エピソード8 智代(中編)特派員レポート②
昨夜は、少し進化したタカに翻弄され、完全にペースを握られてしまった。
まるで知らない誰かと過ごしたような、あの感覚。今日からは浮足立つのはやめて、冷静に今の彼を観察し、理解することに努めよう。私は「特派員」なのだから笑。
タカよりも少し早めに起き、バスルームで鏡と向き合う。
湿気を含んだ東京の朝に負けないよう、丁寧にメイクを施した。準備を整えた頃、タカが眠そうな目をこすりながら起きてきて、無造作な手つきでコーヒーを淹れ始めた。
「……飲むか?」
「うん、もらうわ」
香ばしい豆の香りが部屋に広がる。タカは昔から、朝食は摂らずにコーヒーだけで済ませる派だ。
対する私は、しっかり食べる派。できれば炊きたての白米と味噌汁が欲しい和食党だけれど、タカの部屋の冷蔵庫は驚くほど空っぽだった。
生活感があるようでいて、肝心なところが欠落している。
誰かの影を必死に消した跡なのか、それとも単に男の一人暮らしの限界なのか。
結局、朝食は近くのコンビニで適当に済ませることにした。
二人で連れ立ってマンションを出る。
照りつける朝日を浴びながら、駅までの道を並んで歩いた。
「……なんか、こうしてると新婚さんみたいやな」
タカがふいにおどけた調子で、私の顔を覗き込んできた。
前にも聞いたことがある言葉。
「ないない、何言うてんの。そんなガラやないやろ」
冷たくあしらってみせたけれど、胸の奥がわずかに騒ぐのを止められなかった。
同じ部屋から出て、同じ駅へ向かい、同じ電車に揺られる。
満員電車の喧騒さえも、タカが隣にいるというだけで、どこか新鮮な「特別」に塗り替えられていく。
(……なんかアカンな、わたし)
冷静になろうと決めたはずなのに。
タカの肩が不意に触れるたび、私の決意は朝露のように脆く消えてしまいそうになる。
東京という街が彼を変えたのか、それとも私が彼を「変えてほしい」と願っているのか。
「特派員レポート」に書き記すべき真実は、まだ霧の中にある。
夕暮れの街で合流し、肩を並べて歩き出す。都会の喧騒も、今日ばかりはどこか軽やかに聞こえた。
「あー、やっと休みや。……智代、晩ご飯どーする?」
「休み前やし、どこも混んでそうやね。……家にする?」
「ええよ。じゃあスーパー寄って帰ろっか。ほな、今日は俺が作るわ」
「え、タカが?」
「トマトのパスタ。これ、マジで美味いから。研究中やねん」
「インスタントちゃうの?」
と笑いながら聞くと、彼は
「いやいや、マジなやつやって!」
と、ムキになって返してきた。その少年のままのような表情に、私は少しだけ毒気を抜かれる。
近所のスーパーで買い出しを済ませ、部屋に戻る。とりあえず缶ビールをプシュッと開けて乾杯。それが、私たちの「開戦」の合図だった。
タカはエプロンもせずにキッチンに立つと、手際よくニンニクを刻み始めた。
「……ちゃんと鷹の爪も入れるんや」
「当たり前やん。オリーブオイルで弱火でじっくり、香りを出すのがコツやねん」
フライパンから立ちのぼる、ニンニクの香ばしい匂い。
そういえば、タカは昔からそうだった。一度興味を持ったことには異常なまでの執着を見せ、納得がいくまで追求する。そんな彼の「凝り性」な一面が、今はパスタという形になって現れている。
ニンニクを炒める彼の背中を見ていると、ふと大阪での出来事を思い出した。
あれは、あいつがいつも着ている紺のブレザーの話だ。
ある日突然、社内内線で電話をかけてきたかと思えば、「ボタンが気に入らん」と言い出した。
「メタルのシルバーがいいねん。でもピカピカしてない、使い込んだようなやつ。智代、手に入れてくれへん?」
私はデザイナーであって、彼のスタイリストではない。それなのに、数日後には私のデスクの上に、ブレザーとそして**『付け替えといて』**という短いメモ書きが置かれていた。
「ほんま、厄介な男……」
独りごちながらも、結局私はそのボタンを手配し丁寧に縫い付けた。あの時、彼が理想通りのボタンを見て満足げに笑った顔を、今でもはっきりと覚えている。
テーブルに並んだのは、ツヤツヤと輝くトマトのパスタ、サラダ、スープ、そして軽く炙ったパン。最近のタカのお気に入りメニュー。
「……たしかに、うまいわ」
「やろ? けっこう研究してんから」
