第38話 鳴らない鐘、来た馬
夜明け前、レンは井戸端で桶を手に立っている。
空はまだ濃い藍色。鉄の井戸縁は、夜明け前の空気よりもずっと冷たい。
桶を下ろそうとした手が、ふと止まった。
昨夜から鐘の音を、一度も聞いていない。
鳴るはずの夜中に鳴らなかった。
夜明けの鐘も、まだ鳴らない。
レンは桶を縄に結び直すのを後にする。
♦
広場の鐘の下に、いつもの老人はいない。
代わりに、ひとりの男が立っている。
背は中ぐらい、髪はぼさぼさで、顔の半分は外套の襟に隠れていた。
外套は灰色。
南宿場の住人の上着の色ではない。
「ご苦労さま」
レンが声をかけた。
男は軽く頭を下げた。
頭を下げる動きが、わずかに滑らかすぎる。
訓練された頭の下げ方。
男は何も言わずに、鐘の綱の方を指で示した。
綱は切れている。
刃物ですっぱりと切られた跡だった。
「いつから」
「私が来た時にはもう、これでした」
「来た時、とは」
「昨夜の、遅くです」
男はそれだけ言って、また襟の中に顔を半分隠した。
返事を待つあいだ、男は身じろぎひとつしない。
動かないという動きにも、訓練の手触りがある。
レンはその襟元を、わずかに長く見た。
灰色の外套に留め金がついている。
王宮厩舎で使われる銀の、小さなもの。
外套の裾の下から、靴の先がわずかに覗いている。
革底の薄い、街中で履く形。
南宿場のぬかるみを歩くための靴ではない。
レンが視線を上げると、男の体がほんの半歩、横へずれていた。
ずれた先には、ちょうど井戸の影が落ちている。
影に入る位置を、男は自然に選んでいた。
顔は最後まで、はっきりとは見えなかった。
♦
宿の小部屋で、ユリウスはすでに地図を畳んでいた。
「ユリウス様」
「鐘の話は、ミナから聞きました」
「鐘番の老人は」
「ヤン様に確認したところ、昨日の夕方、急用で隣村へ呼ばれた、と。書面ではなく口伝の呼び出しだったそうです」
「呼び出した人物は」
「分かりません。ヤン様も首を傾げています」
ユリウスの手が、地図の縁を二度撫でた。
「レン様、出発を一日早めましょう」
「一日」
「今日の昼に出ます。残り二日のうち、一日でもリンドホルムに近い場所まで進んでおきたい」
「分かりました」
♦
朝の鐘ふたつ目の頃──正確には、鳴らない鐘の二つ目の時刻に、宿の前を一頭の早馬が通り過ぎた。
南から来て、北へ抜けていく。
南宿場の正門の前で、御者は手綱を緩めなかった。
馬の蹄が、ぬかるみの泥を跳ね飛ばした。
跳ねた泥のひとつが、レンの足元まで薄く届いた。
御者の顔は、外套の頭巾に隠れている。
馬の鼻からは白い息が立ち上り、走っているのに汗の匂いはほとんどしない。
長く走らされている馬ではない。
今朝どこか近くから、急に出された馬。
通り過ぎた瞬間、レンの胃の底がわずかに浮いた。
止まらなかった。
ふつう、北方街道の宿場は、馬を一度休ませる場所のはずだ。
馬が消えたあと、広場にはしばらく静寂だけが残る。
その静寂は、いつもの宿場の朝の静寂よりもう一段、薄く剥がれている。
その早馬を最初に見ていたのは、ピップだった。
「お兄ちゃん」
ピップが井戸の脇から、レンに駆け寄ってきた。
「今の馬、止まらなかった」
「うん」
「あれ、王都の方角から来た馬。なのに、北のほうへ行った」
「北、というのは」
「北方街道のずっと先。たぶん、北方第三関所より、もっと向こう」
ピップは小さな指で北を指す。
指の先で、ぬかるみの上に蹄の跡が薄く残っていた。
その蹄鉄の形を、レンはしゃがんで近くで見る。
南宿場の馬の蹄鉄ではない。
形がひと回り小さく、後ろに王宮厩舎の印が薄く打たれている。
「ピップさん、この蹄、見たの、初めて?」
「うん。今朝、初めて。なんで?」
「いえ、ありがとう」
ピップは少し胸を張って、井戸の方へ戻っていった。
子供の証言だった。
子供の証言は、大人にはまだ届きにくい。
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奥倉庫で、ヤン・コルテスは薬箱の前に座っている。
昨日と同じ場所に、同じ姿勢で。
ただ、卓の縁に置いた両手は、今日は震えを隠さない。
右手の指先が、薬箱の蓋の縁をゆっくり撫でていた。
撫でて、また戻し、また撫でる。
その動きは、撫でている対象を確かめる動きではない。
自分の指の方を確かめている動きだ。
「ヤン様」
「都市補給官代理様」
「ハルさんに彫り方を教えた人物について、ひとつだけ伺ってもよろしいですか」
ヤンはしばらく黙っていた。
奥倉庫の天井の梁を見ている。
梁の隅には、古い蜘蛛の巣がひとつぶら下がっている。
外で、井戸の縁を誰かが桶でこする遠い音がした。
ミナか、ピップか、もしくは誰でもない朝の音か。
ヤンの胸が一度、深く動く。
吸って、止めて、ゆっくり吐いた。
「教えたのは──」
ヤンの唇がひとつ動いた。
動いて、止まった。
止まったまま、ヤンの目は薬箱からレンの方へと、ゆっくり上がってきた。
