第45話 迎え入れの旗
矢羽根の山の向こうで、息はもう一度止まった。
止まったまま、しばらく動かない。
動かない息は、相手がこちらの出方を測っている合図だった。
レンは扉口から半歩だけ中へ入って、それ以上は進まなかった。
刃に手を添えた護衛は、レンの斜め前で扉の枠に身体の半分を残している。
ユリウスは扉の脇、ミナはユリウスのさらに後ろ。
倉庫の中は、薄暗い。
天窓から落ちる光の柱が、矢羽根の山を真ん中で照らしている。光の柱の縁に、麻と油の匂いが、ゆっくり漂っていた。
誰の息も、ここでは大きく聞こえる。
「危害は加えません」
レンは矢羽根の山の向こうに、もう一度声を投げた。
声を投げるときは、調子を下げる。低い声は、こちらが急いでいないことを伝える。急いでいないと思わせれば、相手の指は武器に伸びにくくなる。
「都市補給官代理、レン・アスター。リンドホルム公爵家命にて、参上いたしました」
返事はまだない。
代わりに矢羽根の山の端が、わずかに崩れた。
崩れた山の隙間から、白い指が一本こちらに見えた。
指は震えていた。
指の震え方は寒さの震えではない。怖がっている指の震え方だった。
「手を、見せてください」
レンが言うと、白い指の主は山の向こうから両手をゆっくり持ち上げた。
両手の指は十本、揃って震えていた。
武器は持っていない。
「出てきても」
間があった。
その間に、息がもう一度乱れ、また整った。
「……出ても、いいですか」
声は、若かった。
二十歳前後、もしかするとそれより少し下。
怯えた喉の奥から、押し出すように出された声だった。
「いいです。ゆっくりで」
♦
矢羽根の山の向こうから、男が一人、両手を上げたまま立ち上がった。
痩せた若者だった。
簡素な書記服。袖口に、書記課の銀の縁取り。
顔の左頬に、新しい擦り傷。
帯のところに、革表紙の小さな手帳。武器は、本当に何も持っていない。
「お名前を、伺っても」
「……ヤール。関所長付の書記補佐、ヤールと申します」
「ヤールさん。座っていただいて結構です」
ヤールは矢羽根の山の前にゆっくり座った。
座るときに手帳が一冊、彼の足元に落ちた。落ちた拍子に頁が一枚、束から外れた。
外れた紙の上に、走り書きの文字が見えた。
ミナが、ユリウスの後ろから、首を伸ばした。
伸ばした首が、その紙の文字を見て、一瞬止まる。
「あれ」
ミナの声は囁きに近かった。
ユリウスが目で「どうした」と聞き、ミナがもう一段小さく続けた。
「あの字、見たことある」
「どこで」
「南宿場の、ハルさんの木片の字」
ミナは、南宿場で空けられた薬瓶の底から出てきた木片を、自分の目で見ている。
彫られた「ハル」の一音、ナイフの跡の傾き、線の止め方。
覚えている子供は、覚えている。
ヤールの両手はまだ上がっていた。
上がった手の先で、指の震えがひとつ強くなった。
♦
レンは、ヤールに、手を下ろしてもらった。
「手帳の中身は、後で見せてください。先に、いくつか、伺いたいことを」
「はい」
「兵が引き上げたのは、いつですか」
「昨日の夕方です」
「全員」
「関所長と古参兵三名以外は、ほぼ全員。残ったのは、私と、書記課のもう一名。ですが、もう一名は、今朝、北の門から出ていきました」
「北の門」
「正門の隣、櫓下の小門です。徒歩で抜けられます」
ユリウスが、地図の関所部分に、もうひとつ印を打った。
北の門。商家の符牒で、丸の上に短い線が一本。
「引き上げの命令は、誰の名で」
ヤールの喉が、一度大きく上下した。
名前を口にする前の喉の動きだった。
「オルブライト男爵、と署名された書状でした」
「ご本人」
「私には判別がつきません。署名は男爵の印に近いものでしたが、最近、書状の筆跡が男爵ご本人のものと、わずかに違うように見えることが何度かありました」
「違う筆跡で、男爵の名が出ている、ということですか」
「私の口から、断言は、できません。ただ、私が見た範囲では、そう見えました」
レンは、頭の中の板書に、一行書き留めた。