自慢げに笑うタカと一緒に、冷えたビールを流し込む。
凝り性で、わがままで、放っておけない。
大阪にいた頃から何も変わっていないような、でも少しだけ大人の階段を登ったような。
パスタを巻く彼の手元を見つめながら、私はこの「期間限定の日常」が、少しずつ私の心に深く沈み込んでいくのを感じていた。
パスタの余韻に浸りながら、私たちは冷えたビールの二缶目を開けた。
トマトの酸味とニンニクの香りが残る部屋で、話題は明日からの休暇へと移る。
「ほんで、明日からはどこ行くん? せっかくの連休やし、東京見物?」
「……いや、東京は出ようと思ってる」
タカは、最後の一口のパスタを口に運び、飲み込んでからあっさりと答えた。
「え、東京住んでるのにもったいないやん」
「住んでるからこそ、おもんないねん。智代かて、仕事で年に何回も東京来るやろ? 今さら原宿や渋谷回っても、人混みに酔うだけや」
確かに、彼の言う通りだ。仕事の延長線上にある東京の景色を眺めても、「休み」という実感は湧かないかもしれない。タカは少し悪戯っぽく目を細め、グラスに残ったビールを飲み干した。
「やから、今回は北へ行く。適当に走りながら、ええ場所見つけてキャンプや」
「キャンプ!? あんた、そんな装備持ってたん?」
「焚き火の火を眺めながら酒飲むの、最高やぞ」
出た。彼の「凝り性」が、今はアウトドアに向いているらしい。
行き先も決めず、その時の気分で走る。綿密なスケジュールを立てるタイプではないけれど、その「適当さ」がタカという男の持つ不思議な軽やかさであり、同時に人を惹きつける危うさでもある。
「……ほんま、あんたらしい適当なプランやな」
「やろ? でも、その方がおもろいやん。予想外の景色に出会えるかもしれんし」
呆れながらも、私の胸の奥には小さな高揚感が生まれていた。
レールの上を走るような毎日から、少しだけ外れた場所へ連れて行ってくれる。彼と一緒にいると、そんな「根拠のない期待」を抱いてしまう。
「よし、決まりや。さっそく準備して車に積み込むで!」
そう言うや否や、タカは椅子から立ち上がった。一度スイッチが入ると、もう誰も止められない。
クローゼットの奥からテントやシュラフ、無骨なデザインのランタンが次々と運び出されてくる。ボタン一つにこだわったあの頃と同じ、一切の妥協がない道具たち。
「智代、そっちのバッグ、玄関まで運んでくれる?」
「はいはい。力仕事は私やな」
狭いワンルームに、キャンプ道具のナイロンの擦れる音が響く。真夜中の静かなマンションで、私たちは修学旅行前夜の子供のように、慌ただしく、けれど楽しげに荷物を車へと運び込んだ。
「特派員」としての冷静な観察眼なんて、もうどこかへ吹き飛んでいた。
暗い駐車場に停まった車のトランクを閉め、タカが鍵を回す音を聞きながら、私はただ明日から始まる「北への逃避行」に身を任せてみようと思っていた。
翌朝、私たちはまだ街が深い眠りについている時間に目を覚ました。
重い体を引きずり、マンションを後にする。向かう先は、国道沿いのマクドナルドだ。
「……マックモーニング、久しぶりやな」
「朝はこれくらいガツン胃に入れとかんと、東北道は攻略できへんで」
車内に広がるソーセージマフィンのジャンクな香りと、熱いコーヒー。
私たちはそれを交互に口に運びながら、車を高速道路へと滑り込ませた。
都会の灰色のビル群が次第に遠ざかり、視界が開けていく。初めて見る北へと続く風景を眺めながら、私たちはのんびりと、他愛もない話を重ねていた。
車内の空気を震わせたのは、カセットデッキから流れてきた激しいギターのリフだった。
これまでのタカのイメージにはなかった、剥き出しのロック。
「……? なぁ、これ誰の曲? なんか、ええ感じやん」
私が尋ねると、タカはハンドルを軽く叩きながら、少し自慢げに答えた。
「ガンズ・アンド・ローゼズやで。ええ感じやろ、この枯れた感じ」
「へぇ……ガンズか。ええやん」
口ではそう答えながら、私の「特派員センサー」が静かに、けれど鋭く反応した。
(あやしい発見……)
私が知っている大阪時代のタカは、レゲエばかり、あるいはもっと穏やかな音楽を好んでいたはずだ。
こんな、汗と埃の匂いがするような骨太の洋楽ロック……あやしい。
(いつから?誰の影響?)
