第47話 黒馬の主
馬の蹄の音が、街道から関所の石壁に届くまでの時間が、次第に短くなった。
夕暮れ手前の光が、灰青の旗の縁を細く透かしていた。
西に傾いた光が、隊列の側からは旗を逆光に見せる角度に入っていた。逆光の中の旗は色がはっきり見える代わりに、揚げた者の顔は影に沈む。
レンは門の脇、石壁の影に身体を半分入れて立っていた。
ミナはレンの斜め後ろに半歩下がり、両手で札の縁を握っている。
ニスは厩の入り口で、馬具の金具に手をかけたままの姿勢を保っている。
フェンは櫓上の縁、矢狭間の陰から街道の方角を見下ろしている。
ユリウスは執務室の窓辺、ヤールはその一歩後ろ。
誰の足音も、関所の中庭で鳴らない。
鳴らないようにと、誰もが自分の靴底を意識していた。
関所内の配置の最終確認は、もう、何度もされている。
残るのは、相手が来たときに、誰が何秒で動くかという話だけだった。
話すべきことを、これ以上口にすると、緊張が腰から抜ける。
誰もが、口を閉じて待っていた。
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街道の彼方から、馬の蹄の規則正しい連打が、次第に大きく届いた。
二十騎以上。隊列は二列を組んでいる。
先頭の二騎が、関所まであと半町ほどの距離で、ふと馬の速度を緩めた。
緩めた理由は、すぐ分かった。
灰青の旗。
先頭の右側、黒い馬の主が、馬首を一度持ち上げて、櫓の旗竿を見上げた。
持ち上げた首が、ひとつ止まる。
止まったまま、しばらく動かない。
ミナの指が、札の縁を一度きつく握り直した。
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黒馬の主は、しばらくして、馬首を下ろした。
下ろしたあと、後ろの隊列に、左手を一度だけ上げた。
手の合図で、後続の十八騎が、関所手前一町の地点でぴたりと止まった。
止まった隊列の中央に、二台の馬車が並んでいた。
馬車は王国式ではない。幌の縁に赤と黒の細い縁取りがあった。
車輪の太さ、車軸の高さ、御者台の形状。どれも王国の街道馬車とは違う規格。北方の山道を想定した、堅牢な作りだった。
幌の中の影は、外からは見えない。
二台の馬車のうち、後ろの一台だけ、幌に何か白いものが揺れていた。
布の端のように見えたが、布なら風で動く。動かない布は、誰かの肩に掛けられた羽織りの裾だった。
隊列の馬たちは、全頭が同じ毛並みではなかった。北方系の小柄な馬と、王国系のやや大きい馬が混じっていた。
混じっている、ということは、この隊列が一度、王国側の馬を入手している、ということだった。どこで、誰から入手したかは、まだ分からない。
黒馬の主が、自分の馬から降りた。
ひとりだけ徒歩で、関所の門前まで歩いてくる。
近づくにつれて、人物の輪郭がはっきりした。
四十前後の男。
黒い髪、整えられた短い髭。
着ている外套は厚手の濃緑、肩から胸にかけて細い銀の鎖が一本。鎖の先には小さな丸い徽章。徽章の中央に、赤と黒の二色がわずかに塗り分けられていた。
腰には剣。けれど抜く構えはない。
歩幅は緩やか。緩やかだが、ひと足ごとにこちらの様子を測っている歩き方だった。
歩く靴の音が、街道の土を踏むときと、関所手前の石畳を踏むときで、わずかに変わった。
変わった音を、男自身が一度聞き直すように、半拍だけ歩幅を整え直した。
石の音に慣れている耳の男だった。普段、石畳の上を歩く生活をしている。
門前、矢の届く距離の手前で、男は止まった。
止まり方は、王国式の儀礼歩のそれに、ごく近かった。
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「門外、失礼いたします」
男の声は、思ったより低く、穏やかだった。
王国語の発音は、訛りがほとんどない。北方育ちにしては、と言うべきか、北方育ちでないからと言うべきかは、まだ判断がつかない。
「北方第三関所、関所長殿に、お取り次ぎいただきたい」
レンは石壁の影から半歩、表に出た。
