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僕はこうしてつくられた  作者: rion_so_so


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エピソード9 ヒロコ(中編)大阪帰郷やで②


真夏の日差しに焼かれた新幹線が滑り込むように新大阪駅のホームに止まる。

ドアが開いた瞬間、ぶわっと押し寄せてきたのは、聞き慣れた喧騒と、逃げ場のない湿った熱気だった。


(……懐かしい大阪の匂い)


そう思おうとしたけれど、鼻腔をくすぐるのは東京とさほど変わらない、焦げたアスファルトと人混みの匂い。

「帰ってきた」という実感は、期待していたよりもずっと希薄だった。


私はそのまま地下鉄御堂筋線へと乗り換える。

赤いラインの車両、独特の加速音、車内に流れる関西弁のイントネーション。すべてがかつての私の「日常」だったはずなのに、網棚に置いたボストンバッグを見つめていると、自分だけがこの風景から浮いているような奇妙な感覚に襲われた。


電車を降り、心斎橋の階段を駆け上がる。

地上に出た瞬間、目に飛び込んできたのは、派手な看板と、エネルギッシュに街を闊歩する人々。ここでようやく、「ああ、大阪やな」という実感が、微かな重みを持って胸に落ちてきた。


けれど、あんなに大好きで、庭のように歩き回っていたこの街が、今はどこか遠い。

行き交う人々の中に、今の私を知っている人は誰もいない。

タカの部屋で過ごした時間、マキシ・プリーストの調べ、新幹線で流した涙……。それらを抱えたままこの街に立っている自分が、まるで場違いな**「異物」**のように思えてならなかった。


(……私、変わってしまったんかな)


東京という街に馴染んだのか、それとも、あっちに置いてきた「誰か」の影響が私を塗り替えてしまったのか。その答えは、まだ出ない。



実家へ向かう前に、私は大阪本社へと足を向けた。

本社へ入り、東京店の状況報告と、上司や同僚への挨拶を済ませる。


「おー、ヒロコ! 東京はどうや、標準語に染まってへんか?」


「そんなわけないでしょ。相変わらずですよ」


軽口を叩き、淀みなく仕事をこなす。

オフィスの中の私は、間違いなく「いつものヒロコ」を完璧に演じられていた。けれど、心のどこかでは、さっきまで聴いていたウォークマンの残響を追いかけている。


すべての挨拶を終え、本社の古びた回転ドアを抜けて外へ出た。

西日が心斎橋の筋をオレンジ色に染めている。


「……よし」


小さく独りごちて、私はボストンバッグを肩にかけ直した。

ようやくここからは、本格的な夏休みが始まる。

お母ちゃんの待つ家へ。そして、私が向き合わなければならない「もう一つの現実」へ。


大阪の熱い風が、私の頬を強引に撫でて通り過ぎていく。


本社での報告を終えた足で、私は紙袋を提げて近くの店舗へと向かった。心斎橋の喧騒を抜け、裏通りに入れば歩いて5分もかからない。古巣のみんなに東京土産を渡すためだ。


自動ドアが開くと、冷房の風とともに懐かしい声が響いた。


「あ、ヒロコさん! お久しぶりですやん!」


「元気やった? 相変わらず元気そうやね」


カウンター越しに顔を見せた後輩たちが、ぱっと表情を明るくする。東京の様子はどうですか、標準語になってませんか、と矢継ぎ早に飛んでくる質問に苦笑いしながら答えていると、店の奥から聞き慣れた高い声が聞こえてきた。


