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外れスキル《棚卸し》の俺、物資不足で滅びかけた王国を倉庫から立て直す 〜追放した勇者たちは補給切れで泣きついてきたが、もう遅い〜  作者: のむ


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第37話 湿った薬箱、二度目

 朝霜の白さが、平台の縁に薄く残っていた。


 奥倉庫の壁の前で、トビはもう一度息を吸い、ひとつ吐いた。


 子供の小さな指が、薬箱の蓋に添えられた。


 ミナは半歩離れた場所で両手を握り合わせている。

 ユリウスは無言で、薬箱の側面の紙札を視界の隅に置いた。

 レンは何も言わずに、トビの手元を見つめる。


「開けるよ」


「うん」


 トビが蓋をゆっくりと持ち上げた。



 最初に流れ出たのは、湿った木の匂いではなかった。


 甘い。

 いや、少し薬草の苦みも混ざっている。

 けれどその奥に、はっきりと甘い別の匂いが漂った。


 花の蜜のような、けれどもう少し人工的な、何かの匂い。


「……これ、薬の匂い、じゃない」


 ミナがいちばん先に言った。


「あたし、お母さんが寝込んだとき、お父さんが治療院から薬もらってきたの、覚えてる」


「うん」


「あれ、こんな甘い匂い、しなかった」


 ミナの声は子供の声のままだ。

 子供のままで、確信だけが芯にある。


 薬箱の中には瓶が八本。

 半分はこげ茶の薬瓶。

 残り半分は同じ形だが、栓の蝋の色が少し違う。

 古いはずなのに、新しい蝋に見える。


 レンはその新しい蝋の瓶を一本つまみ上げた。


「ユリウス様」


「はい」


「この瓶、栓だけが、新しい」


「貼り替えた、ということになりますね」


 レンは瓶をゆっくり傾けた。


 中の液体がことりと動いた。

 動いた瞬間、瓶の底に赤い澱がふっと舞った。


「……着色剤、ですね」


 ユリウスの声が、わずかに低くなった。


 彼は瓶を傾け直し、底の赤い澱をしばらく見ていた。


「この赤は──おそらく、アヴェルス産の紅花染料に近い色です。本来は布を染めるために、南の港から運ばれてくる」


「布の染料を、薬の色に」


「ええ。安く手に入りやすい。色も似ている」


「本物の薬には着色剤は使いません。これは、薬の色を真似た水です」


「水」


「半分は本物の薬。半分は水と染料。同じ箱に混ぜて入れてあります」



「ちょっと、待って」


 戸口の方で、ピップの声がした。

 井戸から空の桶を持って戻ってきたところだった。


「待ってって、何が?」


「だって、薬って、混ぜたら、もうどれが本物か、わかんなくなるじゃん」


 ピップは率直に言った。


「届く先で、誰かが飲んだら、当たり外れになるってこと?」


「そうです」


 ユリウスが頷いた。


「街道沿いの宿場には本物が届きます。けれどその先の、王都までの最後の宿場には、水しか届かないということが起こりえます」


「えっ」


「外れの瓶を引いた人は、薬を飲んだつもりで、何も飲んでいない」


 ピップは空の桶を、土の上にそっと置いた。

 その音だけが、土間に少し大きく響く。



 トビは薬箱の中を、しばらく覗き込んでいた。


「お兄さん」


「はい」


「これ、見て」


 トビが指したのは、本物の薬瓶のうちの一本。

 瓶の底に、何か白いものが押し込まれている。


 レンが瓶を逆さにして、栓を慎重に開けた。

 中身の薬を別の小皿に空ける。

 空けた瓶の底から、小指ほどの長さの薄い木片がひとつ、転がり出てきた。


 木片にはナイフで文字が彫られている。

 粗い彫り方ではない。

 子供の手仕事でもない。


 彫られていたのは、ひとつの名前だった。


「ハル」


 ヤン・コルテスが戸口から、その音節をひとりで呟いた。


 ヤンの右手が、卓代わりの古い箱の縁に置かれる。

 置いた手は震えない。


 震えないよう、力を込めて押さえつけている。


「俺の、息子の名前だ」


 戸口からヤンは動かない。

 動かないまま、片耳にいつもの手が添えられた。


 その手が、今日は震えている。


 ヤンの目は、レンの手の中の木片を見ていない。

 見ていたのは、薬箱そのもの、それ自体だった。


 まるで十年前にも、同じ箱が自分の宿場を通っていったかもしれない、と確かめている目だ。



「ヤン様」


「ああ」


「ハルさんは、いつから行方知れずに」


「一年とふた月前だ」


「行方知れずになる前、最後にいた場所は」


「北方街道の四つ先の宿場まで、配達に行った。そこから先は、聞いていない」


「彫ったのは、彼の手で?」


「分からん」


 ヤンの手は、まだ押さえつけたままだった。


「だが、これは子供の彫りじゃない。彫り方を、誰かが教えた」


「誰か」


「俺じゃない」


 ヤンの声がそこで初めて、わずかに掠れた。



 ユリウスが、薬箱の中をもう一度覗いた。

 覗いてから、薬瓶のあいだに挟まっていた一枚の紙片を、指でつまみ出した。


 ぼろぼろの、薄い紙。

 罫線が薄く印刷されている。


「これは──王都補給局の、内部書式です」


「内部書式」


「外には絶対に出ない書式の紙です」


 ユリウスは紙片を光の方へ向けて、しばらく見ていた。


 紙片には文字が薄く書きつけられていた。


「『補給局 受領済』──印影の、下書きですね」


「下書き」


