、男爵ご本人とは別、ということになるかと」
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戸棚の中には、書状の束のほかに、小さな木箱がひとつ置かれていた。
箱の中には、関所長の私的な印章がもうひとつ。普段の公印とは別の、私印だった。
私印の脇に、薄い紙が一枚折り畳まれていた。
ユリウスがその紙を慎重に開いた。
紙には、関所長の急いだ筆跡で、ひとことだけ書かれていた。
> もし私に何かあれば、この束を、王都補給局・カルロス・ヴェイン殿へ。
「カルロス殿」
レンは、その一行を、二度読み返した。
関所長は独自に、カルロスを信頼する相手として選んでいた。
マゼル書記課長を飛ばして書記官カルロスに、直接、束を渡そうとしていた。
ということは関所長もまた、マゼルの背後の不審に気付いていた、ということだった。
ユリウスが紙をもとに戻し、束ごと革袋に収めた。
「これは、こちら側で、いったんお預かりします」
「了解です」
ヤールも頷いた。
頷いた頷きは、書記補佐としてではなく、関所長の遺志を継ぐ者の頷きに、近かった。
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部屋の戸口で、ミナが廊下の方角に首を傾けた。
「足音」
四人とも、口を閉じた。
廊下を歩く足音が、執務室の方角からこちらへ近づいてきた。
足音はひとり。革靴の歩幅は、フェンのものでも、ニスのものでもなかった。
戸口の影から、フェンが小さく顔を出した。
「外、動きが」
「カーレル殿ですか」
「いえ、別の方です」
「別の」
「馬車の幌から、おひとり、降りられました」
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レンが入り口に戻ったとき、宵闇は関所の中庭まで降りていた。
石壁の影の中で、後ろの馬車の幌が半分だけ開かれていた。
開かれた幌の中から、ひとりの人物がゆっくりと地面に降り立った。
女性だった。
四十前後。
白い髪を結い上げ、深い色の外套を肩にかけている。
肩から胸へ銀の鎖。鎖の先の徽章は、カーレルのものと同じ赤と黒の二色。
ただし徽章の周りに、もう一段、金色の縁取りが回っていた。
金の縁取り。
神殿の階位を示す印だった。
彼女は、街道の脇から関所の門の方角を、しばらく無言で見ていた。
見たあと、こちらに向かって、ひとこと、声を投げた。
声は静かで、低く、よく通る声だった。
「関所長殿に、お会いしたく」
その声を、レンは自分の耳の奥で二度繰り返した。
二度目で、その声の調子が誰かの調子に似ていることに気付いた。
カルロス・ヴェイン。
王都補給局書記官、カルロスの声の低い方の調子に似ていた。
関所の門の向こうで、灰青の旗が、宵闇の中でもう一度だけひとつ揺れた。
レンは、門越しに、彼女に応じる前に、ひと呼吸を入れた。
神殿階位の金縁を持つ人物が、北方から関所まで自ら出向くというのは、通常の使者の役目ではない。儀式の主催者か、判決を下す立場の者か、いずれにしても、こちらが軽く返事をしてはならない相手だった。
ミナの指が、レンの上着の裾を、もう一度だけ軽く握った。
握る指の力は、昼間より、ほんの少しだけ強い。
ミナも、向こうの女性の声に、何かを感じ取っていた。
「お名前を、伺っても」
レンは、声の調子を、自分でも意識的に低く保ったまま、門越しに聞いた。
返事は、すぐには来なかった。
来ない代わりに、女性は門の方へ、ゆっくり五歩、近づいた。
五歩、近づいたところで、彼女は再び立ち止まった。
関所の蝋燭の灯が、初めて、彼女の顔の半分を照らした。
照らされた半分の顔の中で、目の色だけが、はっきりと見えた。
深い灰色の目だった。
カルロス・ヴェインの目と、同じ色だった。
彼女は門の手前で、両手を腰の前で軽く重ねた。
武装ではなく、儀式の姿勢だった。両手を重ねるその所作は、神殿の祭祀で目下に対して使われるものだという。後に、ユリウスがそう小さく教えてくれた。
「カルセル・ヴェンと申します」
女性は静かに名乗った。
「ヴェン家の現当主、北方の神殿で祭祀を司る者です。先ほどお話しした、カーレル・ヴェンの姉になります」
「姉君」
「弟は、王国側との儀礼を担います。私は、儀礼の上にある『お話』を担います」
儀礼の上にあるお話、という言い回しを、レンは頭の奥で繰り返した。
儀礼が表向きの交渉なら、上にあるお話は、もっと深い場所での取引、ということになる。
「関所長殿は」
「ただいま執務中です」
「左様で。お待ちいたします。ただ、その執務が、もし、終わりかけているのであれば、私からも、ひとことだけ、お伝えしたく」
「どうぞ」
カルセル・ヴェンは、灰色の目をレンの目に、まっすぐ合わせた。
「カルロス・ヴェインは、私の甥でございます」
彼女はそれだけ言うと、両手を解いて、もとの位置に戻った。
関所の門の向こうで、宵闇がさらに一段、濃くなっていた。




