第40話 半刻、先
夜の街道は、月明かりの下で青く沈んでいる。
馬車二台が規則正しい蹄の音だけを残して、北へ進んでいる。
御者の合図はない。
馬は道を覚えていて、合図を待たずに歩いていく。
幌の中で、ミナがほつれかけた札の紐に目を落としていた。
しばらく指でいじっていたが、ふと結び直しを始める。
子供の細い指が紐の端を引き寄せた。
一度ほどき、ふたつに分けて結び直す。
結び目は、最初のものよりわずかに小さい。
けれど、ほつれた端はもう、外へ出ていない。
「自分で結べたんだ」
「うん」
「うまいじゃん」
「ふつう」
ミナはそれだけ言って、札を、首に戻した。
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夜の街道では、護衛二人もほとんど口を開かない。
一人は馬車の前を、もう一人は後ろを、それぞれ歩く。
二人の馬の手綱の握り方は、暗がりの中でもよく似ていた。
左手で軽く支え、右手は手綱の中ほど。間隔まで同じ。
たまたまとは思えない揃い方だ。
レンは幌の隙間から、その後ろ姿をしばらく見ている。
頭の中で、考えがひとつまとまりかけて、止まった。
まとめるには、まだ材料が足りない。
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夜が明け始めたのは、街道脇の楓の枝が、輪郭を取り戻す頃。
その輪郭の向こうに、中継宿の屋根が見えてきた。
払暁の鐘は鳴っていない。
まだ宿場の朝が始まる前の時刻だ。
馬車が宿の門前に止まった。
御者の合図で馬がふたつ息を吐く。
白い息が薄い夜気の中をゆっくり昇っていった。
宿の戸口に、主人が立っていた。
五十がらみの、髭の薄い男。
「お早いお着きで」
「ご亭主、ひとつだけ伺います」
ユリウスが、馬車から降りずに、幌の縁から声をかけた。
「昨日から今朝にかけて、青い封蝋の書状を持った客が、こちらに寄りませんでしたか」
主人は、わずかに、思い出す顔をした。
「お一人、ありましたな」
「いつ」
「半刻前にお発ちで」
半刻。
その一語だけで、馬車の中の空気が、ひとつ落ちた。
ミナが、レンの顔を、見上げた。
ユリウスは、地図に視線を落として、何も言わなかった。
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馬車を一度降りて、レンは宿の裏厩に回った。
ユリウスと、前を歩いていた方の護衛がついてくる。
後ろを歩いていた方の護衛は、馬車の前で、馬の口元を押さえている。
裏厩には、まだ夜の冷えが残っていた。
藁の匂いと、馬糞の匂いと、湿った木の匂いが、ぼんやりと混ざる。
厩の隅、馬の繋ぎ場の脇に、ひとつ物が置かれている。
蹄鉄の片割れ。
馬蹄に打つ前の、半月形の鉄。
その表面に、王都厩舎の印が打たれていたはずの場所が、削り取られかけている。
完全に消えてはいない。
半分だけ消した跡。
削り跡の縞は、左斜め下から右上へと細かく刻まれていた。
慣れた手つきの工具運びだ。
急いで隠したのではなく、見せるために半分残した、と読める削り方。
その蹄鉄の半月の、ちょうど中心軸の上に、もうひとつ別のものが揃えて置かれている。
青い小石。
拳の半分ほどの大きさで、川で磨かれたような滑らかな形。
道標に彫られていたあの矢印と、同じ色の青。
小石は、蹄鉄の中心線の真上に、わずかな狂いもなく座っている。
偶然落ちたとは思えない。
誰かの指が、息を止めてゆっくり置いた。
レンはそれを拾わなかった。
拾えば、こちらが触ったことが相手に伝わる。
今は、見るだけにとどめる。
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その時、前を歩いていた護衛が、レンに会釈をして、厩の奥へと一度消えた。
奥には、厩番の影が動いている。
顔は見えない。
ふたりの会話は、二言か三言ほど。
