第35話 空箱の山
南宿場の朝、最初に聞こえたのは、鐘の音だった。
昨夜は誰にも鳴らされなかった鐘が、今朝はひとつ鳴った。
澄んだ、けれど小さな音。
レンは宿の窓を開けた。
寒い空気が顔のまわりをゆっくり流れる。
広場の鐘の下に、十四歳の少年が立っている。
粗い布の手袋から、指先が二本はみ出ていた。
その指で、少年は鐘の紐をもう一度軽く引く。
ふたつ目の音は、もう少しだけ強い。
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井戸端で、ミナが少年と並んでいる。
ふたりとも桶を抱えている。
ミナの桶はまだ空。
少年の桶はすでに水が満ちて、彼の細い腕の中でわずかに揺れる。
「あんた、トビ?」
「うん。お姉ちゃん、ミナ?」
「うん」
ミナは札を首から外して、両手で持った。
「これ」
「ああ」
「街道伝令見習い、って書いてある」
「字、読めるの?」
「読めない。色は分かる」
トビは札の縁を指先でそっと撫でる。
その撫で方が丁寧だ。
扱い慣れない、けれど大事なものに触れる撫で方。
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レンが井戸端に来たとき、ふたりはすでに桶をひとつずつ持ち上げていた。
「お兄さん」
「はい」
「水、汲む?」
「いえ、見ていただけです」
トビは桶の縁から、レンの方へ片手を伸ばしてきた。
その小さな手が、レンの指の先に触れる。
「お兄さん、手、つめたいね」
「……そうですね」
「お父さん、最後の冬も、こうだった」
レンは、少年の小さな指先をしばらく見ている。
握り返すことはしなかった。
握り返してよい指かどうか、すぐには分からない。
少年は桶の取っ手を握り直して、宿の方へ歩き出す。
水を一度もこぼさず、運んでいく。
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宿の竈の前で、ヤン・コルテスは薪を割っていた。
白い湯気が土間の天井近くで、ゆっくり回っている。
燃え始めの薪の、青い匂い。
「ヤン様」
「ああ」
「昨日の倉庫の件で、もうひとつだけ」
ヤンは斧を下ろして、額を手の甲で拭った。
その手の甲にも、塩と墨の薄い染みがある。
「座れ。茶ぐらい出すから」
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奥の小部屋で、四人が向き合った。
レン、ミナ、ユリウス、ヤン。
卓の上には、欠けた陶器の湯呑みが四つ。
湯気は、湯呑みの縁からほんの少しだけ立っている。
「ヤン様」
ユリウスが低い声で言った。
「私も、ヴェルナー大商会の支店で十年、似たことをしておりました」
「……知ってる」
「ご存じでしたか」
「商人の上着の留め具で、なんとなく」
ユリウスは湯呑みを、両手でひとつ撫でる。
「私どもの呼び方では、あれは『空箱回し』と呼びます。中身を入れずに、箱だけを宿場のあいだで回す。帳簿の上では、荷が動いていることになる」
「うん」
「もうひとつ。『員数合わせ』。年に一度の数だけ、形を合わせる」
「うん」
「ヤン様の宿場の奥にある二十箱は、空箱回しと員数合わせの両方を担っております」
ヤンは湯呑みの縁に唇をつけた。
飲まなかった。
ただ、つけて離す。
「……俺が、積んだ」
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四人の間に、しばらく何も流れない。
竈の薪が、ぱちりとひとつ鳴った。
「俺が積んだ。十年だ」
「十年」
「最初は、年に二箱。次の年に、四箱。三年目から、十箱を超えた。今年で、二十箱になった」
「運んできたのは」
「ふたつの方角からだ。北方からと、北東からと」
「方角で、季節が違いますか」
「ああ。北方は、穀物の出る時期に合わせて来る。年に二度。秋の収穫直後と、春の雪解け直後」
「北東は」
「冬だ。冬のあいだだけ、来る」
「冬」
「ここ二、三年は、特にだ。雪が降る前に動き始めて、雪解けの前に消える」
