第16話 勝ったはずの遠征
勇者アルヴィンは、ラト村の広場で地図を見下ろしていた。
羊皮紙の上には、北方街道が一本、黒い線で引かれている。
北へ進めば魔王軍の前哨拠点。
南へ戻ればリンドホルム。
西へ逃げれば森。
どの道も、昨日まではただの選択肢だった。
今は違う。
北へ進めば薬が足りない。
南へ戻れば魔王軍に背を向ける。
ラト村で待てば、村の備蓄を食いつぶす。
戦う前なら、アルヴィンは迷わなかった。前へ進む。敵を倒す。勝利を持ち帰る。それが勇者の役目だと、誰からも教えられてきた。
だが今、彼の前にあるのは敵の布陣ではない。
薬箱の残数。
飼葉の袋。
湿った清潔布。
村人たちの不安そうな目。
「勇者様」
村長が震える声で言った。
「飼葉の残りが、もう半日分ほどしか」
「わかっている」
アルヴィンは短く答えた。
わかっている。
その言葉を口にするたびに、胸の奥が重くなった。
本当にわかっているのか。
昨日までの自分は、何をわかっていたのか。
村の広場では、護衛兵たちが落ち着きなく立っていた。ラト村は小さな補給村だ。普段なら、街道を行く商隊が一晩休み、荷を積み替え、朝には出ていく。その程度の余裕しかない。
そこへ勇者遠征隊が足止めされた。
村の井戸には列ができ、納屋の干し草は急に減り、村人たちは自分たちの冬支度を心配し始めている。
勝った遠征隊が、村を圧迫している。
その事実が、アルヴィンには苦かった。
納屋の奥から、神官エリナの声がした。
「その布は駄目です。泥がついています」
「でも、もう乾いた布が」
「傷口には使えません」
アルヴィンは顔を上げた。
納屋へ向かうと、エリナが護衛兵の腕を押さえていた。兵の腕には浅い裂傷がある。命に関わる傷ではない。だが、清潔な布がなければ悪化する。
エリナの前には、布の山が二つあった。
使えるもの。
使えないもの。
使えない方が多い。
「洗えば使えるんじゃないか」
剣士ダリオが入口で言った。
エリナは首を振る。
「洗う水も足りません。煮沸する燃料もありません。洗っただけでは駄目です」
「布だぞ」
「布です。でも、傷に触れるなら薬と同じです」
ダリオは言い返せなかった。
以前なら、そこで誰かがレンを呼んだ。
どの箱に清潔布があるか。
どれが湿っていて、どれが乾いているか。
どの布を先に使い、どれを乾かし、どれを捨てるべきか。
誰も意識していなかっただけで、遠征隊にはいつも答える者がいた。
今はいない。
リゼットが納屋の柱にもたれ、苛立ったように杖を鳴らした。
「私の魔法で魔物を近づけなければ、怪我人も増えないでしょう」
「魔力は?」
アルヴィンが聞く。
リゼットは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……半分より少し上」
「温存しろ」
「わかっているわ」
彼女は顔を背けた。
誰もが少しずつ、強がりを失っている。
アルヴィンは納屋の隅の薬箱を見た。
瓶は少ない。
昨日までは、薬が何本あるかなど気にしたことがなかった。必要なときには出てきた。エリナが使い、レンが補充し、次の村でまた受け取る。
そういうものだと思っていた。
だが、物は勝手には出てこない。
誰かが数えていたのだ。
「勇者様!」
村の入口から声が上がった。
小型荷車が一台、村へ入ってきた。馬は疲れているが、荷台には布で包まれた箱が積まれている。リンドホルムの荷札が、朝の風に揺れていた。
伝令が叫ぶ。
「リンドホルムより救援第一便!」
エリナが駆け寄る。
荷車から清潔布、治療薬、乾燥薬草が降ろされた。量は多くない。むしろ、思ったより少ないと感じる者もいただろう。
だが、村の空気は一瞬で変わった。
「清潔布がある……」
エリナの声はかすれていた。
護衛兵の一人が、ほっと息を吐く。
村長は胸の前で手を組み、何度も頭を下げた。
アルヴィンは荷札を手に取った。
宛先、ラト村。
用途、北方遠征隊救援。
優先、医療。
差出人。
リンドホルム共同倉庫、仮補給担当、レン・アスター。
勇者パーティー補給係ではない。
その文字が、聖剣よりも重く胸に刺さった。
ダリオが隣に来た。
「レンのやつ、送ってきたのか」
「そうだ」
「戻ってくる気は」
ダリオはそこまで言って、言葉を止めた。
戻ってくる気があるなら、差出人にそうは書かない。
エリナは荷札の裏を読んでいた。
「使い方の指示があります。清潔布は重傷者優先。薬は全量を開けない。ラト村にも清潔布を二包残すこと。馬を休ませること。明朝まで進軍禁止」
リゼットが顔を上げる。
「進軍禁止? 何様なの」
だが、その声に以前ほどの勢いはなかった。
アルヴィンは荷札の裏に書かれた文字を見た。
物資は足りない。
足りないからこそ、使う順番を守れ。
レンの字だった。
アルヴィンはゆっくり息を吐く。
勇者として、戦う指示ならいくらでも出してきた。
前へ出ろ。
斬れ。
焼け。
守れ。
だが、使うな、残せ、休ませろ、という指示を受け入れることは、思った以上に難しかった。
それは、自分が止まることを認めることだった。
そして、自分の勝利が、誰かの補給に支えられていたことを認めることだった。
「指示に従う」
アルヴィンは言った。
ダリオが驚いた顔をする。
「本気か」
「本気だ」
「あいつの言うことを?」
「今、薬を届けたのはレンだ」
その一言で、誰も反論しなかった。
エリナはすぐに清潔布を分け始めた。村長は村用に残す二包を受け取り、何度も頭を下げる。護衛兵たちは荷車から飼葉を降ろし、馬に少しずつ与えた。
小さな荷だった。
遠征隊を救うには足りない。
勝利を保証するには、あまりに頼りない。
それでも、その荷が届いたことで、隊は半日だけ息を吹き返した。
アルヴィンは初めて、補給とは勝利の後始末ではなく、勝つ前から始まっている戦いなのだと知った。
勝ったはずの遠征は、補給係の指示で止まった。
そしてアルヴィンは、それが敗北ではなく、生きて帰るための最初の判断なのだと、ようやく理解し始めていた。
そのとき、村の北東で犬の遠吠えに似た声が長く尾を引いた。
犬ではない。
アルヴィンの背筋が一瞬、冷えた。