出るときに、ミナの斜め後ろの位置は崩さなかった。
「都市補給官代理、レン・アスター。関所長は、ただいま執務中ですので、私が代わりに承ります」
「都市補給官代理」
男の眉が、ほんのわずかに動いた。
動いたが、すぐに元に戻った。動きを表に出さないよう、訓練された顔だった。
「リンドホルム公爵家の」
「はい」
「関所長殿は、執務中、というのは」
「日誌の整理がございます。終わり次第、私が取り次ぎます」
男は頷いた。頷きはしたが、目は櫓の旗竿の方を、もう一度確かめていた。
「旗、灰青、二本」
「関所の所属を、お示ししております」
「左様で」
男はそれ以上、旗について何かを言わなかった。
言わない、という選択そのものが、ひとつの会話だった。
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「お名前を、伺っても」
レンの問いに、男は短く答えた。
「カーレル・ヴェン、と申します」
名前を、聞き覚えはなかった。
ない、けれど、姓の「ヴェン」が、レンの頭の隅で一度だけ鳴った。
カルロス・ヴェイン。マゼル書記課長。そして、ヴェン。
偶然か、必然かは、まだ分からない。
北方では「ヴェン」は王国姓ではなく、神殿職の家系に多い姓と聞いたことがあった。
もしカルロス・ヴェインの一族が、北方ヴェン家から派生したものなら、姓の符合は偶然ではなくなる。
ただ、いまここで、姓の話を持ち出すのは早い。
「ヴェン殿は、どちらから」
「北方の小さな町、と申し上げます。町の名は、関所長殿に直接、お伝えしたく存じます」
「ご用件は」
「迎え入れの儀礼、それから、関所長殿との個別のお話、二件です」
「迎え入れの儀礼、と仰いますと」
「赤と黒の旗を、関所側に揚げていただいておりました。それに応じる側として、ご挨拶に伺いました」
「赤と黒の旗は」
「降ろされましたな」
カーレル・ヴェンの目が、初めて、レンの目を正面から見た。
深い色の目だった。怒りはない。落胆もない。
ただ、こちらの様子を全部、もう測り終わった、という目だった。
「ご事情は、おありでしょう。我々も、その事情の上で、お話を進めたく存じます」
「事情、と申しますと」
「赤と黒の旗を、関所側で揚げた者と、それを降ろした者が、同じではない、という事情です」
レンは答えなかった。
答えれば、その差が向こうに渡る。
カーレル・ヴェンも、続けて何かを聞かなかった。
聞かない、という選択そのものが、もうひとつの会話だった。
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ミナが、レンの斜め後ろから、ごく小さく息を吸う音を立てた。
吸う音は、緊張のためではなかった。何かに気付いた音だった。
レンは振り向かなかった。
振り向けば、向こうにミナの存在が伝わる。
カーレル・ヴェンは、馬具の鎖の徽章を、指で軽く撫でた。
撫でたあと、こう言った。
「ひとつ、お伝えしたく存じます」
「はい」
「カルロス・ヴェイン殿の私信は、確かに、北方まで届きました」
関所の中庭の石畳の上で、レンの足の裏が、一度、硬く石を踏んだ。
踏んだ感触で、自分が動揺しなかったことを、確かめる。
カルロス・ヴェインの私信は、王都から、リンドホルムのレンへ、馬丁が運んだはずの個人連絡だった。
その内容を、なぜ、北方の男が知っているのか。
答えは三つ。
一、カルロス自身が二重連絡をしている。
二、カルロスの書状が、途中で傍受された。
三、私信を受け取ったレン自身の側から、漏れた。
どれであっても、痛い答えだった。
一なら、カルロスは敵側に通じている。
二なら、マゼルの背後の人物の手が、すでに王都・リンドホルム間の街道全てに伸びている。
三なら、こちらの周囲に、漏らした者がいる。
いまの段階で、どれかを断定するのは、まだ早い。
ただ、断定しないまま会話を続けるには、頭の中で三つの可能性を同時に走らせる必要があった。
走らせながら、表に出さないように顔を整える。これが、レンに求められる次の一歩だった。
