第42話 呼ばせない名前
領主館の客間で目覚めたとき、窓の外はまだ薄青かった。
夜のうちに、霜が降りていた。
硝子の縁に、白い細い線が走っている。指で触れると、線はゆっくり溶ける。
レンは長くは触らなかった。
朝の準備に取りかかる時刻だった。
昨夜セリアが口にした言葉が、まだ部屋の天井あたりに残っている気がした。
──呼ばせないために、私はあなたに、ここまでお願いしました。
関所で家名を呼ぶ者がいるかもしれない、と彼女は言った。
呼ばせない、とレンは答えた。
短いやり取りだったが、領主家の家名をひとつ守るという話は、短く済む種類の話ではなかった。
レンは寝台の縁に座り、襟元を整える。
胸元の古い荷札は、夜のあいだも首から外していなかった。木の縁は、肌の温度に馴染んでいる。
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朝食の卓には、湯気の立つ粥と、薄く切ったパンが並んでいた。
セリアは、すでに領主の正装に戻っている。襟の刺繍は控えめ、髪はきっちりと結われていた。
昨夜の窓辺の彼女と、別人ではない。同じ人が、別の顔を出している。
「マゼルという名は、初めて聞きました」
レンが粥に匙を入れる前に、セリアの方から先に言った。
「ええ」
「王都補給局の書記課長です。補給局長の直属ではありません。書記課は、別系統で動きます」
「別系統」
「北方領との書状のやり取りを、一手に握っている部署です。輸送帳簿の写し、出納の確認、領主家との文書連絡。北方に関する紙は、ほぼすべて、彼の机を通ります」
「補給局長は、その動きを知らないと」
「知っていても、見ない、ということは、貴族の世界ではよくあります」
セリアは、自分のカップに茶を注ぎながら、淡く言った。
その手は、夜のあいだに何度か震えただろう手ではなく、領主の手だった。
「カルロス様の私信に書かれていた『もっと北の方』が、もし、マゼル殿の上におられるなら」
「補給局の外側です」
「外側」
「補給局は通り道に使われているだけ。指示は別の場所から来ている、ということです」
レンは匙を一度、口に運んだ。
粥は熱かった。湯気が、顔のすぐ前で揺れた。
「ありがとうございます」
「礼は不要です。私もカルロス様の私信を読みました。マゼル殿の名は、私の側で、もう少し調べておきます」
「お願いします」
「無事に、戻ってください」
「戻ります」
答えは短かった。
関所の先で何を見るかは、まだ分からない。分からないままに「戻る」と言うしかない種類の朝だった。
セリアは小さく頷いて、紅茶のカップを口元に運んだ。
飲んだあと、カップを置く手は、領主の手だった。
領主の手で置かれたカップが、白い陶の上で、ごく小さな音を立てた。
その音で、朝が始まった。
「行きます」
「ええ」
短いやり取りだった。
領主と補給官の間で交わされる種類の短さで、それ以上でも、それ以下でもなかった。
短くしておかなければ、出立の重さが、卓の上にこぼれそうだった。
♦
共同倉庫の前に、馬車が二台、横付けされていた。
ユリウスは荷の最終確認をしている。革表紙の手帳の頁が、朝の風で一度めくれた。
ガルドは倉庫の扉の前に立っていた。腕を組み、白い息を吐いている。
レンは倉庫長の前で、足を止めた。
「倉庫の鍵」
胸元の革袋から、レンは古い鉄の鍵を取り出した。
共同倉庫の主鍵。任命の日、セリアから預かったまま、ずっとレンの首から下げていた。
その鍵を、レンは、ガルドの掌に置いた。
「俺が戻るまで、お預けします」
ガルドの掌が、鍵の重みを、一度だけ確かめた。