「おぉーっ、ヒロコさん! 私も東京連れてってくださいよ!」


ひょっこりと顔を出したのは、美穂子だった。相変わらず元気な奴だ。


「美穂子! あんた、なんか一段と頑張ってるみたいやん」


「はぁーい、バリバリ頑張ってますよ!」


軽口を叩き合いながら、私はふと思い立って言葉を繋いだ。ここにいる面々は、みんな「あいつ」のことも知っている。いつも美穂子と真子が話してたから。


「……あ、そういえば、たーくんも元気にしてたで」


その瞬間、店内の空気が一変した。美穂子が目を見開いて、身を乗り出してくる。


「!!?? はいっ??!! たーくん?? あのたーくん?なんでですか!?」


「あ、いや……向こうで偶然知り合ってな。たまに…ほんまたまーにやけど、ご飯食べたりするんよ」


心臓が少しだけ速く打つのを感じながら、私はさらりと嘘を混ぜた。

たまになんて嘘だ。同じ部屋で眠り、同じ朝を迎えているなんて、口が裂けても言えない。それはこの街において、あまりにも不都合な真実だから。


「マジっすか! たーくんと東京で! すごい縁ですねぇ」


美穂子は興奮気味に声を弾ませている。私の小さな嘘は、今のところうまくこの街の空気に溶け込んだようだった。


「そや、ヒロコさん。明日、久しぶりに真子マコとご飯食べるんですけど、一緒にどうですか? 真子も絶対喜びますよ!」


「真子? あいつ、今海外に行ってるんちゃうん?」


「お盆で一時帰国してるんですよ」


真子の名前を聞いて、私の顔も自然とほころんだ。昔うちでバイトしてたカワイイ後輩。

東京でたーくんと過ごす静かな夜もいいけれど、この大阪の湿った夜に、気心の知れたこの子達(チビ2人組)とはしゃぐのも悪くない。


「楽しみやな! ほな、明日。場所あとで連絡して」


「了解です! 楽しみにしてますね!」


店を出ると、夕暮れの心斎橋はさらに熱を帯びていた。

明日、真子や美穂子に会えば、私はもっと完璧に「大阪のヒロコ」に戻れるだろうか……



心斎橋の喧騒を背に、再び地下鉄の階段を下りる。

御堂筋線で梅田まで戻り、そこから阪急電車のホームへ向かった。


改札を抜け、視界に飛び込んできたのは、少し懐かしいあずき色の車両。

阪急宝塚線。一年半前、私が毎日当たり前のように使っていた通勤路だ。

ホームに漂う独特のオイルの匂いと、整然と並ぶ乗客たちの列。かつての私なら、その中に溶け込んで何も考えずに電車を待っていただろう。

けれど、ガタゴトと揺れる車内で窓の外を見つめながら、私はぼんやりと考えていた。


(……なんか、変わってしまったな、私)


流れる景色はあの日と何ひとつ変わらないのに、それを見つめる自分の内側だけが、ひどく作り変えられてしまったような気がする。東京での数ヶ月、たーくんの部屋で過ごした夜、嘘を重ねる自分。

見慣れた駅名を告げるアナウンスが、今の私には遠い異国の言葉のように響いた。



池田駅に降り立ち、歩き慣れた道を実家へと向かう。角を曲がれば見える、少し色褪せた屋根。

玄関の前で立ち止まり、私は一度深く呼吸を整えた。鏡を見なくてもわかる。今の私は「東京のヒロコ」の顔をしている。


「……よし」


頬の筋肉を上げ、明るい笑顔に切り替えて、引き戸を開けた。


「おかちゃーん、ただいまー! 晩御飯なにぃー?」


奥から顔を出した母は、私の顔を見るなり呆れたように笑った。


「あんた、帰ってくるなりそれ? ほかにもっと言うことあるやろ(笑)」


「ええやん、お腹空いてんねんもん」


いつもの母娘のやり取り。けれど、その温かさに触れた瞬間、胸の奥がギュッと締め付けられた。


「あんた元気やった?」


という母の優しい声が、今の私には痛い。

視界が急に熱くなり、涙が滲んでくるのを悟られないよう、私は慌てて視線を外した。


「……あ、荷物かたしてくるわ!」


逃げるように二階にある自分の部屋へ駆け込んだ。

ドアを閉め、静まり返った室内でようやく息をつく。


昔の私が好きだったマイケルジョーダンのポスター、読みかけだった本、実家に置き去りにしたままの「かつての私」の断片。

それらに囲まれていると、堰を切ったように涙が溢れてきた。

なんで泣いているのか、自分でも説明がつかない。大阪の彼への申し訳なさか、母への安心感なのか、それとも……


(たーくん……今、何してるかな)


