第34話 一番近い宿場が一番遠い
南宿場の朝は、馬の鼻息で始まった。
レンが宿の二階の窓を開けると、白い息が街道に立ちのぼっている。荷下ろし場の前に、すでに馬車が四台、縦に並んで止まっていた。御者は手綱を持ったまま動かず、馬は前足で土を掻いて、また止める。
時刻は、朝の鐘ひとつ目より少し前。
レンは指先で窓枠を撫でた。
窓枠は冷たい。
朝の冷気のせいだろう、と思う程度の冷たさだ。
ふと、昨夜の神官の言葉が頭をよぎる。
迷信、と返した自分の答えが、今朝はわずかに頼りなく聞こえた。
♦
ミナはまだ眠っていた。
レンは外套を羽織って、宿の階段を下りた。一階の土間で、ユリウスがすでに地図を広げている。
「お早いですね」
「馬車列の様子を、上から見ました」
「ええ。御者が動かないので、私も先ほどから見ています」
ユリウスは地図の上で、宿場の見取り図を指でなぞった。
「荷下ろし場は、ひとつ。その先で街道が二股になっています。北方街道の本線と、東中継所へ向かう枝道」
「呼び鐘は」
「ないようです。あるいは、誰も鳴らさない」
レンは外へ出た。
♦
荷下ろし場は、宿場の中央広場の一角にある。石を組んだ平台がひとつ、その手前に馬車を停められる枠が線で引かれている。
枠の線は、長い時間で半ば消えかけていた。
レンは平台の手前に立って、しばらく動かない。
馬車四台のうち、先頭の一台は荷を下ろしている。
二台目は、空の荷台のまま、なぜか平台の真横に停まっていた。
三台目と四台目は、荷を積んだまま、二台目の後ろで待っている。
平台の前の土には、轍が浅く残っている。朝霜の白が、轍の上に乗っていた。
踏み割られていない。今朝、最初の一台が来てから、誰も並びを直していない。
「ねえ、なんで待ってるの?」
ミナの声が後ろから聞こえてくる。
外套の襟を立てて、目をこすっていた。
「あの空の荷台が、邪魔をしている」
「動かせばいいじゃん」
「動かす人がいない。御者は自分の番が来るまで馬を離せない。宿場の係はいない。誰かが順番を呼ぶ役を、決めていない」
「決めればいいじゃん」
「決めれば、いい」
レンはそれきり、しばらく黙った。
ミナは札を懐から一度出して、手のひらに乗せる。
白木の上に、墨で書かれた文字。
街道伝令見習い ミナ。
ミナは札を、自分の前に掲げてみた。
三台目の御者が、その仕草を視界の端で捉える。
御者はわずかに姿勢を直した。
札一枚で、わずかに姿勢が変わる。
それをミナは自分の目で見た。
♦
宿場主のヤン・コルテスは、午後の鐘の前に、ようやくレンの前に座った。
五十代の、痩せて背の高い男。片耳に手を添えるくせがある。聞こえにくいらしい。前掛けには、塩と油と墨の染みが、層になって重なっている。
「都市補給官代理様、ご苦労さんで」
「ヤン様、伺いたいことがあります」
「あれな。馬車の並びだろう」
「ええ。それと、南方の塩のことも」
「南の塩? ありゃもう、三月入っとらん。アヴェルスの方で、何かあったらしい。詳しくは聞いとらんが、入ってこんもんは入ってこん」
「三月、ですか」
「三月だ。それも、昔からこうだ」
ヤンは、片耳に手を当てた。
「ありゃ、馬車の並びの方も、昔からああだ」
ヤンは、湯呑みに目を落とした。
「昔から、平台がひとつでね。誰かが順番を見るって話は、二十年前にも出た。出たが、決まらん。決まらんから、ああだ」
「順番を呼ぶ係を、今日だけ、置けますか」
「今日だけ、ならな」
「今日だけ、で」
ヤンはレンを見た。
それから自分の前掛けの染みを、指で一度撫でる。
古い塩の白が、指の腹に薄く付いて、すぐ落ちた。
「都市補給官代理様。あんた、悪い人じゃないのは分かる」
「はい」
「だが、係を置くのは、上に通さんといかん。リンドホルムの公爵様に通すならまだしも、王都に通したら、二年は返事が来ない」
「二年」
「俺は、それを二度やった」
ヤンは片耳から、手を離した。
レンは口を開きかけた。
「届かせれば、助かります」という言葉が、喉の真ん中まで来ている。
そこで止めた。
止めて、別の言葉に変える。
「では、今日の係は、私の連れの娘で。札を持っていますので」
「……ああ。それなら、宿場の決まりに触らん」
ヤンの顔が、わずかに緩む。
それは笑みではない。
ただ、肩の力の半分だけが抜けていた。
♦
午後の荷下ろし場で、ミナは札を首に掛けて、平台の脇に立った。