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「届いた、と仰るのは」
レンは声の調子を落として聞いた。
声を落とすのは、こちらが動揺していない、と見せるための技術だった。動揺していれば、声は逆に高くなる。
「届いた、と申し上げております。中身については、関所長殿に直接、お伝えしたく存じます」
「関所長は、まだ執務中です」
「私どもは、夜半まで街道脇でお待ちいたします。お話が整いましたら、お呼びください」
カーレル・ヴェンは頭を一度、丁寧に下げた。
下げた頭が上がるとき、もう一度だけ、櫓の灰青の旗を見上げた。
見上げた目に、初めて、ごく薄く、何かの感情が浮かんだ。
怒りでも落胆でもない、もっと、馴染んだ、という感情に近かった。
灰青の旗を、彼は過去のどこかで見たことがある顔をしていた。
その顔に薄く浮かんだ感情の色は、レンの目に刻まれた。
今は問わない。問わないが、覚えておく。覚えておくことで、次の対話に使えるかもしれない種類の表情だった。
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カーレル・ヴェンは、馬の方へ歩いて戻った。
戻る背中に、隊列の二台の馬車の幌が夕方の風を一度ふくらませた。
幌の中の影は、まだ動かない。
馬の脇に戻った彼は、すぐには騎乗しなかった。
馬の首筋を一度撫で、後続の馬車の御者と短く何かを交わした。交わす声は、こちらまでは届かない。
声は届かないが、御者が頷く動きと、馬車の幌の中から人影がひとつ深く座り直す気配は、こちらから見えた。
幌の中の人物は、まだ、こちらに姿を見せないことに決めているらしい。
決めている、ということは、見せる時を、向こうが管理している、ということだった。
カーレル・ヴェンは騎乗し、隊列ごと、街道の脇の窪地に向けて、緩やかに馬を進めた。
窪地は、関所からは見えにくいが、街道の出入りは押さえられる位置にある。
待機場所として、最初から選ばれていた、と分かる動きだった。
残り時間を、ユリウスが執務室の窓辺で測った。
測った口が、ひとこと低く言った。
「およそ、半刻」
「半刻」
「夜半まで街道脇で待つ、と仰った。実際の時間は、もう少し短く見るべきです」
レンは胸元の革袋に、指を一度だけ添えた。
添えた指を、すぐに離した。
カルロス・ヴェインの私信が、北方に届いている。
この事実をどう持ち出すかで、ヴェン殿との次のやり取りが決まる。
灰青の旗が、もう一度、夕方の風をはらんだ。
はらんだ旗の影が、関所の中庭の石畳の上で、ゆっくり長く倒れていった。
ヤールが、執務室の窓辺に立つユリウスの脇から、レンに向けて短く合図を送った。
合図は、業務日誌の最後の頁を指していた。
昨日、関所長が途中で筆を止めたあの頁。
止まった筆の意味が、今のヴェン殿の登場と、もしかしたら繋がっている。
レンは、合図を、目だけで受けた。
受けた目で、ヤールに「後で」と返した。
今は、半刻のうちに、ヴェン殿の次の動きへの応答を組み立てる方が先だった。
夕暮れ手前の光は、もう、夕暮れに変わりかけていた。
関所の中庭に、夜の冷えがひとつ先に入り込んできていた。
ニスが厩の方から、入り口の方へ歩いてきた。
ニスの足取りは、いつもより一拍だけ遅い。
遅い足取りで、レンの脇に立つと、低くひとこと言った。
「あの男、王都厩舎で見たことがあります」
「カーレル・ヴェン殿を」
「十年以上前、まだ私が王都厩舎にいた頃です。一度だけ、馬を借りに来た方を、覚えています」
「名前は」
「カーレル、という名は、当時のお名前ではありませんでした。ただ、肩の銀の鎖と、徽章だけは、今と同じでした」
ニスはそれだけ言うと、また厩の方へ戻っていった。
戻る背中は、これ以上は口にしない、と決めた背中だった。
レンは、その背中を見送ったあと、櫓の上の灰青の旗をもう一度見上げた。
関所の所属は、形の上では、王国に戻っている。
ただ、形を超えたところで、向こうとこちらの過去の糸が、いくつか、絡みはじめていた。




