第41話 帰った場所、半刻先
リンドホルムの門が、朝の薄い光に浮かんでいた。
馬車二台が、見覚えのある石畳を踏んでいく。
車輪の音が、土の道から石の道へと変わる、その小さな段差。
ミナが幌の隙間から、街道のほうへ一度振り返った。
「戻ってきた」
「うん」
「ねえ、レン」
「うん」
「あと、何日?」
レンは胸の奥で数を組み直す。
カルロスの猶予十日は、今日でちょうど尽きる。
南宿場で使った日、戻り旅に使った日、それらを合わせて十日。
関所には、ついに辿り着けなかった。南宿場で見つけたものが、足を止めさせた。それでも、行かねばならない。
カルロスが王都へ報告書を出すとすれば、今日の夕方には筆を取っているはずだった。
「今日が、最後」
ミナは札の縁を、指でひとつ撫でた。
札の紐は、夜のあいだに自分で結び直したまま、ほつれた端が外へ出ていない。
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共同倉庫の前で、ガルドが立っていた。
炉の煤で黒くなった手をそのままに、こちらを見ている。
帰着の挨拶はなかった。
「鍵は、変わってない」
「ありがとうございます」
「焼印は、五十枚押した。倉庫学校の試作は、終わってる」
ガルドは懐から、白木の札を一枚取り出した。
南宿場で見たのとよく似た形だが、こちらは焼印の縁が一段くっきりしている。
レンはその札を、指でひとつ撫でた。
「南宿場で、ヤン様の宿に同じ印の札が回っていました」
「同じ印が、もう?」
「ええ。書状で発注したのは、私です」
「俺は知らんかった」
「届けたのは、別の手です。誰が運んだかは、まだ分かりません」
ガルドは、少しのあいだ黙った。
黙ったあとで、もう一度、自分の手の煤を見た。
「鍵じゃ守れんな、と俺は前に言ったが」
「はい」
「鍵の外側の話が、もう動いとるな」
♦
ミナがガルドの前で、首から札を外した。
「ガルドさん」
「ああ」
「これ、宿場で押してもらったやつ」
ミナはそれを、ガルドの掌の上に置く。
ガルドは札を、ふたつの指でつまんだ。
「見習い、の二字」
「うん」
「外していいか」
ミナはガルドの目を見た。
ガルドはミナの目を見ていない。札の焼印だけを見ていた。
ミナはしばらく考えて、首を横に振った。
「まだ、要る」
「そうか」
「あたし、まだ、見習い」
「分かった」
ガルドは札をミナに戻して、共同倉庫の中へ歩いていく。
歩く背中の煤の上に、朝の光が薄く乗っている。
ガルドの背中が倉庫の奥へ消えると、残された朝の光が、石畳の上で一度揺れる。
ミナは札を首に戻し、紐の結び目を、二度確かめる。
♦
領主館の執務室の扉が開いたとき、セリアは机の向こうに立っていた。
「お帰りなさい」
セリアの声は、いつもよりわずかに低い。
机の上に、革表紙の古い台帳が一冊、開いて置かれていた。
レンが部屋に入った瞬間、セリアは台帳の上に、別の書類を伏せて重ねた。
台帳の中身は見せたくない、という所作だった。
「ヴェルナー大商会王都本店の名簿です」
ユリウスが、机の脇から短く言った。
「お見せいただかなくて結構です。本店の上に座っている人物の名前は、私の口から先に申し上げます」
セリアはユリウスを見た。
「お聞きするのは、夜にいたします」
「分かりました」
セリアは机の角に置かれていた、一通の封筒を、レンの前へ差し出した。
「カルロス・ヴェイン書記官から、私信が届いています。今朝、馬丁が届けに参りました」
「カルロスから」
「ええ。封の蝋は、王都補給局の青ではなく、彼個人のもの」
レンは封筒を、指でひとつ撫でる。
蝋の色は、深い灰青色だった。
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「もうひとつ、ご報告があります」
セリアは台帳の脇から、別の覚書を引き寄せた。
「マゼル書記官から、昨夜、領主家宛に連絡が入りました」
「マゼル」
「王都補給局の書記課にいる方です。カルロスの上司にあたります」
「カルロスの上司」
「内容は、北方第三関所の通行制限について。今夜半より、関所の通行を一時停止すると」
「一時停止」
「期間は、未定です」
ユリウスの指が、覚書の縁に触れて、止まった。
止まってから、その指を一度、ゆっくりと離した。
