そうして別れのリングが架けられる
「なにも……、何もなかったように思います。
……、なんでしょう。仕事でちょっと挫折しました。
それで……、僕には何もないって気が付きました。
目の前にぶら下がった人参を求めて走る馬のように。走っても走っても。
やっぱり手元に人参なんて手に入ってないだなって」
「……うん」
『もみじさん』が短く応える。
その後の無言に僕は促される。でも何も無いのに何を話せばいいのだろう。
何も為せなかったこと。何も得なかったこと。
成長してなかったこと。走って走って、走ったけど何処にも辿り着けなかったこと。
道がわからなくなったこと。生きる意味を見失ったこと。
結局。
己を、己しか見なかったが故に己を見失ったこと。
数字は数字でしかなく、自分は数字以上でも以下でもなかった。
僕は何もない人間だった。
そんなことをただただ、僕は呟き続けた。
「昔からさ、危ういなって。大丈夫かなって心配だったんだ。
なんかね、橋の欄干の上を歩いてるようだなって。
そう思ってたんだ、俊くん」
名前を呼ばれて僕はやっと顔を上げ、『もみじさん』と目を合わせた。
涙で彼女の顔が歪み、表情は読み取れなかった。でも彼女の心だけは僕に降り注いでいた。
「自分を過小評価する癖、昔からあったよね。
でもさ、いつもなんだかちゃんと振舞ってた。明るくおちゃらけて。
そしてさ、ちゃんと周りのことを見てたじゃない」
「そんなこと……、そんな周りのことなんて」
「そうかな?
本当は周りに気にかけてたと思うよ? でもきっとどこかで諦めちゃったんじゃないかな? 人を信用して自分が傷つくことを。別れがくることを恐れていたんじゃないかな?」
わからない。自分は他者に期待なんてしていなかった。
感謝こそすれど、依存すればやがて自身がって。適正な距離感を保たないと結局自分がダメになるって。あぁ、結局は己だけだった。
距離を取る、一定の距離感を取って自分を保っていただけだった。
「だから……、なんでしょ?」
その一言で僕の中の何か、留めていた堰が切れた。
僕はそうだ。そんな自分を責め、罰し、償いを求めていた。
大人になればなるほど、先へと進めば進むほど。
僕を罰し、正し、導いてくれる人なんて現れなかった。
先輩? 上司? 友人? 恋人?
当たり前に僕という個に何かを求め、得られなければ僕を捨てる人々しか周りにはいなかった。それは僕がそういう人間だったのだから当たり前だ。
利用できるか、得るものがあるか。僕はそういう打算でしか人間関係を築いてこなかった。当然に僕の周りもそういう人間しかいなかった。
いや、そういう接し方だったからそういう接し方をされただけだったのか。
僕は僕自身を罰した。
無力で、得るものも無く、ただ走るだけの無目的な存在。
無自覚に人を傷つけ、罪を重ねることしかしてこなかった存在。
そんな自分を罰するために自傷に走った。
その痛みが僕を救う唯一だった。痛みが僕を正常にさせた。その血が僕に生きていることを教えた。
死にたかったわけじゃない。ただ自分を罰する何かが必要だった。
隠すも何も、『もみじさん』はそれを知っていてここに居るんだ。
いや、最初から僕がそういう人間だって知っていたのだろうか。
情けないな。
僕なんて所詮、自己否定でしか自己肯定できない人間なんだ。
「欄干の上からさ、
こっち側に転んだんだったら救ってあげられるって思ってた。
でも向こう側に落ちたらどうしよう? どうしたらいい?」
「……、」
「私の手が届かなかったら、ううん、
届かないんだよ? 向こう側には私の短い腕じゃ届かない」
「……、ごめんなさい。」
「ねぇ、俊くん?
謝ることでも、罪に感じることでもないんだよ?」
「……。」
「無力でもなんでもない。
得てるだとか得なかっただとか。そんなこと関係ない」
『もみじさん』が僕の手を取り立ち上がらせる。
「だからなんでしょ?
君は、君が思ってるほど強く無いの。
君が求める強さは遠く儚いことなの」
引き起こされ、立ち上がったまではいい。
でも僕は俯き『もみじさん』に視線を合わせられなかった。
「でもね? 人なんてそんなに強く無いんだよ。当たり前に。誰であっても。
それにね、」
そんな僕であっても彼女は言葉を注ぐ。
「人が弱いことは罪なんかじゃないんだよ。」
やっと面をあげて『もみじさん』を見るも、目に溜まった涙で歪んで彼女の表情がわからなかった。
涙を振り落とすように、決意するように強く目をつむる。
でも僕の揺らぎ続ける感情を定まらず、心を開く決心がつかなかった。目を開くことが出来なかった。
「死が現世と私達を別つ。
それは確かだし避けられない。生きているから。
でも心は別れない。別れたくない。ずっとずっとこの想いが在ったことは真実。それだけは変わらない。覆らない」
強く、優しく、柔らかく。
『もみじさん』が僕を包み込む。
「よかった。
君には直接、お別れの言葉が言える」
そして僕の指にリングが架けられる。




