第33話 都市補給官代理、最初の出張
ガルドが焼印を温めている。
共同倉庫の裏手、夜明け前の鍛冶炉。赤く熾った炭の上に、握り柄の長い鉄の焼印が一本、差し込まれていた。柄の先端には、リンドホルム共同倉庫の印が彫られている。
その隣に、白木の札が二十枚ほど積まれていた。新品の、まだ何も書かれていない、まっさらな木札。
「倉庫学校の最初の発注。荷札を、ここで作る」
ガルドはレンの方を見ずに言った。炉の前から動かない。
「規格札の試作です」
「ああ」
「色も焼印の位置も、まだ決めていません。今日のは、ただの試し焼き」
炉の中で炭がひとつ崩れ、火の粉が小さく舞った。
レンは頷いた。
昨夜、リンドホルム神殿の老神官に呼び止められた。
石畳の脇で、提灯ひとつ。神官はぼそりと言った。
「外れスキルは、持ち主から少しずつ取る、と申しまして。古い話に、そうあります」
「迷信、ですね」
「迷信のままなら、よいのですが」
神官はそれ以上を言わず、夜の街へ歩いていった。
レンもそれ以上を聞かなかった。
炉で焼ける焼印を見ながら、レンはその短い会話をもう一度だけ思い出す。
思い出してから、板書の余白には書かなかった。書くほどのことではない、と自分に言い聞かせる。
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領主館の執務室では、セリアがカルロス・ヴェインに向かって、二通目の照会状を差し出していた。
封蝋は青。リンドホルム公爵家の、保留扱いを示す色。
「これは」
「あなたの宿に戻られる前に、もう一通追加させていただきました。北方第三関所への通行許可と、関所長への面会要請です」
「私は王都へ戻る予定でしたが」
「お戻りいただいて結構です。ただ、お戻りになる前に、あなたが何をご覧になるかは、こちらで決めさせていただきます」
セリアの声は静かだ。
カルロスは封蝋を見て、それからセリアの目を見た。
「グランヴェル閣下、あなたの上に立つ方の名前を、いずれ伺います」
セリアは続けた。
「今は、伺いません。十日でその時間はありません。けれど、お忘れにならないでください。猶予十日のあいだ、あなたの背中にも、リンドホルムの目があります」
カルロスはしばらく封蝋を指で撫でている。
書記官の指が、規則の外側を一度撫でる動き。
「承知しました」
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出立は、朝の鐘ふたつ目。
共同倉庫の前に、二台の幌馬車が並んでいる。一台目に書類箱と乾燥薬草、二台目に水袋と保存食。御者はモリス商会の貸し馬丁。護衛は二人、いずれもリンドホルム公爵家の兵で、セリアが直々に選んで付けた者だ。うち一人は、若い頃に王都の厩舎で馬を見ていた経歴があるとも聞いている。
レンは胸元の古い荷札に、一度だけ触れた。
すぐに離した。
ミナが小走りに駆けてきた。回収班の上着の上に、新しい外套を羽織っている。袖が少し長い。
「あたし、市の外、初めて」
「うん」
「眠れなかった」
「俺もだ」
ミナがレンを見上げた。
「レンも?」
「眠れた時間が、いつもより短い、という意味で」
ミナは少しだけ笑った。
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ユリウスは荷馬車の脇に立って、地図を畳んでいた。
商人の上着の襟元で、薄い銀の留め具が朝の光を受けた。
「南宿場までは半日。東中継所まではさらに一日。北方第三関所までは、馬車で三日」
「日付は」
「順調にいけば、四日目の昼に関所」
「四日」
レンは指折り数えた。
猶予十日。
その奥に、もう一つの数字。王国補給網崩壊まで、推定で残り三十九日。
四日で関所に着き、関所で二日、戻りに四日。十日のうち八日は道の上にある計算だ。残りの二日で執務室に座って書類を作ることになる。
ただし、と胸の内で但し書きを付ける。
この計算は、南宿場がただの通り道であればの話だ。あそこで何か見つかれば、半日は半日で済まない。八日の道は、たやすく十日を食う。
「ぎりぎりですね」
「ぎりぎりです」
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ガルドが、倉庫から出てきた。
手のひらに、白木の札を二枚。さきほど焼印を押したばかりの、まだ少し熱を持ったやつ。
一枚をレンに差し出す。
「あんた用」
「ありがとうございます」
札の表には、共同倉庫の印と、墨で「都市補給官代理 レン・アスター」と書かれている。下に、小さく日付。
もう一枚を、ガルドはミナの方へ向けた。
けれど、すぐには渡さなかった。
札の表を、自分の指で一度撫でる。
「ミナ。これな」
「うん」
「見習い、の二字、要るか」
ガルドはレンの方を見ずに言った。炉の煤で、指先が黒くなっている。
ミナは札を見た。
札にはまだ何も書かれていない。墨も入っていない。これから書く文字を、ガルドはミナに先に選ばせようとしている。
ミナはしばらく黙っていた。
寒い朝の風が、外套の袖の中を吹き抜けていく。
「……要る」
「そうか」
「あたし、まだ、見習い」
「わかった」
ガルドは、札の上に、墨で書いた。
街道伝令見習い ミナ。
日付。
受け取ったミナは、札の文字を指でなぞる。
なぞって、もう一度なぞった。
「ありがとう」も「うん」も、出てこない。
ただ、札を両手で胸の前に持ち、外套のいちばん内側にしまった。