厚い掌の節が、鍵の縁にぴたりと合う。長年、樽の蓋を開けてきた手だ。鉄の温度を、皮膚で測れる手だった。
「重いな」
「鍵が、ですか」
「鍵が、だ」
ガルドは、それ以上は言わない。
倉庫長が「重い」と言うとき、それは鉄の重さの話ではない。
「ミナは」
「奥にいる。あんたに渡すものがあるそうだ」
倉庫の奥から、ミナが小走りに出てきた。
手には、白木の札が一枚。札の縁は、まだ角が削れていない。新しい札だった。
「これ、持ってって」
「俺に?」
「うん。あたしの札の中で、一番、新しいやつ。リンドホルムの倉庫の、今日の在庫」
札の表には、ミナの細い字で、塩、燃料、薬瓶、保存食、矢羽根、と書かれている。
数は書かれていない。
「数は、書かなかったの」
「書かない方がいいと思った。数は、戻ってきたあんたが、自分で確かめるから」
レンは札を、胸元の革袋に入れた。
古い荷札の、すぐ隣に。
「ありがとう」
「うん」
ミナは胸を張ったあと、すぐに小さく付け加えた。
「あたしの札、勝手に書いたことはないよ」
「知ってる」
ガルドが、ふと、レンの肩に手を置いた。
厚い掌が、薄い肩の上で、一拍だけ止まった。
「街道の北で、何を見ても、数えてこい」
「数えます」
「数えたものは、必ず戻ってきて、ここで突き合わせろ」
「はい」
「あんたの数字を信じる人間が、この倉庫にいる」
ガルドはそれを、感情のない声で言った。
感情のない声だから、レンの胸の奥には、まっすぐ届いた。
「ありがとうございます」
「礼じゃなくて、戻ってこい」
ガルドの手が離れた。
離れた掌は、すぐに鍵の方へ戻る。鍵はガルドの掌の中で、もう一度、重みを確かめられていた。
倉庫の扉の前で、ミナが胸の前で札を一度握り直した。
札の紐は、先日の街道行きで擦れて以来、端のほつれがそのまま残っている。
ほつれた紐の先を、ミナは指で軽く撫でて、それから手を背中に回した。
ユリウスが、馬車の方からレンを呼んだ。
「レン様、そろそろ」
「はい」
レンは倉庫長と少女に、もう一度、目で礼をした。
言葉はもう、要らなかった。
♦
馬車が動き出してから、リンドホルムの街並みは、しばらく後ろに流れた。
石畳が砂利に変わり、砂利が土に変わる。
北方街道の入口で、一度、馬を休ませた。
馬に水をやるあいだに、ユリウスが膝の上の地図を広げていた。
「レン様」
「はい」
「商家の古い口伝に、ひとつ、思い出したものがあります」
「口伝」
「物流の旧神は、消えた荷を集める、と」
ユリウスは、それを、地図の余白に指でなぞるように言った。
声に、特別な抑揚はない。普通の独白の中に紛れている。
「消えた荷を、集める」
「集めて、どこに置くのか、口伝の続きは、私の祖父が言いませんでした。言わなかったのか、知らなかったのかは、今となっては、確かめようがありません」
「旧神の名は」
「祖父も、口にしませんでした。商家では、その名は、扱う品の中に含めないという作法だけが、残っております」
レンは、口伝の輪郭を、頭の中で、一度なぞった。
消えた荷を集める神。北方第三関所の先で、消えている荷。
ふたつの線が、地図の上で、ゆっくり近づく気配があった。
まだ、重ならない。
「ユリウス様」
「はい」
「商家では、その神への祈りは、もう、行われていないのですか」
「正式には、行われておりません」
ユリウスは地図の余白の一点を、指で軽く押さえた。
「ただ、北方の小さな町で、品の棚を整える前に、空の樽をひとつ、棚の端に置く作法は、残っているそうです」
「空の樽を」
「消えた荷を集める神に、場所を、ひとつだけ、空けておく、という意味だそうです」
