第36話 荷札を読めない宿場
南宿場の朝は、いつもと同じ時刻に始まった。
ただし、いつもとは少し違って、今朝は平台の脇にミナが立っている。札を首から下げ、両手は空にしている。
馬車が来るたびに、御者が札を一度見て、姿勢を直す。
昨日とは違うリズムで、荷下ろし場はわずかになめらかに動いていた。
その隅で、少年たちが荷を運んでいる。
♦
「ノル、それ違うって!」
怒鳴ったのは、トビではない。十二歳のピップだ。痩せて素早く、目のよく動く子。
ノルは十三歳。背はトビと同じくらい。けれど肩に妙な力が入っていて、何かを庇うような姿勢で立っていた。
ピップが取り上げたのは、ノルが運ぼうとしていた、塩樽用の白札がついた包みだ。
「これ、塩じゃなくて、薬瓶だよ。札の縁の線、黒い方がついてるじゃん」
「……黒い方」
「うん。塩は線なし、薬は黒い縁。何回言われた?」
ノルは黙って、包みをピップの手からまた受け取った。
受け取って、もう一度札を見る。
札の縁を指でなぞった。
長くなぞる。
♦
ミナは平台の脇から、その様子を見ていた。
札の指図が一段落したとき、ミナは三人の少年に近寄る。
「ねえ」
「あ、お姉ちゃん」
トビが先に振り向いた。
ピップは少し怪訝な顔で、ノルは目を伏せている。
ミナは外套の内ポケットから、何かを取り出した。
小さな木片だ。炭で、赤い線が一本引かれている。
「これ、何の札の色か、分かる人」
「赤線札!」
ピップが手を挙げた。
「うん、当たり」
「俺、赤と青と、三本線、読めるよ」
「すごいじゃん。三つ分かるの?」
「うん、父さんが教えてくれた」
ノルは何も言わない。
ミナはノルの方を見て、笑顔を作らなかった。
笑顔を作る代わりに、もう一枚、木片をノルの手の中に置く。
その木片には何も書かれていない。
「これは、何札だと思う?」
「……分かんない」
「うん。誰でも分からない。だって、なんにも書いてないから」
「お姉ちゃん」
「うん?」
「ふつうの札も、俺、書いてないように見えるときがある」
ミナは少し息を吸った。
「そっか」
「色は、なんとなく分かる。でも、赤と緑のちがいが、よく分かんないときがある」
「いつから?」
「ずっと、たぶん。父さんに、何回も怒られた」
ノルはそれを言いながら、自分の手のひらの中の白い木片を、両手で包み込んでいた。
包み込む、というより、隠している。
♦
その時間、宿の奥の小部屋で、レンとユリウスはヤン・コルテスと向き合っていた。
卓の上には、古い帳面が一冊開かれている。
ページの隅は、湿気と煤で黒く縁取られていた。
「荷役の名簿、と申しましたかな」
「ええ」
「お見せはしますが──都市補給官代理様、これを見て、何かが変わるとは思わんでくださいよ」
「拝見します」
ヤンは指でページをめくる。
名前と、年齢と、勤続年数。
欄の右端に、小さな記号が並んでいた。〇、△、×。
「この記号は」
ユリウスが低い声で聞いた。
「字が読めるかどうかだ。〇は、読み書き両方。△は、色札と簡単な数字。×は、色だけ」
「×が、何人」
「十一人中、七人」
ユリウスはしばらくページを見ている。
「ヤン様、この帳面の×の者たちは、どの荷を担当しておりますか」
「奥棚と、下棚だ」
「奥と、下」
「読まれにくい場所だ。前棚と上棚は、〇の三人で回している」
レンは卓に肘をついて、両手をゆっくり組んだ。
「ヤン様」
「ああ」
「読めない者を、奥に置くと、何が起きますか」
ヤンは片耳に手を当てた。
