注がれる柔らかな水の沁み込む先は
「僕から話す事なんて、僕のことなんて……」
僕の手元から手榴弾が取られたことはわかっていた。でもそれは、子供が危ないものを持ってるから取り上げた、みたいな優しい感覚だった。
僕は未だに顔を上げられない。うずくまりサナギの如く、ただ震えているだけ。
「何も……、何もなかったです。
仕事が忙しくて、働いて。ご飯食べて寝て。ずっと、何もなかったです」
「そう? そうなのかな?」
仕事は忙しかった。色々な人と出会い色々な地域に飛び、充実感とか充足感を感じていた。自己肯定感や自尊心。そういうものを仕事で得ていた。でもいつからか、肉体的な疲労感から精神的な疲労感へと徐々にウェートを変えていった。
「疲労」も一つの達成感、やりがいの証だった。それなのに、いつからか「俺」を蝕んでいたのかもしれない。
麻薬が快楽を与える代償に精神を蝕むように。骨を溶かしスカスカの形骸へと成すように。
我武者羅に、直向きに。
俺は全力疾走で走っていた。ついてこれない同僚や後輩は、言葉尻は柔らかく「あぁ、彼には荷が重いかもねぇ」と断じて切り捨てた。
俺は折れねぇ、俺は負けねぇ。勿論、俺の能力が高いと驕ってるわけじゃない。でも誰よりも努力し、誰よりも集中し、誰よりもやってる。その自信が俺を支えていた。
先輩や上司にも噛みついた。納得がいかないことは徹底的に攻めた。
そう、俺はずっと走って攻めて、トップを走り続けていた。
敗北、失敗、挫折。
そういうことが無かったわけじゃない。悔しくて悔しくて泣く日もあった。
吐くまで酒を飲み、ぐだをまき、夜の街に吠え。
それでもなお走り続けた。俺は折れねぇ、俺は負けねぇ。
プライベートでも同じだ。
自信があった。トップを走ってるという自信。そうは言っても仕事一辺倒だったわけじゃない。その自信はプライベートにも影響していた。自信満々、悠々自適、人生謳歌。
彼女なのか彼女じゃないのか。来るもの拒まず去るもの追わず。特段、恋愛で悩むことは無かった。誰か彼女か身近にいるのだから悩む必要は無かった。
極端に贅沢しなければ金に悩むことも無かった。
全能感。たぶんそれだ。
世界の中心とまで言わなくとも、俺は自分の人生の先頭を独走している気分だった。
結局、恋愛や友人関係、仕事上の付き合いでも「自分は自分、他人は他人」と、相手のことなど見ていなかった。理解している風を装っていた。
社内研修会、あぁ支社研修会の時だった。
本社から責任者として来ていた営業本部長。実質、俺らのトップ責任者。「叩き上げ」の人だとは聞いていた。過去の実績を聞いて尊敬し目標としていたのを思い出す。
研修会後の親睦会、いわゆる「社内接待」の場で俺は席を隣にしていた。
「君、あぁ本多君といったか。
どうだい? 本社で働いてみる気は無いか?」
本社への異動。それはつまり栄転だとかの比ではない。そこは修羅の場であろうが出世。いや、まだまだ先へと進むための新たなステージ。当然に本社勤務は目標だったが数年は先のことだろうと思っていた。
「是非、働かさせてください!」
即問即答。がしかし、不安が無いわけじゃない。それは「出来るか出来ないか」の不安じゃない。本当に現実なのかの不安だった。
酒の席だ。現実になるとは思えなかった。
だが直後に営業本部長がエリア統括マネージャーに話を振った。
「秋の本社研修会に彼を入れておけ、間に合うだろ?」
「はい、心得ました。」
短いやり取り。
半信半疑だった俺は、親睦会終了後に統括マネージャーの元へと走り寄った。俺から聞く前にマネージャーが耳打ちするようにそっと言った。
「確定と考えて問題ない。通達を待つように。」
その言葉に有頂天になったのを今でも覚えている。
来た! ついに来た! 俺はこの先のチケットを手にした!!
結果はどうだったのか。
その本社研修会のチケットを手に入れたのは他の支社のやつだった。
名前は聞いたことがある。営業成績が抜きん出た話は聞いていない。俺よりも年齢も入社歴も後輩の男。俺よりもはるかに格下。でも支社が違うのに名前だけはなぜか耳に入っていた。なぜか彼の名前は知っていた。
早い話、俺には自分の部署にも上司にも、当然に他の支社にも本社にも推してくれる人などいなかったのだ。仲間や助けてくれる人など居なかったのだ。むしろやっかみや妬み、いや自業自得か。
俺の本社移動に反対意見すらあったらしい。
そりゃそうだ、当然だ。一人で走り続けてきたのだから。
後から色々と政治的、パワーバランスな話は耳に入ってきたが、全てシャットアウトした。
今さらそれを聞いてなんになる? 俺にどうしろと? 慰め? 聞いたらこの敗北は勝利に変わるのか?
それを理解し受け入れたとて、俺にはもう先へと走る気力は無くなっていた。
自己否定 絶望感 虚無感 無気力
表向きは平静を装い、普通に過ごした。変わらず営業に走った。でも実際の俺は中身のスカスカなハリボテのようだった。
自分の中身はなにも無かった。
「なにも、なかったのかな?」
『もみじさん』の柔らかな声が再度注がれる。
枯れかけている鉢植えに、優しくジョウロで水を注ぐかのように。
諦めずに彼女は俺に水を注いでいく。