空荷の二台目を、別の場所へ動かすよう、御者に伝える。
三台目を、平台の正面へ呼ぶ。
四台目に、戻り便の出発時刻を、ミナが口頭で伝える。
ミナの声は小さい。けれど、御者たちは札を一度見てから、頷いた。
レンはユリウスと並んで、それを見ていた。
「四台で、半刻短縮ですね」
「ええ」
「明日からは、これを誰がやるか」
「ヤン様の言う通り、上に通さねば、続かない」
「続かないものを、今日、ひとつだけ、置きました」
「置きました」
ユリウスは地図に印を入れた。
南宿場、暫定整理、一日のみ。
書いて、線で囲って、保留にする。
♦
夕方近く、ユリウスが宿場主と裏の小部屋で長く話していた。
戻ってきたユリウスの上着の襟元で、銀の留め具が宿場の蝋燭の光を一度受ける。
「ヤン様が、保留印の話を、ひとつだけ聞かせてくれました」
「内容は」
「南宿場の倉庫の奥に、王都印の空箱がある。長く触っていないが、たまに数だけ数えに来る人間がいる」
「数えに来る」
「年に一度、王都補給局の下級荷役。中身を確認はしない。蓋を開けないで、数だけ書き写して帰る」
「中身は」
「ヤン様も、見ていない」
♦
宿場主の許可を取って、レンとミナとユリウスは、宿場の奥の倉庫へと入った。
扉は鍵がかかっていない。鍵穴はあるが、鍵そのものが、ない。
ヤンは「あそこは、見ても面白くねえ」と一度だけ言って、付いてはこなかった。
止められたから、見にいく。
倉庫の中は、湿った木の匂いがする。追放される前の遠征で嗅いだ、あの薬箱の湿りに、似ていなくもない。
奥の壁際に、王都印の入った木箱が二十ほど積まれている。
大きさは、塩樽より一回り大きい。素材は針葉樹。蓋には、王都中央倉庫の印。
印は、撫でるとわずかに薄かった。何度も別の墨で打ち直された跡だ。
レンは、一番上の箱に、手を伸ばした。
持ち上げる。
軽かった。
予想していたより、ずっと、軽かった。
次の一箱。
次の一箱。
すべて、同じ重さだった。
「全部、空、ですか」
ミナの声が、いつもよりひそやかだ。
レンは胸の奥で、《棚卸し》を控えめに回した。
これ以上、深くは回さない。
胸の奥で、表示がひとつだけ返ってくる。
南宿場、奥倉庫、王都印木箱二十、中身、未定義。
「なし」ではない。
「未定義」だ。
それは、《棚卸し》が読めなかった、ということではない。
最初から、何も入れずに帳簿に乗った箱、ということだった。
♦
倉庫の床に、レンは膝をついた。
箱の底に近い、土の上を指先でなぞる。
白い指先に、赤い土が薄く付く。
北方街道の土ではない。
北東方面の、鉄分の多い赤い土だ。
「ミナ」
「うん」
「この赤い土、覚えておいて」
「うん」
ミナは札をもう一度、両手で持ち直す。
札の文字を指でなぞって、外套のいちばん内側にしまった。
♦
倉庫を出ると、ヤン・コルテスが戸口の脇で待っていた。
彼は何も聞かない。何も言わない。
ただ、レンの顔を一度だけ見た。
その顔が今朝より、少しだけ白い。
「都市補給官代理様」
「はい」
「うちの宿場の下働きに、十四になる子がいる。名前は、トビ」
「はい」
「あの子が、今日、おたくの連れの娘さんに、聞いたそうで。あの札みたいなの、自分も貰えるかって」
「字は」
「読めん。色は分かる」
ヤンは、片耳に手を当てた。
「あの子の親父は、一年前、北東街道で、行方知れずになった」
レンは、ヤンの目を、見返した。
ヤンも、レンの目を、見返した。
何かを共有する目だった。
「リンドホルムに、倉庫学校というのがある、と聞きました」
「はい」
「来年、トビを、一度、行かせてもらえまいか」
「行けます」
「俺は、上に通せん。だが、子供をひとり、街道に出すぐらいなら、俺の決めごとだ」
「はい」
♦
宿の二階の部屋に戻って、レンは机に板書を広げた。
南宿場、平台ひとつ、係不在、半刻短縮可。
南宿場、奥倉庫、王都印木箱二十、中身未定義。
箱底、北東方面の赤土。
宿場下働き、トビ、十四歳、倉庫学校志願。
宿場主の息子、北東街道で一年前から行方不明。
書いてから、別の余白に、もう二行を、書いた。
崩壊まで、あと三十七日。
届かせれば助かる、と今日は言わなかった。
ペンを置いて、レンは窓の外を、しばらく見ていた。
宿場の夜は静かで、井戸の方角からも、もう、音はしなかった。
窓の外、宿場の鐘が、誰にも鳴らされないまま、夜気の中に、ただ、立っていた。




