第37話 湿った薬箱、二度目
朝霜の白さが、平台の縁に薄く残っていた。
奥倉庫の壁の前で、トビはもう一度息を吸い、ひとつ吐いた。
子供の小さな指が、薬箱の蓋に添えられた。
ミナは半歩離れた場所で両手を握り合わせている。
ユリウスは無言で、薬箱の側面の紙札を視界の隅に置いた。
レンは何も言わずに、トビの手元を見つめる。
「開けるよ」
「うん」
トビが蓋をゆっくりと持ち上げた。
♦
最初に流れ出たのは、湿った木の匂いではなかった。
甘い。
いや、少し薬草の苦みも混ざっている。
けれどその奥に、はっきりと甘い別の匂いが漂った。
花の蜜のような、けれどもう少し人工的な、何かの匂い。
「……これ、薬の匂い、じゃない」
ミナがいちばん先に言った。
「あたし、お母さんが寝込んだとき、お父さんが治療院から薬もらってきたの、覚えてる」
「うん」
「あれ、こんな甘い匂い、しなかった」
ミナの声は子供の声のままだ。
子供のままで、確信だけが芯にある。
薬箱の中には瓶が八本。
半分はこげ茶の薬瓶。
残り半分は同じ形だが、栓の蝋の色が少し違う。
古いはずなのに、新しい蝋に見える。
レンはその新しい蝋の瓶を一本つまみ上げた。
「ユリウス様」
「はい」
「この瓶、栓だけが、新しい」
「貼り替えた、ということになりますね」
レンは瓶をゆっくり傾けた。
中の液体がことりと動いた。
動いた瞬間、瓶の底に赤い澱がふっと舞った。
「……着色剤、ですね」
ユリウスの声が、わずかに低くなった。
彼は瓶を傾け直し、底の赤い澱をしばらく見ていた。
「この赤は──おそらく、アヴェルス産の紅花染料に近い色です。本来は布を染めるために、南の港から運ばれてくる」
「布の染料を、薬の色に」
「ええ。安く手に入りやすい。色も似ている」
「本物の薬には着色剤は使いません。これは、薬の色を真似た水です」
「水」
「半分は本物の薬。半分は水と染料。同じ箱に混ぜて入れてあります」
♦
「ちょっと、待って」
戸口の方で、ピップの声がした。
井戸から空の桶を持って戻ってきたところだった。
「待ってって、何が?」
「だって、薬って、混ぜたら、もうどれが本物か、わかんなくなるじゃん」
ピップは率直に言った。
「届く先で、誰かが飲んだら、当たり外れになるってこと?」
「そうです」
ユリウスが頷いた。
「街道沿いの宿場には本物が届きます。けれどその先の、王都までの最後の宿場には、水しか届かないということが起こりえます」
「えっ」
「外れの瓶を引いた人は、薬を飲んだつもりで、何も飲んでいない」
ピップは空の桶を、土の上にそっと置いた。
その音だけが、土間に少し大きく響く。
♦
トビは薬箱の中を、しばらく覗き込んでいた。
「お兄さん」
「はい」
「これ、見て」
トビが指したのは、本物の薬瓶のうちの一本。
瓶の底に、何か白いものが押し込まれている。
レンが瓶を逆さにして、栓を慎重に開けた。
中身の薬を別の小皿に空ける。
空けた瓶の底から、小指ほどの長さの薄い木片がひとつ、転がり出てきた。
木片にはナイフで文字が彫られている。
粗い彫り方ではない。
子供の手仕事でもない。
彫られていたのは、ひとつの名前だった。
「ハル」
ヤン・コルテスが戸口から、その音節をひとりで呟いた。
ヤンの右手が、卓代わりの古い箱の縁に置かれる。
置いた手は震えない。
震えないよう、力を込めて押さえつけている。
「俺の、息子の名前だ」
戸口からヤンは動かない。
動かないまま、片耳にいつもの手が添えられた。
その手が、今日は震えている。
ヤンの目は、レンの手の中の木片を見ていない。
見ていたのは、薬箱そのもの、それ自体だった。
まるで十年前にも、同じ箱が自分の宿場を通っていったかもしれない、と確かめている目だ。
♦
「ヤン様」
「ああ」
「ハルさんは、いつから行方知れずに」
「一年とふた月前だ」
「行方知れずになる前、最後にいた場所は」
「北方街道の四つ先の宿場まで、配達に行った。そこから先は、聞いていない」
「彫ったのは、彼の手で?」
「分からん」
ヤンの手は、まだ押さえつけたままだった。
「だが、これは子供の彫りじゃない。彫り方を、誰かが教えた」
「誰か」
「俺じゃない」
ヤンの声がそこで初めて、わずかに掠れた。
♦
ユリウスが、薬箱の中をもう一度覗いた。
覗いてから、薬瓶のあいだに挟まっていた一枚の紙片を、指でつまみ出した。
ぼろぼろの、薄い紙。
罫線が薄く印刷されている。
「これは──王都補給局の、内部書式です」
「内部書式」
「外には絶対に出ない書式の紙です」
ユリウスは紙片を光の方へ向けて、しばらく見ていた。
紙片には文字が薄く書きつけられていた。
「『補給局 受領済』──印影の、下書きですね」
「下書き」
「正式な印を押す前に、形を整える練習をした跡です。これを書いた人物は、印そのものを作ろうとしていた」
「ゴーシュの筆跡では」
「いいえ」
ユリウスは紙片を、もう少し光に近づけた。
