第39話 並走するもの
馬車の幌が、風を受けて、ひとつ鳴った。
南宿場を出てから、もう半刻が過ぎている。
車輪の音と、馬の蹄が土を踏む規則的な響き。その他には、街道のどこからも人の声はしない。
幌の隙間から、ミナが空を見上げていた。
「ねえ、ユリウスのおじさん」
「はい」
「鳥が、北東に逃げてる」
「鳥が」
「うん。さっきから、群れがふたつ。みんな、北東のほうに飛んでる」
ユリウスは、地図の上に置いていた指を、一度上げて、また下ろした。
「鳥は、人より早く、地の音を聞きます」
「地の音?」
「街道で何かが動くと、地面が震えます。鳥はそれを、足の裏で聞く」
「えっ、足の裏で?」
「私の祖父が、そう言っておりました。本当かどうかは、分かりません」
ミナはもう一度、空を見上げる。
北東の空に、点が三つ、ゆっくり流れていた。
♦
ユリウスは膝の上に、青い蝋封のついた紙を置いている。
紙の縁の蝋には、まだ白い粉が薄く付着している。
レンはその粉を、拭わないままにしてある理由を聞かなかった。
聞かなくても分かる。
粉は、誰かが触った証拠。
拭えば、その証拠も消えてしまう。
「レン様」
「はい」
「私は、商人として、ここで死ぬかもしれません」
ユリウスはそれを、笑みなしで言った。
地図を指でなぞる仕草も、いつもより少し止まりがちになっている。
「商人としての、死、というのは」
「組織の名を、口にすることです。本店の上に座っている人物の名を、もし私が口にすれば、私は商会から、商人として、いなくなります」
「それでも、口にされるのですか」
「まだ、決めていません。ただ、覚悟はしておきます」
レンは、頷いた。
それ以上は、聞かなかった。
♦
昼前、街道の上で、一頭の早馬と擦れ違った。
南から、北へ。
馬の足は速いが、汗の匂いはほとんどしない。
今朝、どこかから新しく出された馬だ。
御者は頭巾を深く被って、顔を見せない。
レンが馬車の幌の縁から、その早馬の蹄を目で追った。
蹄の跡が、ぬかるみの上に見覚えのある形を残す。
南宿場の前を素通りした、あの早馬と同じ、王宮厩舎印の蹄鉄。
ミナが、ぽつりと言った。
「さっきの蹄、また見た」
「うん」
「ふたつ目、だね」
ユリウスが、地図の上に、指で軽い印を打った。
印を打った場所は、リンドホルム方面ではなかった。
北方街道のもっと先、北東方面に分岐する道の、ちょうど分かれ目だった。
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午後、街道の脇で、ひとりの徒歩の旅人と擦れ違った。
灰色の外套を着ている。
南宿場の鐘の下にいた男の外套と、同じ色。
別人だ、とレンの目はすぐに判断する。
背丈が違う。歩幅も違う。
ただ、外套の襟元の留め金が同じだった。
王宮厩舎で使われる、銀の小さなもの。
旅人は、頭を下げずに、馬車の脇をゆっくり通り過ぎていく。
通り過ぎる足音を、レンは耳で追った。
砂利を踏む拍子が、奇妙に揃っている。
南宿場の鐘の下にいた男の、立ち姿の静けさと、半拍ずれてよく似ていた。
ふつうの旅人は、こんなに均された足音では歩かない。
通り過ぎた後、レンは振り返らなかった。
ミナも振り返らない。
ふと、ミナが、もう一度、空を見上げた。
「鳥が、今度は、南西に逃げた」
ユリウスの指が、地図の上で、止まった。
止まった指は、しばらく動かなかった。
動かないまま、地図の上に、もうひとつ、印を打った。
二つ目の印は、最初の印のすぐ隣、しかし方向だけが、わずかに違っていた。
「二点」
ユリウスは、独り言のように呟いた。
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夕方の鐘ひとつ前に、次の中継宿に到着した。
宿の主人は五十歳ぐらいの、痩せた男。
頬骨が高く、片目がわずかに濁っている。
「お疲れさんで」
主人は、レンたちが土間に入った瞬間に、まず、こう聞いてきた。
「お客さん方、急ぎなさるか」
その問いは、こちらが何かを尋ねる前に、先に出てきた。
レンは、わずかに、考えた。
「急いでおります」
「左様ですか」
主人は、それ以上を言わずに、湯呑みを四つ、卓に並べた。
並べる手の動きが、いつもの宿屋の主人より、ほんの少し、慣れすぎていた。
「ご亭主、ひとつ伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「今日、青い封蝋のついた書状を持った客が、こちらに寄りませんでしたか」
主人はしばらく考えている。
考えるふりではなく、本当に思い出している顔だ。
