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外れスキル《棚卸し》の俺、物資不足で滅びかけた王国を倉庫から立て直す 〜追放した勇者たちは補給切れで泣きついてきたが、もう遅い〜  作者: のむ


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第38話 鳴らない鐘、来た馬

 夜明け前、レンは井戸端で桶を手に立っている。


 空はまだ濃い藍色。鉄の井戸縁は、夜明け前の空気よりもずっと冷たい。


 桶を下ろそうとした手が、ふと止まった。


 昨夜から鐘の音を、一度も聞いていない。


 鳴るはずの夜中に鳴らなかった。

 夜明けの鐘も、まだ鳴らない。


 レンは桶を縄に結び直すのを後にする。



 広場の鐘の下に、いつもの老人はいない。


 代わりに、ひとりの男が立っている。


 背は中ぐらい、髪はぼさぼさで、顔の半分は外套の襟に隠れていた。

 外套は灰色。

 南宿場の住人の上着の色ではない。


「ご苦労さま」


 レンが声をかけた。


 男は軽く頭を下げた。

 頭を下げる動きが、わずかに滑らかすぎる。

 訓練された頭の下げ方。


 男は何も言わずに、鐘の綱の方を指で示した。


 綱は切れている。

 刃物ですっぱりと切られた跡だった。


「いつから」


「私が来た時にはもう、これでした」


「来た時、とは」


「昨夜の、遅くです」


 男はそれだけ言って、また襟の中に顔を半分隠した。


 返事を待つあいだ、男は身じろぎひとつしない。

 動かないという動きにも、訓練の手触りがある。


 レンはその襟元を、わずかに長く見た。

 灰色の外套に留め金がついている。

 王宮厩舎で使われる銀の、小さなもの。


 外套の裾の下から、靴の先がわずかに覗いている。

 革底の薄い、街中で履く形。

 南宿場のぬかるみを歩くための靴ではない。


 レンが視線を上げると、男の体がほんの半歩、横へずれていた。

 ずれた先には、ちょうど井戸の影が落ちている。

 影に入る位置を、男は自然に選んでいた。


 顔は最後まで、はっきりとは見えなかった。



 宿の小部屋で、ユリウスはすでに地図を畳んでいた。


「ユリウス様」


「鐘の話は、ミナから聞きました」


「鐘番の老人は」


「ヤン様に確認したところ、昨日の夕方、急用で隣村へ呼ばれた、と。書面ではなく口伝の呼び出しだったそうです」


「呼び出した人物は」


「分かりません。ヤン様も首を傾げています」


 ユリウスの手が、地図の縁を二度撫でた。


「レン様、出発を一日早めましょう」


「一日」


「今日の昼に出ます。残り二日のうち、一日でもリンドホルムに近い場所まで進んでおきたい」


「分かりました」



 朝の鐘ふたつ目の頃──正確には、鳴らない鐘の二つ目の時刻に、宿の前を一頭の早馬が通り過ぎた。


 南から来て、北へ抜けていく。

 南宿場の正門の前で、御者は手綱を緩めなかった。


 馬の蹄が、ぬかるみの泥を跳ね飛ばした。

 跳ねた泥のひとつが、レンの足元まで薄く届いた。


 御者の顔は、外套の頭巾に隠れている。

 馬の鼻からは白い息が立ち上り、走っているのに汗の匂いはほとんどしない。

 長く走らされている馬ではない。

 今朝どこか近くから、急に出された馬。


 通り過ぎた瞬間、レンの胃の底がわずかに浮いた。


 止まらなかった。

 ふつう、北方街道の宿場は、馬を一度休ませる場所のはずだ。


 馬が消えたあと、広場にはしばらく静寂だけが残る。

 その静寂は、いつもの宿場の朝の静寂よりもう一段、薄く剥がれている。


 その早馬を最初に見ていたのは、ピップだった。


「お兄ちゃん」


 ピップが井戸の脇から、レンに駆け寄ってきた。


「今の馬、止まらなかった」


「うん」


「あれ、王都の方角から来た馬。なのに、北のほうへ行った」


「北、というのは」


「北方街道のずっと先。たぶん、北方第三関所より、もっと向こう」


 ピップは小さな指で北を指す。

 指の先で、ぬかるみの上に蹄の跡が薄く残っていた。


 その蹄鉄の形を、レンはしゃがんで近くで見る。


 南宿場の馬の蹄鉄ではない。

 形がひと回り小さく、後ろに王宮厩舎の印が薄く打たれている。


「ピップさん、この蹄、見たの、初めて?」


「うん。今朝、初めて。なんで?」


「いえ、ありがとう」


 ピップは少し胸を張って、井戸の方へ戻っていった。


 子供の証言だった。

 子供の証言は、大人にはまだ届きにくい。



 奥倉庫で、ヤン・コルテスは薬箱の前に座っている。


 昨日と同じ場所に、同じ姿勢で。

 ただ、卓の縁に置いた両手は、今日は震えを隠さない。


 右手の指先が、薬箱の蓋の縁をゆっくり撫でていた。

 撫でて、また戻し、また撫でる。

 その動きは、撫でている対象を確かめる動きではない。

 自分の指の方を確かめている動きだ。


「ヤン様」


「都市補給官代理様」


「ハルさんに彫り方を教えた人物について、ひとつだけ伺ってもよろしいですか」


 ヤンはしばらく黙っていた。


 奥倉庫の天井の梁を見ている。

 梁の隅には、古い蜘蛛の巣がひとつぶら下がっている。