「事故は、奥で起きる。だが、奥は、客の目に入らんからな。事故は、起きていないことになる」
レンは組んだ手をゆっくり離した。
♦
ヤンの返事のあと、しばらく誰も口を開かない。
ユリウスが、地図ではなく、自分の湯呑みの縁を指で一度撫でた。
「ヤン様。これは、宿場の責任ではありません」
「商人らしいことを言いなさるな」
「ですが、本店の私の上司も、これと同じ構造で帳簿を組んでおりました。読めない者を奥へ。読める者を表へ。理由は、表側の数字を綺麗に見せるためです」
「綺麗にね」
「綺麗な数字の裏で、誰が怪我をしているかは、書類に出ません」
ヤンは立ち上がろうとして、また座り直す。
「俺は、トビの親父のことも知らんかった。十年いて、知らんかった。あの親父は、字が読めなかった。それも、知らんかった」
「ヤン様」
「言わんでくれ。今は、まだ、聞きたくない」
ヤンは片耳から手を離した。
離した手の指先がわずかに震えている。
♦
昼を過ぎた頃、ミナが宿の小部屋に駆け込んできた。
息を切らしている。
外套の裾に、湿った木のかけらがひとつ付いていた。
「ねえ、レン」
「うん」
「奥の倉庫のね、いちばん下の段、壁の板が、外れた」
「外れた?」
「ノルが触ったの。間違えて、寄りかかったみたいで」
ミナはもう一度息を吸って、続けた。
「壁の奥に、隠し棚が、ある。小さい棚。中に、薬箱がひとつ。湿ってる」
♦
奥倉庫の壁際に、四人が立っている。
レン、ミナ、ユリウス、そしてトビ。
ヤンは戸口にいた。中までは入ろうとしない。
ノルとピップは、宿の外、井戸の方へ、ミナが「水汲んできて」と頼んで、行かせていた。
壁の板は確かに外れている。
外れた板の奥に、人ひとり分の深さの隠し棚があった。
棚の上に、薬箱がひとつ置かれている。
湿っていた。
追放される前の遠征で見た、あの薬箱とよく似た湿り方だ。
手前に立つだけで、レンの胸の奥に、雨に濡れた木と、琥珀色の水の匂いが、ひとつ、戻ってきた。
箱の側面に、荷札がひとつ、紐で結ばれている。
紙の札だ。木札ではない。
レンはその紙札の裏を、指でそっと見た。
北東街道の検査印。
その上から、別の印が上書きされている。
検査が二度押されていた。一度押されたあと、誰かが上から潰したのだ。
ユリウスが低い声で言った。
「これは──ゴーシュの筆跡です」
「ゴーシュ」
「ヤン様の証言の、王都中央倉庫の下級荷役。私もかつて、一度だけ書類で見たことがあります」
♦
トビが、薬箱の蓋に手をかけた。
子供の小さな指が、湿った木の縁に触れる。
ミナが口を開いた。
「待って」
「うん」
トビは手を止めた。
止めて、レンの方を見上げる。
レンはしばらく、薬箱を見ていた。
それから首をゆっくり横に振る。
「──開けてください。トビが」
トビはふたつ息を吸って、ひとつゆっくり吐いた。
蓋に手をかけ直そうとした、その瞬間。
戸口の方から、声がした。
♦
井戸の方から戻ってきた、ノルの声だった。
「お姉ちゃん」
ミナが振り向いた。
「うん」
「あの。さっきの白い木片、まだ、持ってていい?」
「いいよ」
「あれ、字、書いてもらえる?」
「字」
「うん。俺の名前。ノル、って」
ミナは外套の内ポケットから、炭をひとつ取り出した。
ノルに炭を手渡す。
「自分で、書いてみる?」
「俺、読めない」
ノルは、はじめて、自分の口でその三文字を言った。
「読めない、けど、書いてみる」
炭を握る指先が震えていた。
震えながら、ノルは白い木片の上に、何かを書き始める。
薬箱の蓋は、まだ開いていなかった。