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馬車が動き出した。
御者の合図、馬の蹄、車輪が冬の街道を踏む音。リンドホルムの石畳から土の道に変わる、最初の段差。
その段差のすぐ脇に、古い里程石がひとつ立っている。表面が長い風雨で削れ、彫られた数字は半分しか読めない。レンは幌の隙間から、それに指を伸ばすことはしなかった。けれど、目だけが里程石を追う。胸元の古い荷札を撫でるときと、よく似た動きだ。
セリアは見送りに出てこない。
ただ、領主館の二階の窓に、薄い影がひとつ立っていた。
レンは振り返らなかった。
振り返ったのは、ミナだった。
ミナは二階の窓に向かって、小さく、外套の中の札を撫でる動きをした。
それが、見送られる側の、最初の返事。
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南宿場までの半日は、無言の時間が長かった。
幌の中、レンは膝の上で板書を広げ、街道地図に印を入れていく。
ユリウスは別の地図で、宿場ごとの荷役人数と荷下ろし場の数を確認している。
ミナは外套のいちばん内側に手を入れて、ときどき札を撫でていた。
馬車が一度大きく揺れたとき、ミナが小さな声で言った。
「ねえ、レン」
「うん」
「ユリウスのおじさん、商人やめたの?」
ユリウスが、地図から顔を上げた。
レンも、板書から顔を上げた。
ユリウスは答えに少し詰まった。
「やめてはおりません」
「でも、商会の悪い話、こっちにくれてる」
「商人のまま、別の場所に立っているだけです」
「別の場所」
「商売の中にいると見えない景色を、外から見るために」
「ふうん」
ミナは頷いた。
頷いてから、もう一度、札を撫でた。
ユリウスは地図に視線を戻した。けれど、ペン先がしばらく、紙の上で止まっていた。
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午後、レンは《棚卸し》を、もう一段、回した。
胸の奥で、表示が街道沿いに伸びていく感覚があった。
北方街道、南宿場、保留中扱い、塩樽十二、燃料瓶六。
北方街道、東中継所、保留中扱い、薬瓶四、保存食八。
北方街道、北方第三関所、保留中扱い、計上不能。
ここまでは、執務室で見たものと同じだった。
けれど、今日は、もう一筋が見えていた。
南宿場の手前で、街道が南に分岐している。地図の上では細い線として描かれた支道。その先で、《棚卸し》の表示が、見慣れない印を一瞬掠めた。
潮、と読めた。
潮の字の隣に、薄く、別の文字も添えられていた。
アヴェルス支線、と読めた。
南方の塩港、アヴェルス。直接知っているわけではない。リンドホルムに入る塩樽の出所として、ユリウスが何度か口にしていた地名だった。
次の瞬間、印は消えた。レンが触れていない場所は、長くは表示できない。
港湾区。
その三文字を、レンは板書の余白に小さく書いた。書いて、線で囲って、保留にした。
今日は、追わない。
追えない。
レンは《棚卸し》をそっと閉じた。
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南宿場に着いたのは、夕方の鐘ひとつ前だった。
宿場の主人が、馬車を見て、慌てて出てきた。リンドホルム公爵家の紋章の入った馬車は、ここに来るのは久しぶりだと言った。
「グランヴェル閣下のご使者で?」
「ええ。北方第三関所まで、街道確認に参ります」
主人は何度も頭を下げた。
頭を下げながら、視線がレンの後ろの幌馬車の方へ、ちらりと動いた。
ユリウスが、その視線を見ていた。
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その夜、宿場の主人とユリウスは、馬車の荷下ろしを見ながら、しばらく立ち話をしていた。
ユリウスが幌の中に戻ってきたとき、地図の余白に、新しい一行を書き足した。
「北東街道で、最近、知らない印の荷馬車が、何度か通ったそうです」
「いつから」
「ひと月ほど前から。空の馬車が一台、ときどき増えるそうです。空のまま北東へ抜けて、戻りはしない」
「戻りはしない」
「主人は、関所で空荷の確認をされたら困る商人がいるのだろう、と笑っていました」
レンは板書を見た。
北方街道、北方第三関所、計上不能。
南分岐、港湾区、保留。
そして、北東街道、不明、空荷。
三方向の線が、頭の中で交差した。
交差した先で何が起きているのか、まだ見えない。
ただ、見えないということだけが、見えていた。
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夜、宿場の小さな部屋。
ミナは外套を脱がず、板の床の上で横になっていた。札は、まだ外套のいちばん内側にある。撫でる手が、寝息に変わる直前まで動いていた。
ユリウスは別の部屋で、商会時代の知り合いに宛てた、短い私信を書いていた。
レンは部屋の机に板書を広げ、ペンの先で、街道地図の上を辿っていた。
窓の外、宿場の通りを、夜回りの提灯がひとつ、ゆっくりと通り過ぎていく。
北方第三関所、あと三日。
崩壊まで、あと三十八日。
レンは板書の余白に、出立の朝、ガルドが言った言葉を書いた。
鍵は俺が持つ。札はお前らが持っていけ。
その下に、もう一行。
札は、持っていくものでも、置いていくものでもない。
誰かに、渡すものだ。
書いてから、レンは机の上で、自分の指先をもう一度確かめた。
冷たかった。
夜の宿場の風の冷たさとは、違う温度だった。




