エピソード10 智代(中編)特派員レポート③
今日も透き通った鳥のさえずりで目を覚ます。
テントのジッパーを開け、外へ這い出した瞬間に肺を満たしたのは、驚くほど冷たく、瑞々しい空気だった。
「……寒っ」
思わず肩をすぼめる。下界は連日の猛暑だというのに、ここはまるで別世界だ。
キャンプ場の朝は、非現実的なほど清々しい。
まだ誰も起きていない静かな森を、一人でゆっくりと歩き始める。
昨夜、一人で飲み干したビールのほろ苦さを、冷たい霧が洗い流していくようだった。
湿った土の匂い、木々の呼吸。
なるほど。ボタン一つ、パスタの茹で加減一つに執着するあのタカが、この不自由で不便なキャンプという遊びにのめり込む理由が、少しだけ分かった気がした。
ここは、余計なノイズを削ぎ落として、自分だけの「こだわり」に没頭できる場所なのだ。
三十分ほど歩いてサイトに戻ると、朝霧の向こうに私たちの拠点が見えてきた。
周囲の風景に溶け込むような、深いモスグリーンのテント。
そのジッパーが内側から開き、タカが眠そうな顔をして出てきた。
無造作な髪、少し伸びた無精髭。
彼は私の姿を見つけると、軽く片手を上げた。
「……おはよ。早起きやな、智代」
「せやね。あんまり空気が気持ちよかったし」
返事をしながら、私は彼とテントを交互に見つめる。
昨夜、彼は誰の夢を見ていたのだろうか。
甘えてこず、抱きしめてもこなかった、あの「空白」の寝息。
朝日が木漏れ日となって、タカの肩を照らし始める。
私はまだ解けない霧の中にある違和感を、静かに、けれど確実に捉えていた。
テントから這い出してきたタカは、完全に寝ぼけていた。
髪には派手な寝癖がついていて、いつも涼しい顔をしているあいつにしては珍しく、無防備でどこか幼い。
「ぐっすり寝たわー、最高やな」
伸びをしながら笑うその顔は、まるで子供のようだ。その「かわいい」と思ってしまった自分に少し毒づきながら、私は火の準備を眺めていた。
タカは慣れた手つきで、年季の入ったシングルバーナーを組み立て始めた。
金属が擦れ合うカチカチという規則正しい音が、静かな森に響く。
「それ、物持ちええなあ。前にも見たことあるわ。かなり使い込んでるやろ」
「これ? オトンとオカンから譲り受けたやつやねん」
あいつは、そう言って少し照れくさそうに笑いながら、バーナーを愛おしそうに撫でた。
なにかとこだわりの強い「偏屈な完璧主義」の根底には、こういう古いものを大切にする、あいつなりの「誠実さ」があるのかもしれない。
使い込まれた道具に灯る、青い炎。それはどこか、あいつの血筋や歴史を物語っているようで、私には少し眩しく見えた。
シュンシュンと小気味よい音を立てるバーナーの上で、ベーコンが踊り、卵が弾ける。
香ばしい匂いが鼻をくすぐり、空腹を刺激した。
直火で焼いたパンに、淹れたての熱いコーヒー。
「……最高やな、これ」
一口飲んだコーヒーの苦みが、朝の冷えた体に染み渡っていく。
不自由なキャンプという場所で、あいつが丁寧に作り上げる「最高の朝食」。
淹れたてのコーヒーを啜りながら、私たちはテーブルに広げた『スーパーマップル』を覗き込んだ。
紙の地図特有のインクの匂いと、ページの反り。タカが指でページを繰るたび、まだ見ぬ土地の等高線が朝日に照らされる。
「なー、タカ。猪苗代湖って聞いたことあるな」
「あるな! 確か……」
「どこにあるん? 栃木の隣……福島か。あ、会津って書いてあるで」
私の指が指し示した青い湖の輪郭を見て、タカがニヤリと笑った。
「よし、決まりや。次はその湖を目指そう。そこでキャンプやな」
「適当」という名の自由!その場のノリで目的地が決まる。
予定調和な出張や仕事のスケジュールとは対極にある、この危ういまでの「適当さ」。