男爵名義の書状。本人かどうか、未確定。
黒幕がオルブライト本人なら話は早い。違うなら、オルブライトもまた、利用されている側、という可能性が出てくる。
♦
「赤と黒の二色旗は、何ですか」
ヤールの目が、一度、矢羽根の山の方を見た。
山の向こうの闇に、答えがあるかどうかを、自分で確かめる仕草だった。
「迎え入れの合図、と、関所長は仰っていました」
「迎え入れ」
「北から来る、ある一団のための」
「一団の正体は」
「私には、知らされていません。ただ、関所長がご準備された接待の品が、執務室の脇に、まだ並んでおります」
「準備された品、と申しますと」
「水樽、保存食、毛布、それから──」
ヤールは、一度言葉を止めた。
止めた間に、彼の指先が、自分の手帳の縁を、軽く撫でた。
「それから、赤と黒の二色旗を敷布にした、丸い卓」
「丸い卓」
「神殿の儀式で使う形の卓です。北方の小さな町の神殿に、似たものがあるそうです」
「見せてもらえますか」
「執務室の脇、第二倉庫の奥です」
護衛が、先に立った。
第二倉庫の奥には、ヤールの言った通り、丸い卓がひとつ置かれていた。
卓の上には何も載っていない。けれど、卓の天板そのものが、赤と黒の二色で塗り分けられていた。塗り分けの境目は、不規則な曲線。曲線の途中に、見慣れない文字がひとつ、彫り込まれている。
ユリウスが、その文字を、地図の余白に写し取った。
「私の知る、いかなる王国の文字でも、ありません」
「北方の」
「もしくは、北方より、なお遠い場所の文字」
卓の脚元に、水樽が三つと、毛布の束、保存食の包みが、整然と並んでいた。
接待の品としては、贅沢ではない。けれど「迎える側」が「迎えられる側」に対して、敬意を払って準備した、と分かる並べ方だった。
ユリウスが、地図の余白に、丸い印を、もうひとつ書き加えた。
書き加えた指が、紙の上で、しばらく動かなかった。
関所の倉庫の中、薄暗い光の中で、誰もしばらく口を開かなかった。
動かないユリウスの指の先で、北方の小さな町の名前が、まだ書かれずに残されていた。
♦
「ヤールさん」
「はい」
「あなたはなぜここに残ったのですか」
「逃げ遅れました」
答えは、短かった。
短すぎて、嘘ではないと分かる種類の短さだった。
「兵が引き上げる時刻に、私は、関所長執務室の書類整理を、命じられていました。整理を終えたあと、もう、馬は出ていました」
「徒歩で出ることは」
「考えました。けれど北の門も南の門も、外側にはもう、馬の蹄の音が聞こえはじめていました。出れば馬の前に、私一人が立つことになります」
「それで、倉庫に」
「矢羽根の山なら、人の目には、しばらく入らないと、思いまして」
レンは、ヤールに、もう一度、目で礼をした。
逃げ遅れた者を責める言葉は、レンの口には、なかった。
代わりに、ヤールの足元に落ちた手帳を、レンは指差した。
「その手帳、こちらで、お預かりしても」
「……はい」
ヤールは手帳を拾い、レンに渡した。
渡すときに手帳の中の一枚の紙だけ、彼は自分の懐にしまった。
「それは私の、私的な紙です。父からの最後の手紙ですので」
「結構です」
レンは、その紙には触れなかった。
触れない選択は、ヤールに、もう一度、息を整えさせた。
♦
「ハルさんを、ご存じですか」
ミナがレンの脇から、ヤールに直接聞いた。
子供の質問は大人より、まっすぐ刺さる場合がある。
ヤールの目が、ミナを見た。
見たあと、目を伏せた。伏せた目の奥に、迷いがあった。
「……ハル、というお名前は、いくつか伺ったことが」
「南宿場の、ヤンさんの息子の、ハルさん」
「……一年前、北方から逃れて、関所の裏門から入ってきた若い男が、ひとりおりました。木片を彫る技術を、関所長付の書記課で、しばらく預かっていたことが、あります」
「生きてる?」
「私が最後に見たのは、半年前です。それ以降は、関所から、別の場所へ移されたと、聞きました」
「どこへ」
「私には、知らされていません」