「マゼルというお名前は、私も書類で何度か」
「ご存じでしたか」
「直接ではありませんが、本店時代に、補給局書記課発信の文書を何通も扱いました。差出人として見たことは、あります」
セリアはユリウスを、まっすぐ見た。
「夜の話で、結構です。今は、関所のことを」
「はい」
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その時、執務室の隅に控えていた公爵家衛兵が、一歩前へ出た。
南宿場で、ヘイルの名を呼んだ方の護衛だ。
胸元の灰青の徽章は、リンドホルム公爵家の正式なもの。
「グランヴェル閣下。中継宿の蹄鉄について、追加でご報告いたします」
「どうぞ」
「中継宿で見た蹄鉄の片割れは、王都厩舎で扱う通常の型ではありませんでした」
「と、申しますと」
「数年前まで、王宮厩舎に試作のみで運用されていた、北方派遣用の蹄鉄に類似します」
衛兵はそれだけ言って、視線をわずかに窓のほうへ流した。
窓の外では、街道の枯草が風で寝かされている。
誰もその風の向きを口にしない。
誰にも、その視線の先は分からなかった。
セリアの指先が、衛兵の徽章の灰青を一度だけ目で追う。
それから覚書を、一度伏せた。
「報告、確かに伺いました」
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昼を過ぎて、共同倉庫の裏手で、レンはひとり、カルロスの私信を開封した。
封の中の紙は薄く、罫線は王都補給局の内部書式と同じ。
ただし、書かれていた文字は、書記の正式な筆跡ではなく、急いで書かれた小さな筆だった。
文面は短かった。
> 私信。
> 都市補給官代理様。
> 関所の通行停止の件、上司マゼル殿からの指示によります。
> しかしながら、マゼル殿の指示は、その背後に、別のお方の意向があるとお察しください。
> 王都ではなく、もっと北に、いらっしゃる方です。
> 名は、私の口からは申し上げられません。
> 関所でお会いになる方が、その名をご存じかどうかは、未だ分かりかねます。
> 御身、お大事に。
> ──カルロス・ヴェイン
レンは紙を、もう一度、ゆっくり読み直す。
王都ではなく、もっと北。
関所の主すら名を知らぬとすれば、それはさらに、その奥にいる。
北方第三関所より、さらに北。
そこには、何があるのか。
レンはまだ、その地図を持っていない。
紙の罫線を指で辿る。
北の地名は、頭の中の地図にひとつも灯らない。
窓の外、街道の北側だけが、午後の光に逆らって暗い。
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夕方、領主館の窓辺で、セリアがレンに、紅茶のカップを差し出した。
ふたりだけの時間だった。
ユリウスは台帳の写しを取りに、別室へ下がっている。
「明日、関所へ発ちます」
「ええ」
「カルロス様の猶予は、今夜で尽きます」
「ええ。それでも、私たちには、明日が要ります」
セリアはカップを、自分の手のひらで一度温めた。
「レン様」
「はい」
「父代の負債書類のことは、明日の前に、お話しすべきだとは思います」
「夜に伺います」
「もしも、関所で何かを呑むことになったら、その先に、私の家の名前を呼ぶ人がいるかもしれません」
「呼ばせません」
「呼ばせなくて、いいのですか」
セリアの目が、初めてこの夜、まっすぐにレンを見た。
「呼ばせないために、私はあなたに、ここまでお願いしました」
レンはカップを、机の上にひとつ置いた。
置いた音が、領主館の窓辺の薄明かりの中で、ひとつだけ響いた。
その音の余韻のなかに、セリアはもう一度、静かに言った。
「明日、必ず、戻ってきてくださいませ」
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夜が更けたあと、執務室の机の角に、伏せられた書類の重なりが残っていた。
その紙束のいちばん下、わずかに端が覗いた一枚。
封の蝋が、ほんの欠片だけ、こぼれていた。
深い青の欠片だった。
南宿場の薬箱の二重底にあった、あの偽の青蝋封と──同じ色だった。
翌朝、馬車は北方第三関所へ向けて出立する。
カルロスの猶予は、もう今夜で尽きる。
関所はもう、こちらの都合で開く時刻ではなかった。