けれど、その軽やかさに身を任せるのが、今は心地よかった。
「よっしゃ、そうと決まれば撤収や!」
タカの号令で、私たちは再び慌ただしく動き出す。
存在感を放っていたモスグリーンのテントも、手際よく畳まれればコンパクトな塊に姿を変える。
あのバーナーも、熱が冷めるのを待って丁寧にケースに収められた。
すべての道具をテトリスのように車のトランクへ積み込み、私たちはキャンプ場を後にした。
車が北へ向かうにつれ、窓の外の景色はより深い緑に飲み込まれていく。
私は膝の上で『スーパーマップル』と睨めっこしながら、猪苗代湖周辺の文字を指で辿った。
「なー、タカ。喜多方って、あのラーメンの喜多方?」
「マジか! 喜多方近いんか。よし、昼は本物の喜多方ラーメンに決定やな」
あいつの食に対する瞬発力は相変わらずだ。「本物」という言葉に弱いのも、こだわりが強いタカらしい。
喜多方駅周辺に到着すると、タカは車を停めるなり、またしても「聞き込み」を始めた。
昨日の宇都宮での「偽東京弁」がよほど気に入ったのか、今日も少し浮いた標準語で通行人に声をかけている。
「……なるほど。**『坂内食堂』は王道の豚骨醤油で、肉がすごいと。で、『食堂はせ川』**は地元の人に人気で、煮干し系が絶品……か」
車に戻ってきたタカが、得たばかりの情報を整理する。
「どっちも捨てがたいな。よし、智代、せーのっで決めるで」
「ええよ、せーのっ!」
「「はせ川!!」」
私たちは顔を見合わせて大笑いし、そのまま煮干しの香りを求めて車を走らせた。
運ばれてきたラーメンは、透き通ったスープに縮れ麺が泳ぐ、芸術品のような一杯だった。
「……うまっ。もう一杯いけるな、これ」
タカが本気で替え玉を検討している笑笑
食後は、昭和の香りが色濃く残る銭湯へ。タイルの剥げた浴槽、黄色いケロリン桶。
湯船に浸かると、キャンプの汗と一緒に、日々のトゲトゲした感情まで溶け出していくような気がした。どこか懐かしく、温かい。
地元のスーパーで福島産の肉と新鮮な海鮮、それに地場産の野菜を買い込み、今夜の拠点となる猪苗代湖畔のキャンプ場へと滑り込んだ。
「……絶景やな」
目の前に広がる猪苗代湖は、夕日に照らされて銀色に輝いている。
テントを張り終える頃には、空は深い群青色に染まり始めていた。
「よし、開戦や」
炭が爆ぜる音を合図に、宴が始まる。
網の上でじゅうじゅうと音を立てる肉、殻のまま焼かれる帆立。
冷えたビールを喉に流し込みながら、私たちは湖を渡る風に身を任せた。
「タカ、今日ははせ川で正解やったな」
「やろ? 俺の聞き込みのおかげやな」
自慢げに笑うタカの顔を見ながら、私は焼き野菜を口に運んだ。
都会の喧騒からも、誰かの影からも、今は一番遠い場所にいるはずなのに。
湖面に映る月を見つめるタカの瞳が、ふとした瞬間にどこか遠くを見ているような気がして、私はそっとグラスを握り直した。
猪苗代湖の夜は、吸い込まれるような闇と、それを埋め尽くす満天の星に支配されていた。
焚き火の爆ぜる音が、湖畔の静寂にやけに大きく響く。
私は自分の椅子をタカの隣へ引き寄せ、その肩にそっと寄りかかった。
「……どしたん? 珍しいな、智代」
タカが少し驚いたように、けれど拒まずに呟く。
「……おかしいのは、タカのほうやろ」
「そうか?」
「そうや。私があんたを何年見てると思てんの。隠したって無駄やで」
沈黙が流れる。タカは手元のグラスを見つめたまま、しばらく動かなかった。
夜風が焚き火の煙を巻き上げ、星空を少しだけ濁らせる。
「…………誰か、ええ人おるんやろ。変わったもん、タカ」
私の問いに、タカは逃げるのをやめたようだった。
「そやな……」
彼は、ポツリポツリと話し始めた。東京で知り合ったヒロコという女のこと。