「集めてくれと、頼んでいるのですか」
「逆かもしれません。集めるなら、ここに置け、と、こちらから場所を指定している、とも読めます」
レンは、その作法を、頭の中で、もう一度なぞった。
北方の町。空の樽。棚の端。
現地の人々は、何かが消えることを、知っている。知った上で、消える場所だけは、自分たちで決めようとしている。
馬車の幌の縁で、朝の風がひとつ鳴った。
♦
馬車が街道を、一刻ほど北へ進んだ頃。
御者台の隣で、護衛のひとりが、街道の脇道を指した。
ヘイルの名を即座に呼べた、あの護衛だった。
「あの道は」
「ご存じですか」
「いえ。ただ、地図に載っていないので」
護衛は、馬の手綱を一度握り直してから、低く言った。
「あの道、十年前は、通れました」
「十年前」
「王都厩舎の馬丁が、北方へ馬を運ぶときに使っていた裏道です。今は、通行が止まっています」
「止めたのは」
「私の口からは、申し上げられません」
答えは短かった。
短いが、答えそのものが、ひとつの事実だった。
レンは、脇道の入口を、目だけで追った。
雑草が深く、人の足跡は近年のものではない。けれど、道の形は、まだはっきり残っている。
誰かが、形だけは保っている道だった。
御者台の方では、護衛がもう手綱を直し終え、馬車は、また街道の北へ進んでいた。
ヘイルが、なぜ南宿場に流されたのか。
その答えに繋がる糸が、街道の脇に、雑草に隠れて、まだ生きているらしかった。
馬車が再び動き出す。
車輪が街道の轍を踏み直す音が、規則正しく続いた。
御者台の護衛は、それ以上を口にしない。
口にしない男の沈黙の方が、口にする男の言葉より、ずっと多くを語る場合がある。
レンはその沈黙を、頭の奥の板書に、一行だけ書き留めた。
十年前。北方裏道。王都厩舎。
ヘイル。
四つの単語が、まだひとつの線には繋がらない。
けれど、四つとも、同じ地図の上にある。それだけは確かだった。
♦
昼前、街道の彼方に、低い石壁の影が見え始めた。
北方第三関所。
石壁は、まだ遠い。
けれど、壁の上に揚がっているはずの旗が、見えない。
ユリウスが、地図から目を上げた。
「やはり、揚がっていません」
「閉鎖、ですか」
「閉鎖か、誰も揚げていないか、です」
馬車は止まらない。
止まれば、間に合わない。
レンは胸元の革袋を、一度だけ確かめた。
古い荷札と、ミナの新しい札が、並んで入っている。
ふたつの札の角が、布越しにレンの肌に当たっていた。
古い札は、四年前、最初の倉庫で剥がれかけていた一枚。
新しい札は、今朝、リンドホルムの少女が削ったばかりの一枚。
四年の距離を挟んで、ふたつの札は、同じ革袋の中で並んでいる。
その並びは、レンの背骨を、ほんの少しだけ、まっすぐにしていた。
呼ばせません、と昨夜、自分は確かに言った。
家名を盾に取られる場面が、関所のどこかで来るかもしれない。
来たときに、頷くか、退くか。
頷けば、グランヴェルの家は呼ばれる。
退けば、交渉は決裂し、何も持たずに戻ることになる。
どちらにせよ、自分が選ぶ。
選ぶ役を渡されたから、ここまで馬車で来た。
幌の隙間から、ユリウスが石壁の方角を見ている。
手帳の頁は、もう、めくられていない。
御者台の護衛は、手綱を握り直した。
握り直した拍子に、馬の歩みが、わずかに速くなる。
関所を遠くから見て、馬が先に何かを察した、というふうだった。
関所までは、あと一刻。
猶予は、もう、ない。
北方第三関所の石壁の上で、揚がっていない旗の見えないはずの輪郭だけが、午前の光の中で確かにそこに在った。