ふいに浮かんだのは、東京に残してきたあいつの顔だった。

私はカバンから「拝借」してきたウォークマンを取り出した。


ヘッドホンを耳にあて、再生ボタンを押す。

流れてきたのは、優しく、包み込むようなマキシ・プリーストの歌声。

たーくんの部屋で何度も聴いた、あのメロウなレゲエのリズム。


あいつの匂いが、あいつの好んだ音が、私の耳元で囁いている。


「色々考えても、しゃあないな」


音楽が、ざわつく心をゆっくりと麻痺させていく。


私は着替えもせず、ベッドに倒れ込んだ。

マキシの声に守られるようにして、私はいつの間にか、深い眠りの中に落ちていった。



翌朝。池田の家の、自分の部屋。

窓から差し込む朝日は昨日と変わらず穏やかで、近所の犬の鳴き声が遠くに聞こえる。

私は枕元に置いた電話の子機を手にとり彼の番号を呼び出した。


東京へ行く前、私の日常の真ん中にいたはずの人。

呼び出し音が鳴るたび、心臓が小さく、嫌な音を立てて波打つ。


「……もしもし」


つながった彼の声は、記憶にあるよりもずっと低く、どこか湿り気を帯びていた。

かみ合わないリズム


「あ、ヒロコ? いつ帰ってきたん?」


「うん、昨日。……元気やった?」


いつもなら、もっと弾んだ会話が始まるはずだった。

仕事のこと、最近行ったお店のこと、たわいもない冗談。

けれど、受話器から伝わってくるのは、刺すような沈黙と、彼が何かを言いよどんでいる気配だった。


(……なんか、おかしい)


彼の様子が、明らかによそよそしい。

私の変化を察しているのか、それとも彼自身の中に別の風が吹いているのか。

私の心はすでに半分以上が東京の「たーくん」の部屋に置いてけぼりなのに、こうして彼と話していると、自分がひどく残酷な嘘をついているような、奇妙な罪悪感が足元から這い上がってくる。