「正式な印を押す前に、形を整える練習をした跡です。これを書いた人物は、印そのものを作ろうとしていた」


「ゴーシュの筆跡では」


「いいえ」


 ユリウスは紙片を、もう少し光に近づけた。


「これはゴーシュではない。第三の人物の筆跡です」


「第三の」


「ゴーシュは書き写すだけの荷役です。印を作るような立場ではない。これを書いたのは、ゴーシュの上に立つ別の誰か」


 ユリウスは紙片の隅を、もう一度光に翳した。


「文字の右払いが、書記の癖です。それも、王宮内の書記官講習をきちんと受けた者の払い方」


「王宮内」


「書記課に上がる前に、半年間の講習を受けます。あの払い方は、それを終えた者にしか出ない」


 レンは紙片を見なかった。

 紙片の代わりに、ユリウスの横顔をしばらく見ている。


 ユリウスの頬の血の色が、いつもよりわずかに薄い。


「ユリウス様、お顔の色が」


「……失礼。本店時代、似た筆跡を一度だけ見たことがあります」


「誰の」


「申し上げるには、まだ根拠が足りません。今日のところは保留にさせてください」


「分かりました」


 ユリウスの「保留」は、レンの板書の保留とは別の重さを帯びている。

 商人が十年仕えた組織の名を、まだ口にしない時の重さ。


 レンは薬箱の縁を、指で軽く撫でた。


 《棚卸し》を今は回さなかった。

 回せば何が見えるか、すでに想像がついていた。

 想像がついている以上、わざわざ深く回すまでもなかった。



 昼を過ぎて、ヤン・コルテスは奥倉庫の床に、ひとり座り込んでいる。


 ハルの名が彫られた木片を、両手で包んでいる。


 レンとユリウスとミナは、宿の小部屋に戻った。

 戻る途中、井戸の脇でノルとピップが、地面の上に何か並べている。


 白い木片がひとつ。

 その上に、炭で文字が書きつけてある。


 「ノ」、一字。


「あんた、書いたの?」


 ミナがしゃがんで聞いた。


「うん」


「うまいじゃん」


「うまく、ない。一字書くのに、半日かかった」


「半日かけて書けた。それは、うまいよ」


 ノルは自分の指先を握り直した。


 ピップが横から覗き込んだ。


「俺も、明日、書いてみる」


「うん」



 夕方、宿の小部屋で、薬箱は卓の真ん中に置かれている。


 ユリウスが薬箱の内側を、もう一度入念に見ている。


 箱の底板に指を当てた。

 軽く力を入れる。


 底板がわずかに浮いた。


「……二重底、です」


 レンは黙って見ている。


 ユリウスが底板をゆっくり外した。


 外した底板の下に、もう一通の紙が貼り付いている。


 封蝋がついている。


 青い封蝋。


「うわっ──なにそれ」


 戸口で桶を抱えたまま戻ってきていたピップが、思わず声を漏らした。

 彼の目は、青い蝋の上に釘付けになっている。

 子供の素直な反応が、卓を囲む四人の張りつめた空気に、ひとつ亀裂を入れる。


 亀裂の入った場所から、ユリウスはすうと息を吸い直した。


 深い、深い青。

 レンがリンドホルム公爵家の執務室で、何度も見た色だった。


 ただし。


「家紋が、一画、足りない」


 ユリウスが低い声で言った。


「これは──偽造です。リンドホルム公爵家の封蝋を、真似たもの」


「セリア様の」


「ええ。セリア・グランヴェル様の家紋を、誰かが似せて作った」


「いつ、作られたものですか」


「蝋の艶からして、新しくはありません。少なくとも一年は経っている」


「一年」


 レンはしばらく、青い蝋を見つめていた。


 偽の蝋封は、本物よりわずかに青が深い。

 本物はもう少し、空に近い青。


 知らない者が見れば、本物と思う。

 知っている者が見れば、すぐに違いに気づく。


 つまり、これを作った者は、リンドホルム公爵家の本物の封蝋を見たことがない人間だ。


 遠くから、伝聞で再現した青。


「ユリウス様」


「はい」


「この封蝋の中の紙は、開けますか」


 ユリウスは首をゆっくり横に振った。


「今夜は開けません。開けてしまえば、リンドホルムに戻る前に何かを動かすことになります」


「分かりました」


「リンドホルムへの戻りは、調査しながら戻れば四日。猶予の十日のうち、すでに六日が過ぎている。残りは、四日」


「調査しながら戻れば四日。それでは、動ける日が残りません」


「戻りを二日に詰めます。馬を替えて、夜も走らせる。二日でリンドホルムへ戻り、セリア様にお伝えして、王都への報告書を整える。動けるのは、その残り二日だけです」


「動けますね」


「動きます。ただし──」


 ユリウスは青い蝋封のついた紙を、薬箱の中にそっと戻した。


「動き始めた瞬間、向こうも動きます」


 卓の上の蝋燭の炎が、誰かの息でひとつ揺れた。

 揺れた光の中で、薬箱の影がわずかに伸びた。



 夜が深くなった頃、レンは宿の二階の窓辺に立っていた。


 眼下の井戸の脇に、灯がひとつだけ灯っている。

 その灯の中で、ノルが白い木片を両手で握っている。


 昼に書いた「ノ」の一字。

 その一字を、ノルは寝る前にもう一度なぞっていた。


 なぞる指先は、子供のものにしては確かな力を持っていた。


 明日の朝、もう一字書くつもりなのだろう。

 書けるか、書けないかは、まだ分からない。


 ただ、ノルの手の中で、白い木片はすでに、ただの木ではなくなっていた。


 その夜も、宿場の鐘は誰にも鳴らされなかった。

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