第18話 薬箱の底
ラト村の納屋は、臨時の治療所になっていた。
干し草を隅へ寄せ、古い戸板を台にし、村人が持ち寄った布で風を防いでいる。清潔とは言いがたい。だが、今ある中では一番ましな場所だった。
レンは納屋の中央に薬箱を並べさせた。
勇者遠征隊の残り。
ラト村の備蓄。
リンドホルム第一便。
今回の補給隊が運んできた分。
木箱は大きさも形も違う。荷札も揃っていない。湿った跡があるもの、角が割れたもの、紐が緩んだものもある。
エリナは緊張した顔で横に立っていた。
「全部、開けるのですか」
「全部確認します」
「開ければ、外気に触れます」
「確認しなければ、ある薬も使えません」
レンは最初の箱を開けた。
乾いた薬瓶。
口の緩んだ薬瓶。
底に湿気を吸った薬草。
変色した包み。
薬の匂いに、わずかに酸っぱい臭いが混じっている。
「これは分けます」
レンは納屋の床に荷札を置いた。
使える。
今夜中に使う。
乾燥し直す。
捨てる。
エリナが息を呑む。
「捨てるのですか」
「使えば悪化します」
「でも、薬です」
「薬は、薬の形をした毒になることがあります」
エリナは唇を噛んだ。
治療する者にとって、薬を捨てる判断は重いのだろう。レンも、その重さはわかる。幼い頃の自分なら、たとえ濡れていても、変色していても、薬と名のつくものにすがったかもしれない。
だが、すがることと助けることは違う。
「捨てる薬を使うと、助けられるはずの人まで悪くなります」
エリナは目を閉じた。
やがて、小さく頷く。
「わかりました。私が捨てます」
レンは彼女を見た。
「いいんですか」
「治療する私が、使わないと決めます。あなたにだけ背負わせることではありません」
その言葉は、レンにとって予想外に重かった。
一人で見なくてもいい。
そう言われた気がした。
作業は静かに進んだ。
エリナは薬瓶の口を確認し、匂いを嗅ぎ、レンの分類を板書に記録する。最初は手が震えていたが、次第に動きが安定していく。
ダリオは納屋の入口で黙って見ていた。
リゼットも文句を言わない。彼女は魔力温存用の水袋を手に、負傷者の様子を見ている。
アルヴィンは、使える薬と使えない薬の山をじっと見つめていた。
「俺たちは」
彼は低く言った。
「こんな状態で、進もうとしていたのか」
「はい」
レンは短く答えた。
慰める必要はない。
責める必要もない。
事実を見せればいい。
アルヴィンは反論しなかった。
すべての箱を開け終えるころ、納屋の床には四つの山ができていた。
使える治療薬。
今夜中に使うべき薬草。
乾燥し直す布と薬草。
捨てるもの。
エリナが板書を読み上げる。
「重傷者対応、二名分。軽傷者対応、十二名分。熱病対応、三名分。長期戦闘、不可。撤退支援、可能」
その最後の二つで、納屋の空気が変わった。
長期戦闘、不可。
撤退支援、可能。
レンは板書をアルヴィンへ差し出した。
「進めません」
ダリオが顔を上げる。
「魔物の拠点はすぐそこだぞ」
「進めば、勝っても帰れません」
辺境へ追われた日、ひとりで言った言葉に近かった。
だが今は、誰も笑わない。
リゼットが小さく舌打ちした。
「勝っても帰れないなら、勝ったことにならないじゃない」
「そうです」
レンが答えると、彼女は少し驚いた顔をした。
「嫌な答え」
「必要なので」
アルヴィンは板書を見つめた。
長い沈黙だった。
勇者として前へ進むべきか。
隊長として帰すべきか。
その二つが、彼の中でぶつかっているのがわかった。
やがて彼は言った。
「戻るべきか」
「戻るか、ラト村で短期防衛に切り替えるかです。少なくとも、北へ攻める選択肢はありません」
「俺が戻ると言えば、王都は臆病だと言うかもしれない」
「王都の評価では薬は増えません」
ダリオが思わず笑いかけ、すぐに口を押さえた。
アルヴィンも一瞬だけ苦い顔で笑った。
「本当に容赦がないな」
「よく怒られます」
「だろうな」
その短いやり取りのあと、アルヴィンは頷いた。
「わかった。進軍は中止する」
納屋の空気が、目に見えない形で緩んだ。
エリナはほっと息を吐き、リゼットは肩の力を抜いた。ダリオだけはまだ悔しそうだったが、反対はしなかった。
レンは息を吐きそうになり、こらえた。
まだ終わりではない。
戻ると決めても、戻れるとは限らない。
「次は撤退路です」
レンは言った。
「歩ける人、歩けない人、馬に乗せる人、荷車に乗せる人を分けます。ラト村に残す物資と持ち出す物資も分ける。村を空にしすぎると、次の補給拠点が消えます」
アルヴィンは頷いた。
「任せる」
「任せきりにはしないでください。勇者パーティーの判断も必要です」
「わかった」
エリナが板書を持ち直した。
「私も記録します」
レンは頷いた。
納屋の外で、魔物の遠吠えが聞こえた。
近い。
補給隊は、物資を届けただけでは終われない。
薬箱の底を見たあとに必要なのは、帰る道を作ることだった。