「これはゴーシュではない。第三の人物の筆跡です」
「第三の」
「ゴーシュは書き写すだけの荷役です。印を作るような立場ではない。これを書いたのは、ゴーシュの上に立つ別の誰か」
ユリウスは紙片の隅を、もう一度光に翳した。
「文字の右払いが、書記の癖です。それも、王宮内の書記官講習をきちんと受けた者の払い方」
「王宮内」
「書記課に上がる前に、半年間の講習を受けます。あの払い方は、それを終えた者にしか出ない」
レンは紙片を見なかった。
紙片の代わりに、ユリウスの横顔をしばらく見ている。
ユリウスの頬の血の色が、いつもよりわずかに薄い。
「ユリウス様、お顔の色が」
「……失礼。本店時代、似た筆跡を一度だけ見たことがあります」
「誰の」
「申し上げるには、まだ根拠が足りません。今日のところは保留にさせてください」
「分かりました」
ユリウスの「保留」は、レンの板書の保留とは別の重さを帯びている。
商人が十年仕えた組織の名を、まだ口にしない時の重さ。
レンは薬箱の縁を、指で軽く撫でた。
《棚卸し》を今は回さなかった。
回せば何が見えるか、すでに想像がついていた。
想像がついている以上、わざわざ深く回すまでもなかった。
♦
昼を過ぎて、ヤン・コルテスは奥倉庫の床に、ひとり座り込んでいる。
ハルの名が彫られた木片を、両手で包んでいる。
レンとユリウスとミナは、宿の小部屋に戻った。
戻る途中、井戸の脇でノルとピップが、地面の上に何か並べている。
白い木片がひとつ。
その上に、炭で文字が書きつけてある。
「ノ」、一字。
「あんた、書いたの?」
ミナがしゃがんで聞いた。
「うん」
「うまいじゃん」
「うまく、ない。一字書くのに、半日かかった」
「半日かけて書けた。それは、うまいよ」
ノルは自分の指先を握り直した。
ピップが横から覗き込んだ。
「俺も、明日、書いてみる」
「うん」
♦
夕方、宿の小部屋で、薬箱は卓の真ん中に置かれている。
ユリウスが薬箱の内側を、もう一度入念に見ている。
箱の底板に指を当てた。
軽く力を入れる。
底板がわずかに浮いた。
「……二重底、です」
レンは黙って見ている。
ユリウスが底板をゆっくり外した。
外した底板の下に、もう一通の紙が貼り付いている。
封蝋がついている。
青い封蝋。
「うわっ──なにそれ」
戸口で桶を抱えたまま戻ってきていたピップが、思わず声を漏らした。
彼の目は、青い蝋の上に釘付けになっている。
子供の素直な反応が、卓を囲む四人の張りつめた空気に、ひとつ亀裂を入れる。
亀裂の入った場所から、ユリウスはすうと息を吸い直した。
深い、深い青。
レンがリンドホルム公爵家の執務室で、何度も見た色だった。
ただし。
「家紋が、一画、足りない」
ユリウスが低い声で言った。
「これは──偽造です。リンドホルム公爵家の封蝋を、真似たもの」
「セリア様の」
「ええ。セリア・グランヴェル様の家紋を、誰かが似せて作った」
「いつ、作られたものですか」
「蝋の艶からして、新しくはありません。少なくとも一年は経っている」
「一年」
レンはしばらく、青い蝋を見つめていた。
偽の蝋封は、本物よりわずかに青が深い。
本物はもう少し、空に近い青。
知らない者が見れば、本物と思う。
知っている者が見れば、すぐに違いに気づく。
つまり、これを作った者は、リンドホルム公爵家の本物の封蝋を見たことがない人間だ。
遠くから、伝聞で再現した青。
「ユリウス様」
「はい」
「この封蝋の中の紙は、開けますか」
ユリウスは首をゆっくり横に振った。
「今夜は開けません。開けてしまえば、リンドホルムに戻る前に何かを動かすことになります」
「分かりました」
「リンドホルムへの戻りは、調査しながら戻れば四日。猶予の十日のうち、すでに六日が過ぎている。残りは、四日」
「調査しながら戻れば四日。それでは、動ける日が残りません」
「戻りを二日に詰めます。馬を替えて、夜も走らせる。二日でリンドホルムへ戻り、セリア様にお伝えして、王都への報告書を整える。動けるのは、その残り二日だけです」
「動けますね」
「動きます。ただし──」
ユリウスは青い蝋封のついた紙を、薬箱の中にそっと戻した。
「動き始めた瞬間、向こうも動きます」
卓の上の蝋燭の炎が、誰かの息でひとつ揺れた。
揺れた光の中で、薬箱の影がわずかに伸びた。
♦
夜が深くなった頃、レンは宿の二階の窓辺に立っていた。
眼下の井戸の脇に、灯がひとつだけ灯っている。
その灯の中で、ノルが白い木片を両手で握っている。
昼に書いた「ノ」の一字。
その一字を、ノルは寝る前にもう一度なぞっていた。
なぞる指先は、子供のものにしては確かな力を持っていた。
明日の朝、もう一字書くつもりなのだろう。
書けるか、書けないかは、まだ分からない。
ただ、ノルの手の中で、白い木片はすでに、ただの木ではなくなっていた。
その夜も、宿場の鐘は誰にも鳴らされなかった。