 外で、井戸の縁を誰かが桶でこする遠い音がした。

 ミナか、ピップか、もしくは誰でもない朝の音か。


 ヤンの胸が一度、深く動く。

 吸って、止めて、ゆっくり吐いた。


「教えたのは──」


 ヤンの唇がひとつ動いた。

 動いて、止まった。


 止まったまま、ヤンの目は薬箱からレンの方へと、ゆっくり上がってきた。


 その目の中に、ためらいでも後悔でもない、何かがあった。

 昔よく知っていた人物の顔を、今日初めて別の角度から見直しているような目だった。


「──いや、いい。今日は、言わん」


「ヤン様」


「俺が名を言えば、その人物に、こちらが動いたことがたぶん伝わる。今、伝えていい相手か、まだ決められん」


「決められない、というのは」


「その人物が、ハルを助けようとしてくれているのか、それとも──」


 ヤンはそこで、もう一度唇を閉じた。


 閉じた唇の奥で、彼が飲み込んだ言葉の重さは、レンには量れなかった。


「分かりました。今日は、伺いません」


 レンは頷いた。

 頷いて、それ以上は聞かなかった。


 奥倉庫を出るとき、レンは戸口で一度だけ振り返った。

 ヤンの指先は、まだ薬箱の蓋の縁を撫でている。



 昼前、宿の戸口で、ピップとノルが小さく話している。


 ピップがノルの手元を覗き込んでいた。

 ノルの白い木片には、「ノ」の隣に「ル」の半分が書かれかけている。


 「ル」の縦線がまっすぐではなく、わずかに曲がっていた。


「ル、難しい?」


「うん」


「最初の点は、上から始めるんだよ。たぶん」


「たぶん、なの?」


「俺も、ル、自信ない」


 ふたりは少し笑った。

 笑ったあと、ピップがふと表情を真面目に戻した。


「ねえ、ノル」


「うん」


「さっきの大人たち、ヤンのおじさんが、何か言いかけて、止めたんだよね」


「うん。聞こえてた」


「あれ、なんで止めたんだろう」


「言いたくなかったから?」


「ううん。違うと思う」


 ピップは井戸の方をちらりと見た。


「言いたかったけど、止めたんだと思う。それって、言うより、重い」


 ノルは書きかけの「ル」を指でなぞった。


 ピップの言葉は、子供の言葉のはずだ。

 けれどその重さは、宿の卓の上の重さとよく似ている。



 昼を回った頃、馬車二台の準備が宿の前に整った。


 ミナが首から札を下げて、御者の前に立っている。


「ねえ、レン」


「うん」


「あたし、鐘番のおじいちゃんを、最後に見たのって、いつだっけ」


「いつ」


「えっとね、昨日の、お昼の鐘の少し前。井戸で水を汲んでた。一人で。誰とも話してなかった」


「夕方は」


「夕方は、見てない。夜は、いつも鐘の下にいるはずなのに、いなかった」


「分かった。ありがとう」


 ミナは札の縁を、指で軽く撫でた。


 子供の記憶は、大人の記憶よりしばしば正確だ。



 馬車に乗り込む直前、レンはもう一度、奥倉庫に立ち寄った。


 薬箱の前で、《棚卸し》を短く回した。


 胸の奥で、表示が北東街道の方角にふっと伸びた。


 北東街道、現在、こちらに向かってくる動き、二点。

 うちひとつは、馬。もうひとつは、徒歩。


 表示はすぐ消えた。

 レンはそれ以上は回さなかった。



 馬車寄せで、ユリウスが青い偽封のついた紙片を、もう一度卓に出している。


 日中の光の下で、青い蝋は夜に見たときよりも、わずかに艶が浅い。


 ユリウスは蝋の縁を、指の腹で軽く撫でた。


 撫でた指先を、こちらへ向ける。


 指の腹に、白いごく薄い粉がついている。


「レン様」


「はい」


「この蝋は──昨夜、誰かに触られています」


「触られた」


「指紋を消した跡です。乾いた蝋に粉をまぶして、自分の指の痕を抑えた」


「いつ」


「私たちが眠っているあいだに、です」


 馬車寄せの空気が、ひとつ止まった。


 ユリウスの言葉が、しばらく誰の口にも続けて出てこない。


 レンはユリウスの指先を、しばらく見ている。

 白い粉は、ユリウスの指紋の筋にわずかに沿って入り込んでいた。


 ふと顔を上げると、ユリウスもこちらを見ている。

 ふたりの視線が、卓の真上でひとつ交差した。


 その視線の重さに、ミナが口を開きかけて、また閉じた。


 広場の方角から、ぱさり、と布が風を受ける軽い音が聞こえてくる。

 馬車の幌が、出発の準備で風を受けて鳴ったのだった。


 鳴らない鐘の代わりに、その音だけが、宿場の朝の終わりを告げる。



 馬車が走り出す直前、レンは宿の裏口の方を振り返った。


 裏口のぬかるみの上に、もうひとつ、蹄の跡が薄く残っている。


 形は、朝ピップが指したあの王宮厩舎印の蹄鉄と、同じ。


 早馬は南宿場を素通りしてはいなかった。

 一度、宿場の裏口に寄っている。

 寄って、何かをして、また北へ走り去った。


 レンは馬車の幌の中に戻った。

 戻る手で、ユリウスの差し出した青い蝋封の紙を、両手で受け取る。


 受け取った紙の重さは、ごく軽い。

 軽さの中に、何かが確かに入り込んでいる。


 動けるのは、残り二日。


 ただし、その二日は──もう、こちら側だけの時間ではない。

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