ただ、片目の濁った方の視線が、ほんの一瞬、土間の隅へと流れた。
流れて、すぐに戻ってくる。
「半刻ほど前に、お一人、お通りに」
「半刻」
「お休みは取らんかった。湯だけ一杯。書状は持っておられた。封蝋の色までは、見ておりませんがな」
「外套の色は」
「灰色でしたな」
ユリウスは、卓の縁に、指を置いた。
卓の縁には、白いごく薄い粉がわずかに残っている。
拭き残しというには、丁寧すぎる粉の薄さ。
ユリウスはその粉を、指で軽く撫でた。
粉の感触は、青蝋封のついた紙に付いていた白粉と、同じ。
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その時、護衛のひとりが、主人に近寄った。
「ご亭主、馬の世話を頼みたい」
「ああ、北の厩でお預かりしますよ」
「あそこの厩番、まだヘイルさんかい」
主人が、わずかに顔を上げた。
「お客さん、ヘイルをご存じで?」
「昔、王都の厩舎で、ともに馬を見ていた仲だ」
「そりゃあ、奇遇で。あいつもここに来て、もう五年になりますがな」
主人は、護衛の顔を、もう一度見直した。
その目には、客を見る目とは違う、知った顔を確かめるような、わずかな揺れがあった。
見直したあと、主人は何も言わずに、奥へ歩いていった。
護衛の方も、それ以上は口を開かなかった。
ミナが、レンの袖を、軽く引いた。
「あの人」
「うん」
「ここに、前に来てたんだ。たぶん」
レンは、頷いた。
頷いて、護衛の顔を、改めて視界に入れた。
顔そのものに、特に印象はなかった。
ただ、口数がいつもより、ほんの少し少なかった。
この護衛は、リンドホルム公爵家の兵だ。セリアが直々に選んで付けた者だ。
その兵が、なぜ、王都の厩舎で働く人物の名を即座に呼べるのか。
その答えは、まだレンの胸の中でひとつも形になっていない。
護衛が湯呑みを取る手の動きを、レンは視界の端で追った。
湯呑みを手に取る前に、護衛の手のひらは、まず湯呑みの底の高さを指で確かめている。
ふつうの旅人は、そんな確かめ方をしない。
厩舎で何年も、馬具の重心を測ってきた手の動きだ。
護衛は、湯呑みの茶を半分だけ飲んで、卓に戻した。
戻した位置は、最初に置かれた場所からほんの指一本ぶんだけ、ずれている。
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主人がレンを見送る前に、ぽつりと付け足した。
「最近、北東街道のほうで、行方知れずになる荷が、増えとります」
「ご亭主、それは」
「うちには関係ない話ですがな。お通りなさる方々のうち、何人かが、そう仰っとります」
「どのくらいの数」
「数までは、聞いとりませんわ」
主人はそれだけ言って、奥へ戻った。
戻り際の足音が、土間の石を規則正しく踏んでいく。
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日が暮れる頃、馬車二台は、街道脇の野営地に止まった。
次の中継宿までは、あと一刻半。
馬を一度休ませて、夜の街道に出るかどうかを、ユリウスとレンが相談した。
結論は、夜のうちに出る、だった。
残り二日のうち、一晩を寝てしまえば、もう、間に合わない。
馬の水を替えるあいだに、レンは街道脇の道標の前に立っていた。
道標は古い石の柱。
苔と、雨で削れた数字。
石の側面に、小さな新しい刻みが入っている。
小刀で誰かが、つい最近彫った印だった。
矢印の形。
矢印は、リンドホルム方向ではなく、北東街道の分岐の方向を指している。
レンはしばらく、その矢印を見ていた。
道標の足元では、苔が夕方の風でわずかに揺れている。
揺れた苔のあいだから、もう一筋、古い印が薄く覗いていた。
半年か、一年か、もっと前に誰かが彫った印だ。
今日の矢印は、その古い印のちょうど隣に、揃えて彫られている。
レンは、それを誰にも見せずに、馬車に戻った。
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馬車が動き出してから、レンは胸の奥で、《棚卸し》を、短く回した。
北東街道、合流地点。
二点が、一点になっている。
その一点は、北東街道の分岐からリンドホルム方向へと、向きを変えていた。
表示はすぐ消えた。
合流地点の手前には、レン一行が明日の夜に泊まる予定の、次の中継宿がある。
先に着くのは、どちらか。
まだ、誰にも分からない。
夜の街道は、月明かりの下で青く沈んでいる。
ミナが、首から下げた札の紐を無意識に指でいじっていた。
札の紐は、いつのまにか端のほうがわずかにほつれ始めている。