ミナの指が、首から下げた札の紐を強く握った。
強く握ったが、声は出さなかった。
レンは、ミナの肩に軽く手を置いた。
置いた手の重さは、慰めではなく、立ち止まるなという合図だった。
ミナは頷きはしなかった。けれど、紐を握る指の力は、わずかに緩んだ。
ヤンの息子は、半年前まで、ここの書記課で木片を彫っていた。
その筆跡を持つ紙が、今、関所の書記補佐の手帳に挟まれている。
書記補佐自身は、何も知らずに、その紙を引き継いでいたのかもしれない。
あるいは、引き継いだ意味を、知っていて怖がっていたのかもしれない。
レンには、まだ判別がつかなかった。
ただ、ハルが「別の場所へ移された」という言葉だけは、頭の中の板書に、はっきり書き留めた。
別の場所、というのは、おそらく今、北方街道を関所へ向かっている隊列の、来た方角だった。
♦
「ひとつ、お願いがあります」
ヤールが、こちらに、初めて、自分から言葉を出した。
「ここから、一緒に出していただけませんか。私一人では、もう、関所の外には出られません」
「お連れします」
「……ありがとうございます」
ヤールの肩が初めて下がった。
怖がる肩から、ただの疲れた肩に戻った瞬間だった。
ユリウスがヤールに、革袋から保存食をひとつ渡した。
ヤールは受け取ったあと、両手で包むようにそれを胸の前で持った。
持ったまま、しばらく口に入れなかった。
空腹だが、まだ警戒している、というふうではなかった。
久しぶりに人から物を受け取った手が、その重みを確かめている、というふうだった。
♦
倉庫を出た後、護衛のひとりが、櫓に登った。
北側の櫓の屋根は、見張り台になっている。
護衛は、屋根の縁に身体を伏せて、北方街道の彼方を、しばらく見ていた。
降りてきたとき、護衛の顔に、感情はなかった。
ないからこそ、見たものの重さが、伝わった。
「北方街道、関所より三刻ほどの距離に、隊列の影」
「人数」
「正確には、見えませんでした。ただ、馬の数は、二十騎以上」
「先頭の旗は」
「赤と黒の二色」
「速度は」
「街道を、馬車を伴わずに進んでおります。荷物は最小、馬は替えを引いている様子。三刻もかからずに、関所に到達するかと」
「三刻」
「もしくは、それ以下」
レンは胸元の革袋に、もう一度、指を当てた。
古い荷札と、ミナの新しい札。
二枚の角は、まだ、肌の同じ場所を押している。
迎え入れの旗の下に、迎え入れられる側がもう街道に入っていた。
関所の門をこちら側から開けて迎えるか。
開けずにこちら側から閉じ直すか。
判断までの時間は、三刻もない。
ユリウスが地図を畳んだ。畳む手の動きは、いつもより一拍早かった。
「決断会議を、もう一度」
「はい」
第一倉庫の壁の前に、四人が並んだ。
ヤールは執務室の手前で休ませてある。レンはミナの肩にもう一度手を置き、それから胸元の革袋に指を当てた。
古い荷札と新しい札。二枚の角が今、肌の同じ場所に少しだけ強く当たっていた。
「選択肢を、三つ」
レンは護衛とユリウスに、指で順に示した。
「一、関所の門を閉じ、こちらは裏門から退いて、街道の南で迎撃か通報を選ぶ」
「二、関所の門を開け、迎え入れる側のふりをして、相手の正体を確かめる」
「三、関所そのものを我々の側に書き換える。旗を降ろし、台帳を押さえ、相手が来たときには、関所が王国の側に戻っている、と示す」
「三、は」
ユリウスが、地図の上の関所の名を、指で軽く撫でた。
「我々の側に、関所長が、おりません。書記補佐のヤールひとりで、関所の機能を回せるか、未知です」
「回せなくても、回しているふり、まではできるかもしれません」
護衛が低く言った。
「私の同期のヘイルなら、馬丁出身として、厩の動かし方は、知っております」
「ヘイルさんは、ここにはおりません」
「ですが、私が代理として、半日程度は動かせます」
レンは、護衛の顔を見た。
ヘイルの名を、彼自身の口から、初めて、ためらいなしに出した瞬間だった。