「あのさ、明日は……会える?」


私が切り出すと、彼は一瞬の間を置いてから答えた。


「……ああ。夕方、梅田でええか」


「うん。わかった」


短い約束。

以前なら「やっと会えるな」と喜んでいたはずの約束が、今は**「果たさなければならない義務」**のように感じられた。


電話を切った後、私はしばらく受話器を握ったまま動けなかった。

明日の夕方、梅田。そこは、かつての私たちが愛を囁き合った場所であり、今の私が「かつての自分」に向き合うための戦場になる。


重い溜息をつき、私はカバンの中に眠るウォークマンに手を伸ばした。

まだ、マキシの優しい声に逃げ込んでいたい。けれど、胸の奥では激しいビートが鳴り響き始めていた。



夕暮れの梅田。阪急百貨店前のコンコースを抜け、私たちは湿り気を帯びた熱気のなか、いつもの居酒屋へと滑り込んだ。

暖簾をくぐると、そこには既にジョッキを前にした真子と美穂子が座っていた。


「真子! あんた、なんか一段とシュッとして……大人になったなぁ」


私の言葉に、真子は少し照れたように、でも自信のついた顔で笑い返した。


「ヒロコさん! お久しぶりです。相変わらず綺麗やな。東京どうですか」


「とりあえず、乾杯しよか!」


キンキンに冷えた生ビールがテーブルに届く。

重たいジョッキをぶつけ合い、喉を鳴らして流し込む。

都会の喧騒とビールの苦みが、ようやく「大阪に帰ってきた」という実感を運んできた。


プハァ、と息を吐き出した私に、真子が獲物を狙うような鋭い視線を向けた。


「……で、ヒロコさん。聞いたで。東京でたーくんと会うたって、それマジなん?」


その一言で、テーブルの空気が一変した。

美穂子も身を乗り出し、おしぼりを握りしめている。


二杯目のジョッキが空き、三杯目のサワーが運ばれてくる頃。

梅田の夜は深まり、私たちの頬もほんのりと赤みを帯びていた。

賑やかな店内の騒音さえも心地よいリズムに聞こえるけれど、私たちのテーブルだけは、ある一人の男の名前を中心に、妙に熱を帯びた磁場が発生していた。


「ヒロコさん、さっきから微妙に歯切れ悪いですよ!」


真子が氷をカランと鳴らし、ニヤリと笑う。


「絶対たーくんとなんかあったっしょ。隠したって無駄ですよ、うちらには分かんねんから」


「……。」


私が沈黙を守っていると、今度は美穂子が横から援護射撃を繰り出してきた。


「もうええやん、ぶっちゃけましょうよ。隠し事はナシ!」


「何言うてんの。美穂子こそ、あの時あやしかったやん」


「真子あんたこそ! 」


矛先があちこちへ飛び火し、女子会特有の「可愛い皮肉」が飛び交い始める。

彼女たちの勢いに、私は苦笑いするしかなかった。


「よし、こうなったら順番にぶっちゃけ大会や!」


軽く酔っ払った真子が力強く開会宣言。


「今夜は特別。何を聞いても、何を言っても、明日からは恨みっこなし。ええな?」


「ええで、望むところやわ」


美穂子も即座に乗っかる。二人は私の返事を待たず、勝手に盛り上がり始めた。

獲物を囲む猟師のような、あるいは秘密を共有する戦友のような、独特な一体感。


「……で、最後は当然、ヒロコさんですよ。逃がしませんよ?」


二人の真っ直ぐな、そして好奇心に満ちた視線が私に突き刺さる。

逃げ場はない。けれど、不思議と嫌な気はしなかった。

溜め込んでいた東京での日々に、誰かの手が触れようとしている。


「……わかった。ぶっちゃけるわ」


私は冷えたグラスの結露を指でなぞり、ゆっくりと口を開いた。


「……ほな、私から行くわ」


美穂子が覚悟を決めたように、一気にグラスを空けて口を開いた。


「実はな、私……一晩だけたーくんの家に泊まったことあんねん。正直、ちょっといけるかな思って迫ってみたんやけど。あいつ、笑いながらひらりとかわしよって。結局、何もなかってん!話聞いてくれて…ギュッてしてくれて…朝まで… ほんまそれだけ……。でもな、あの夜からなんか変わったんよ。頑張ろうって」


「はぁ!? 美穂子、そんなことあったん? 初めて聞いたわ!」


真子が目を丸くして身を乗り出す。美穂子は「自爆や、自爆!」と自嘲気味に笑いながら、悔しそうにナッツを口に放り込んだ。彼女にとってのタカは、手を伸ばしても掴みきれない、すばしっこい魚のような存在だったのだ。


「じゃあ、次は真子の番やな」


美穂子がニヤリと笑い、バトンを渡す。真子は少しだけ視線を落とし、それから挑発するように口角を上げた。


「……実はな、私は美穂子みたいに一晩やないねん。海外留学に行く前の一ヶ月間、たーくんの家に**『押しかけ同棲』**しててん」


「ええっ!? 一ヶ月!?」


今度は私と美穂子の声が重なった。居酒屋の喧騒のなか、私たちのテーブルだけが異様な熱を帯びる。


「毎朝一緒に起きて、一緒に寝て……。あいつ、マジ優しかった……」


真子はそう言うと、テーブルの上に置いた左腕をそっと差し出した。

その細い手首に巻かれていたのは、無骨な黒いケースに少し傷のついたサファリの腕時計。


「お守り替わりやって…あいつが……」


「それたーくんのやつやん! ほんま、たーくんも真子もずるいわ!!」


美穂子が悲鳴のような声を上げる。

それは、タカが心を開いた相手にだけ、無意識に、あるいは確信犯的に残していく「印」のようなもの。


私は、真子の腕で時を刻むその時計を黙って見つめていた。

それは、私が知らないタカの生活。私の知らない、若くて真っ直ぐな真子と過ごした濃厚な一ヶ月。

少しの嫉妬と、それ以上に「やっぱりあいつらしいな」という溜息が混じり合う。


私たちが知らないところで、あいつは着実に「誰か」の人生に深い爪痕を残し続けている。

そして、その話の端々に、私をざわつかせる**「トモヨ」**という名前がまた、影を落とし始めていた。



美穂子の玉砕と、真子の衝撃的な「押しかけ同棲」の告白。

二人の告白が終わると、居酒屋の湿った空気は一気に私の元へと集中した。


「……じゃあ最後、満を持してヒロコさん。あやしいな、その落ち着き方。ぶっちゃけてや!」


真子が獲物を追い詰めた猟師のような目で私を覗き込む。私は手元のグラスをじっと見つめ、一呼吸置いた。もう隠し通せるような空気ではないし、何より、彼女たちの潔い告白に答えねば…。