「付き合ってんの?」
「いや、付き合ってない」
「なんで?」
「たぶん……大阪に彼氏おると思うねん、あいつ」
タカの声は、どこか遠い。
「……で、タカはどうしたいん?」
「わからん」
「わからんってなんやねん。好きなんやろ?」
「大好きや。……智代と同じくらい」
冗談めかした口調ではない。真っ直ぐな、そして残酷なほどの本音だろう。
「……私の話はええって」
「だって、ほんまやもん。智代も、ヒロコも……みんな本気でタイプが違うし、本気で好きやねん。最低やって言われても、これは嘘やない」
「『みんな』って……他にもおるん? 名前は?」
私が詰め寄ると、タカは夜空を仰いで小さく息を吐いた。
「……ぷー」
「はぁ? ぷーって誰や。……呆れて物も言えんわ」
あまりに馬鹿げた名前に、こちらの毒気が抜かれてしまった。
けれど、タカは真剣な顔のまま、私を見つめ返した。
「でも、俺は嘘ついてへんで。……智代だって、彼氏おるやろ?」
心臓が跳ねた。
「……え……誰に聞いたん、それ」
「見てたらわかるわ。俺を誰やと思てんの」
詰めてやろうと思っていたのに、気づけば逆に詰められていた。
隠していたはずの私の「現実」も、この透き通った星空の下では筒抜けだったらしい。
けれど、タカはそれ以上何も追求しなかった。
私も、あいつの「ぷー」や「ヒロコ」について、それ以上聞くのをやめた。
私たちは二人とも、嘘をつけない性質のくせに、本当のことは誰にも言えないまま、迷子になっている。
私たちは、ただ寄り添ったまま、ずっと星を見上げていた。
お互いの体温だけが、この嘘だらけの逃避行の中で唯一信じられるリアリティだった。
翌朝も、森を震わせる鳥のさえずりが目覚まし代わりだった。
けれど、昨日と違うのは、私の体がタカの腕の中に収まっていること。
「智代、おはよ……」
耳元で響く、低くて少し掠れた寝起きの声。
タカが体を離そうとしたけれど、私は反射的にその腕をギュッと抱きしめ、離さなかった。自分でも驚く行動。
「……智代、なんか甘えん坊になったな」
「うるさい」
タカの胸に顔を埋め、あいつの匂いを吸い込む。
言葉にするのは野暮だ。でも、昨夜の星空の下での語り合いが、私たちの間にあった薄い膜を一枚剥がしてしまったようだった。
そのまま、どちらからともなく、私たちは朝の光の中で愛し合った。
昨日までの「特派員」としての冷めた観察眼なんて、熱い体温の前にどこかへ吹き飛んでしまった。
嵐のような時間が過ぎ、静かになったテントの中。
重なり合ったまま、私は天井のモスグリーンをぼんやりと見つめていた。
「なぁ、タカ」
「ん?」
「……ほんまの私はな、めっちゃ甘えん坊なんやで」
タカは少し笑って、私の髪を無造作に撫でた。
「知ってる」
「……知ってるんなら、なんで今まで甘えさせてくれへんかったん?」
ずっと胸に溜まっていた小さなトゲを、つい言葉にしてしまった。
タカは天井を見たまま、さらりと言った。
「ちゃうちゃう。智代が甘えてこんかっただけやろ」
「…………。なるほど。せやな。」
私は「自立した女」でいることに必死で、あいつに隙を見せるのを怖がっていただけなのかもしれない。
あいつのせいじゃない。私自身の意地が、私を不自由にしてたんだ。
「……いつ帰るん?」
タカが不意に、現実へと引き戻す質問を投げかけてきた。
「……明日の新幹線で帰る」
「わかった」
「……………………」
明日には、私は「智代」という個人の顔を捨てて、そして大阪の複雑な人間関係の中へ戻らなければならない。
でも、今はまだ、そのことを考えたくなかった。
私はあいつの腕の中で、わざと明るい声を出す。
「なぁなぁ、タカ」
「ん?」
「……今日はどこ行こ?(笑)」




