第三十九話 芽生え
「もう、17時になったね。もうお客さんもいないし、そろそろ戻ろうか。」
「あぁ、そうだな。それにしても、茜の店は愛されているんだな。俺は病院で、患者さんの何を見てきたんだろう。こんなに笑った顔、久しぶりに見た気がする。外来だとさ、具合の悪い人ばかりだから、もちろん、笑顔を見ることは少ないんだけど、その後の患者さんの様子を想像することもしてこなかったから。なんだか、茜が羨ましく思って…、俺もいつかみんなを笑顔に出来る医者になりたいな…。」
「なに言っているの?もうなっているじゃない。先生、先生、ってみんな駆け寄ってくれているのが動かぬ証拠というか…。みんなから愛されていると思うよ。」
「そうだといいな…。」
健司は何か思うところがあるのかもしれない。その後の帰宅の車中は行きの賑やかさは消えていた。静かにそして、何を考えているのかわからない健司に茜は声を掛ける。
「健司君、何を考えているの?凄く思いつめた雰囲気だけど、話したらスッキリしない?」
「あぁ…そうだな…実はさ、実家に帰ってきたのは、少しでも医者である自分を忘れたくて、戻って来たんだ。だけど、年配の人たちを見ていると少しでも力になりたいと思ってついつい医者としてアドバイスしてしまって…、ハハハ、職業病だな。それに、大学病院では淡々と仕事をこなすだけで、患者さんの気持ちの部分を忘れていた気がする…。今回、戻ってきて、医者の在り方を深く考えさせられたな。」
「そうだったんだ。患者さんが多いと診察時間も限られるっていうし、それは仕方ないんじゃない?診察して、患者さんが元気になって病院に来なくなることが一番嬉しいことじゃん。でも、なんだか寂しいよね。元気な姿を見られるときなんかほとんどないもんね。」
「そうなんだ。元気な姿が見られないのは寂しいよ。まぁ、それが医者なんだけどな。」
茜は聞くことしか出来なかった。医者としての苦労は医者をしている者しかわからない。どんなに上辺だけで言葉を作っても核心には至らないのはわかっていた。
「健司君、ごめんね。もしかして、大学病院じゃなくて小さい町や村のお医者さんをしてみたらどうなの?この町みたいな。みんなも健司君が診てくれたら嬉しいだろうし。」
「ハハハ…、そうなったらいいけど、もし、やるにしても、準備が大変なんだ。俺には勇気がねぇよ。」
健司は少しだけ笑顔が戻って来た。しかし、心の深い所はまだ曇っている感じがしていた。健司は近くの山を眺め、エンジン音だけ響く車内で茜は静かにハンドルを握り返し、お店へと戻っていった。
「先生、お疲れ様。初めての移動販売はどうでした?」
声を掛けたのは店番をしていた森下だった。ちょうど、夜ご飯の準備をしていた。
「健司君、あとは私がやるからもう帰っても大丈夫だよ。疲れたでしょ?」
「体力的には問題ない。だけど、明日、戻るから少しぶらぶらしながら帰ろうと思っているんだ。茜、今日はありがとな。」
茜は健司を見送り、移動販売中に頼まれた買い物に向かっていった。
健司は花守町の山を散策しながら帰っていた。夕日が眩しく、もうすぐ日が落ちる。この自然いっぱいの花守町と別れる日が近付いていた。今日の移動販売での皆の笑顔が忘れられない。医者として、患者さんの事をちゃんと診てあげられているのだろうか、仕事としてマンネリになっていたのではないかと自分自身に問いかけていた。
(医者として、俺は何をやっていたんだろうな…。)
翌朝、健司が帰る時間がやってきた。花守町に帰ってきた同様、両親が車で送ってくれる。よろず屋にも最後の別れを言って、駅に向かう。一時間の車中で山々を見ながら、思い返すことは住人の笑顔だった。医者としての自分に自問自答しながら、静かに時を過ごしていた。
到着した健司は両親に別れを告げ、電車に乗り込んだ。朝日で緑の木々たちが美しく、太陽に照らされながら、健司を見送った。
(いつか俺も、ここに戻ってこられるだろうか…。立派な医者になって、帰ってきたいな…。)
健司は静かに窓の外を見つめていた。