「……わかった。実はな、今、東京であいつの部屋に転がり込んでる」


静寂。それから、美穂子が「やっぱりな!」と膝を叩いた。


「ヒロコさんならやりかねんと思ってましたよ。あいつの懐に潜り込めるのは、結局そういうことなんや」


「でも、ウチはまだ諦めてないですからね(笑)! 東京まで追いかけに行きますよ」


真子が冗談めかして、けれど瞳の奥にガチな熱を宿して笑う。彼女たちのタカに対する「執着」は、ドロドロとした執念というより、もはや清々しいほどの「女の意地」だった。


そこからは、さらに話が深くなった。

二人は、私が大阪を離れていた時期、たーくんがどんな遊びに連れ出してくれていたか、どんな連中とつるんでいたかを地図を広げるように教えてくれた。


「あいつ、意外とあの頃は寂しがり屋で、誰かが呼べばどこでも顔出してましたよ」


「そうそう。でも、誰といてもどこか『ここじゃない感』出してて。それがまた女を惹きつけるんですけどね(笑)」


真子と美穂子が語るエピソードの中には、私が知らないタカの交友関係や、危うい人間模様が散りばめられていた。あいつがどんな風に大阪の街を泳ぎ、どんな連中に愛されていたのか。パズルのピースが埋まっていくたびに、私の知っている「たーくん」の像が、より立体的で、より手に負えない男へと書き換えられていく。


そして、二人の話の節々に、まるであの街の聖域のように現れる名前「トモヨ」。


「タカの人間関係を語るなら、結局はトモヨさんの話に戻るんですよ」


「そう、私らにとっても、そこだけは踏み込めない領域っていうか……」


真子と美穂子。これほどタカに深く関わってきた彼女たちでさえ、敬意と警戒を込めて呼ぶその名前。

東京で感じる「誰かの影」の正体が、この大阪の夜、より鮮明に、より巨大な壁となって私の前に立ちふさがった。


「……そっか。トモヨさん、な」


私は最後の一口のビールを飲み干した。



居酒屋を出た私たちは、火照った体を夜風にさらしながら、迷うことなく次の店へと向かった。

細い階段を上がった先にある、隠れ家のような**「さっさんのバー」**。美穂子のオススメ。


重い扉を開けると、カウンターの奥からマスターのさっさんが顔を上げた。


「お、美穂子か。久しぶりやな」


美穂子はかつて、たーくに連れられ訪れたこの店の常連になっているらしい。


「元気か? ……そういえば、タカはどうしてる。あいつ東京やろ」


その一言で、またしても空気が熱を帯びる。


「あいつなら今、東京で頑張ってますよ」


「女の子泣かせながら笑笑」


「あいつらしいな」


私たちの報告に、さっさんは目を細めて笑った。


このバーの止まり木にも、グラスの縁にも、タカが残していった何気ない会話や笑い声が染み付いている。私たちはグラスを傾けながら、夜が更けるのも忘れて「あいつ」の思い出話に花を咲かせた。



夜も更け、梅田の街が少しずつ静まり返る頃、私たちは店を後にした。

駅へと続く歩道橋の上、真子と美穂子が私の両肩を掴んで、真剣な眼差しを向けてきた。


「ヒロコさん、ええですか。あいつを離しちゃダメですよ」


「そうですよ。トモヨさんは……綺麗でかわいい…ほんとにいい人や。でも、ヒロコさんなら戦える。負けたらあかんで」


戦友ライバルたちからの、まさかの激励笑。

彼女たちがどれほどタカを想い、そしてどれほど「トモヨ」という存在を特別視しているかが、その言葉の重みから伝わってきた。


「……ありがとぉな。頑張ってみるわ」


二人の姿が改札に消えていくのを見送った後、私は一人、夜のホームに立ち尽くした。

胸の奥が、締め付けられるように熱い。


無性に、たーくんに会いたい。


明日、彼と会う約束をしている。自分をたしかめるために。

なのに、私の心はもう、東京の部屋へ、あいつの匂いの中へと駆け出していた。


私はカバンの中から、あいつから借りた(半分奪った)ウォークマンを取り出した。

これまで聴いていた、甘くて切ないマキシのCDを私のテーマ曲に変える。


ガンズ・アンド・ローゼズ。


再生ボタンを押し、ボリュームを限界まで上げる。

鼓膜を突き破るようなスラッシュのギターリフが、私の迷いも、感傷も、すべてをなぎ倒していく。


「……待っときや、たーくん」


甘い思い出に浸る時間は終わった。


トモヨという女の影に怯えるのも、もうやめる。


私は私





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