その目の中に、ためらいでも後悔でもない、何かがあった。
昔よく知っていた人物の顔を、今日初めて別の角度から見直しているような目だった。
「──いや、いい。今日は、言わん」
「ヤン様」
「俺が名を言えば、その人物に、こちらが動いたことがたぶん伝わる。今、伝えていい相手か、まだ決められん」
「決められない、というのは」
「その人物が、ハルを助けようとしてくれているのか、それとも──」
ヤンはそこで、もう一度唇を閉じた。
閉じた唇の奥で、彼が飲み込んだ言葉の重さは、レンには量れなかった。
「分かりました。今日は、伺いません」
レンは頷いた。
頷いて、それ以上は聞かなかった。
奥倉庫を出るとき、レンは戸口で一度だけ振り返った。
ヤンの指先は、まだ薬箱の蓋の縁を撫でている。
♦
昼前、宿の戸口で、ピップとノルが小さく話している。
ピップがノルの手元を覗き込んでいた。
ノルの白い木片には、「ノ」の隣に「ル」の半分が書かれかけている。
「ル」の縦線がまっすぐではなく、わずかに曲がっていた。
「ル、難しい?」
「うん」
「最初の点は、上から始めるんだよ。たぶん」
「たぶん、なの?」
「俺も、ル、自信ない」
ふたりは少し笑った。
笑ったあと、ピップがふと表情を真面目に戻した。
「ねえ、ノル」
「うん」
「さっきの大人たち、ヤンのおじさんが、何か言いかけて、止めたんだよね」
「うん。聞こえてた」
「あれ、なんで止めたんだろう」
「言いたくなかったから?」
「ううん。違うと思う」
ピップは井戸の方をちらりと見た。
「言いたかったけど、止めたんだと思う。それって、言うより、重い」
ノルは書きかけの「ル」を指でなぞった。
ピップの言葉は、子供の言葉のはずだ。
けれどその重さは、宿の卓の上の重さとよく似ている。
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昼を回った頃、馬車二台の準備が宿の前に整った。
ミナが首から札を下げて、御者の前に立っている。
「ねえ、レン」
「うん」
「あたし、鐘番のおじいちゃんを、最後に見たのって、いつだっけ」
「いつ」
「えっとね、昨日の、お昼の鐘の少し前。井戸で水を汲んでた。一人で。誰とも話してなかった」
「夕方は」
「夕方は、見てない。夜は、いつも鐘の下にいるはずなのに、いなかった」
「分かった。ありがとう」
ミナは札の縁を、指で軽く撫でた。
子供の記憶は、大人の記憶よりしばしば正確だ。
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馬車に乗り込む直前、レンはもう一度、奥倉庫に立ち寄った。
薬箱の前で、《棚卸し》を短く回した。
胸の奥で、表示が北東街道の方角にふっと伸びた。
北東街道、現在、こちらに向かってくる動き、二点。
うちひとつは、馬。もうひとつは、徒歩。
表示はすぐ消えた。
レンはそれ以上は回さなかった。
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馬車寄せで、ユリウスが青い偽封のついた紙片を、もう一度卓に出している。
日中の光の下で、青い蝋は夜に見たときよりも、わずかに艶が浅い。
ユリウスは蝋の縁を、指の腹で軽く撫でた。
撫でた指先を、こちらへ向ける。
指の腹に、白いごく薄い粉がついている。
「レン様」
「はい」
「この蝋は──昨夜、誰かに触られています」
「触られた」
「指紋を消した跡です。乾いた蝋に粉をまぶして、自分の指の痕を抑えた」
「いつ」
「私たちが眠っているあいだに、です」
馬車寄せの空気が、ひとつ止まった。
ユリウスの言葉が、しばらく誰の口にも続けて出てこない。
レンはユリウスの指先を、しばらく見ている。
白い粉は、ユリウスの指紋の筋にわずかに沿って入り込んでいた。
ふと顔を上げると、ユリウスもこちらを見ている。
ふたりの視線が、卓の真上でひとつ交差した。
その視線の重さに、ミナが口を開きかけて、また閉じた。
広場の方角から、ぱさり、と布が風を受ける軽い音が聞こえてくる。
馬車の幌が、出発の準備で風を受けて鳴ったのだった。
鳴らない鐘の代わりに、その音だけが、宿場の朝の終わりを告げる。
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馬車が走り出す直前、レンは宿の裏口の方を振り返った。
裏口のぬかるみの上に、もうひとつ、蹄の跡が薄く残っている。
形は、朝ピップが指したあの王宮厩舎印の蹄鉄と、同じ。
早馬は南宿場を素通りしてはいなかった。
一度、宿場の裏口に寄っている。
寄って、何かをして、また北へ走り去った。
レンは馬車の幌の中に戻った。
戻る手で、ユリウスの差し出した青い蝋封の紙を、両手で受け取る。
受け取った紙の重さは、ごく軽い。
軽さの中に、何かが確かに入り込んでいる。
動けるのは、残り二日。
ただし、その二日は──もう、こちら側だけの時間ではない。