声の輪郭だけが、外の空気まで届く。
言葉そのものは聞こえなかった。
戻ってきた護衛は、何も言わずにレンの隣に立った。
その口元は、いつもよりほんの少しだけ、強く結ばれている。
報告しない、と決めた口元。
レンはそれ以上を聞かなかった。
聞いても、今は答えが返ってこないことが分かっていた。
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ユリウスは蹄鉄の片割れに顔を近づけた。
削り跡の鉄粉を、指の腹で軽く拭った。
拭った指を鼻先まで持ち上げ、しばらく止めた。
「……この匂い」
「ユリウス様」
「失礼。少し、本店の調合台を思い出しまして」
「調合台、というのは」
「印を消すときに使う薬品の匂いです。古い印影を薄く削って、新しい印に書き換える時に」
「本店で、使われていたのですか」
「私が見たのは、一度だけです」
ユリウスはそこで、しばらく目を伏せた。
「夜更けの、薄暗い部屋でした。蝋燭が二本だけ、調合台に立っている。その向こうに、私の上司の背中がありました」
「上司」
「名は申し上げません。今夜は、まだ。けれど、その背中が、この匂いと一緒に、十年経った今でも、はっきり浮かびます」
ユリウスは、もう一度、指先を鼻に近づけた。
「忘れる匂いではありません。一度嗅いだら、調合台の角の傷まで思い出せる、そういう種類の匂いです」
ユリウスは、それ以上は語らなかった。
頬の色が、いつもよりほんの少し薄い。
商人として死ぬかもしれない、と昨日口にした人の顔色だ。
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払暁の鐘が、ようやく、宿の裏で、ひとつ鳴った。
主人が「お茶でも」と言ったが、ユリウスは首を横に振った。
「すぐに、発ちます」
「半刻、休まれては」
「半刻、もう、こちらにはありません」
主人は、それ以上は引き止めなかった。
馬の水と飼葉を急いで替えるあいだに、レンは宿の門前の道標を見た。
道標は、苔の生えた古い石柱。
昨日まで覚えていた古い印の隣に、新しい矢印がもうひとつ、揃えて彫られている。
古い印と、今日の印。
彫りの深さは、二つともほぼ同じ。
使われた小刀の刃も、ほぼ同じ幅。
今日の矢印は、リンドホルム方向を指している。
ただし、ほんの少しだけ角度がずれていた。
リンドホルムよりも、その先、王都への街道のほうへと、わずかに向いている。
二本の矢印が並んだ石柱は、まるで誰かが手帳に二度書き込みをした帳簿のようだ。
一度目は、半年か一年前。
二度目は、今朝。
同じ手が、同じ刃で、同じ場所に、ふたつ目の合図を刻んだ。
その合図は、レンたちの目に確実に届くように、揃えて置かれている。
♦
馬車が動き出したとき、空はもう、灰色の青に変わっている。
幌の中で、レンは胸の奥で《棚卸し》を短く回した。
北東街道、合流地点を通過。
一点、リンドホルム方向に、先行。
距離、半日。
表示はそれだけで消えた。
半日。
追う側になった。
昨日まで「先に着くのはどちらか」と問うていた立場が、今日からは半日遅れで追いかける立場に、ひっくり返っている。
レンは幌の中で、幌の縁を無意識に一度握り直した。
握り直してから、自分の手が動いたことに、ようやく気づく。
隣のミナが、また首から下げた札の紐に、指先を触れさせている。
朝に自分で結び直した結び目を、もう一度確かめるように撫でていた。
その小さな仕草が、レンの胸の中で、なぜかわずかに支えになる。
目を閉じても、青い小石の置かれ方が、瞼の裏に残る。
あれは、敵意ではない。
もっと別の何かだ。
こちらを認識した、というサイン。
あなたが、ここに来ることを、知っていた──という、無言の挨拶。
馬車の幌が朝の風を受けて、ひとつ鳴った。
その音が、昨日の朝、南宿場で聞いた音とよく似ている。
けれど、温度だけがわずかに違っていた。