レンは湯呑みを両手で持ち直した。
「ヤン様」
「ああ」
「中身を入れていない箱を運ぶのは、誰の指示でしたか」
「最初は、宿場の組合の話だった。三年目から、王都の名前で書状が来るようになった」
「書状」
「文面は、組合の話と同じだ。差出人の名前だけが、王都中央倉庫になった」
ヤンは湯呑みの縁にまた唇をつけて、また飲まなかった。
「俺は、書状の意味を深く考えなかった。考えると、続けられんからな」
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「ミナ」
「うん」
「昨日見た、底の赤い土」
「うん」
「もう一度、見にいけますか」
「行ける」
ミナは札を首にかけ直して、宿の奥へ走る。
戻ってきたミナの掌には、小さな土塊がふたつ乗っていた。
「ねえ、これ」
ミナは卓の上に、土塊をそっと置いた。
ふたつ並べると、よく分かる。
ひとつは、赤い。
もうひとつは、もう少し黒い。
「上の層は赤い土。でも、下の層は、もっと黒っぽい。違う宿場の泥が、ふたつ、重なってる」
ユリウスは身を屈めて、土塊を指で軽く崩した。
「……ふたつの宿場を、経由しております」
「ええ」
「同じ箱が、二度、別の場所から戻ってきている」
「ええ」
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「ヤン様」
「ああ」
「箱を受け取る側の名前を、お聞かせ願えますか」
ヤンはしばらく湯気を見ている。
「王都中央倉庫の、下級荷役。名前は──ゴーシュ」
「ゴーシュ」
「年に一度、数だけ書き写して帰る、と申し上げた人物です」
レンは湯呑みを卓に戻した。
「もう一度、伺います。北東街道から戻ってくる空箱は、いつ、出発しますか」
「夜明け前。昨夜の鐘の二つ前ぐらいに」
「鐘」
「ええ。鳴らされないことの多い鐘ですがね」
ヤンは片耳に手を添えた。
「最近また、空荷だけが、北東へ抜けていきます」
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四人の話が終わって、外へ出ると、すでに昼の光が宿場の屋根に当たっていた。
広場で、トビが箒を持って、平台のまわりを掃いている。
ミナがそちらへ歩いた。
ふたりは何かを話して、ふたりとも軽く笑う。
レンとユリウスは、宿の壁に背中を寄せて、しばらく立っていた。
「ヤン様の証言は」
「……書面では、まだ取れません」
「証人になられるなら」
「ご家族のことを、思います」
ユリウスはそれだけ言って、口を閉じた。
レンは井戸の方角を見ている。
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昼を過ぎたころ、トビがレンの方へ歩いてきた。
箒を抱えて、少し息を切らしている。
「お兄さん」
「はい」
「ひとつだけ、いい?」
「どうぞ」
「父さんの馬車も、行きは空で、帰りは空だった」
「……」
「俺、それ、ずっと、変だと思ってた」
「うん」
「父さんは、行きも帰りも、何も運んでなかった。なのに、家には、お給金だけは入ってた」
トビは箒の柄を、両手で握り直す。
その指先が、粗い手袋から二本はみ出ていた。
「お兄さんは、父さんがどこに行ったか、知ってる?」
「いえ」
「そう」
少年は頷いた。
頷いて、もう一度、広場の鐘の方へ歩いていく。
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日が傾く頃、宿の二階の部屋で、レンは板書を広げた。
ペンを手に取って、空欄に「あと三十六日」と書きかけた。
書きかけて、やめる。
書いてしまえば、ヤンの十年と、トビの父の名前の不在が、ただの一行になりそうだった。
ペンを置いて、板書を閉じた。
窓の外、宿場の鐘が、またひとつ鳴る。
今度の音は、少しだけ長く響いた。
その音を聞きながら、レンは自分の指先をふと見た。
昨日と同じ、わずかな冷たさが、まだ残っている。
気のせいかもしれない、と、もう一度自分に言い聞かせた。