少なくとも、タカが一人で開拓した趣味とは思えない。この選曲のセンス、あるいはこのカセットテープの「出どころ」には、間違いなく**「新しい誰か」の影**が潜んでいる。
東北道を北上し、私たちは蓮田サービスエリアで一息つくことにした。
自販機で買ったアイスコーヒーのプラスチックカップが、夏の熱気ですぐに汗をかき始める。
タカがダッシュボードから取り出したのは、使い込まれて四隅がボロボロになった**『スーパーマップル』**だった。
「……なぁ、宇都宮ってなんかあったっけ?」
「餃子やな。宇都宮と言えば餃子や」
「ええな、餃子。ほな、昼は宇都宮で餃子食べて、その近辺でキャンプ場探そか」
目的地をその場のノリで決める。この「行き当たりばったり」な感覚が、いかにもタカらしい。
高速を降り宇都宮駅周辺に到着したものの、右も左もわからない。
するとタカは、車を停めるなり、歩道を歩いていた地元のカップルにひょいと声をかけた。
「こんちはー。すいませーん、僕ら東京から来たんすけど、この辺で一番旨い餃子ってどこっすか?」
私は助手席で、吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
……何が「東京から来たんすけど」やねん。
イントネーションが絶妙に浮いている。無理に標準語を操ろうとして、語尾だけが妙に「東京人」を装っているその姿は、大阪時代を知る私からすれば、滑稽で、それでいてどこか愛らしかった。
「あ、それなら『みんみん』か『香蘭』がお勧めですよ」
親切な地元の人にそう教えられると、タカは食い気味に答えた。
「マジっすか! 行ってきます、今すぐ!!」
お勧め通り、私たちは**『香蘭』**の暖簾をくぐった。
店内は、焼き上がる餃子の香ばしい匂いと、ハフハフと熱さを堪える客たちの熱気でギュウギュウに詰まっている。
「焼き餃子二人前と、水餃子一人前。あとライス二つ!」
威勢よく注文したタカ。運ばれてきたのは、見事な焼き色のついた黄金色の羽根つき餃子。
まずは何もつけずに一口。パリッとした皮の中から、野菜の甘みと肉汁が溢れ出す。
「……うまっ! 何これ、反則やろ」
「ほんまや……お勧め通りやね、ここ」
水餃子のツルンとした喉越しもたまらない。
お互いに無言で、夢中で箸を動かす。
タカの鼻頭には汗が浮かび、口の端には少しだけ油がついている。
偽りの東京弁を話していたさっきの男はどこへやら、そこにはただ、旨いものに目を輝かせる「私の知っているタカ」がいた。
お腹も心も満たされ、私たちは次なる目的地――今夜の宿となるキャンプ場へと、再び車を走らせた。
スーパーで肉と野菜、それによく冷えた缶ビールを買い込み、宇都宮郊外の**『アルプスの森キャンプ場』**へと滑り込んだ。
8月の午後の太陽は容赦ない。二人で息を合わせ、汗だくになりながらテントを張り、テーブルと椅子を広げる。
「とりあえず……ビール行きたいけど、先にシャワー浴びよ。このままやとベタベタで死ぬわ」
コインシャワーの冷たい水で汗を流し、ようやく人心地がついたところで、待望の瞬間が訪れた。
「……乾杯」
「ぷはぁーっ! 生き返るわ……」
夕暮れの森に響く、プルタブを開ける音。
傍らではタカが手際よく炭をおこし、網の上で肉がじゅうじゅうと音を立て始める。
「それにしても、さっきの餃子。マジで反則級の旨さやったな」
「やろ? あのパリパリ感は家では出せへんわ」
焼き上がった肉をつまみにビールを流し込みながら、話題は尽きない。
今の東京での仕事の話。
これからどこへ向かおうかという明日の予定。
そして、ふとした拍子に溢れ出す、懐かしい仲間との思い出。
見上げれば、都会では決して拝めない満天の星空が広がっていた。
焚き火の爆ぜる音を聞きながら、私たちは大阪にいた頃のように、ただの「タカと智代」に戻って笑い合っていた。
「……そろそろ寝よか」
「せやな。明日はまた早起きやし」
ランタンの火を落とし、私たちは狭いテントの中へと這い入った。
シュラフ(寝袋)が擦れるカサカサという音。外では虫の声が静かに響いている。
いつもなら、ここからが「タカの時間」のはずだった。
寂しがり屋で、誰かと触れていないと落ち着かない男。
暗闇に紛れて甘えてきたり、強引に抱きしめてきたり、しつこいくらいにひっついてくる。それが私の知っている、厄介で愛おしいタカだったのに。
「……おやすみ、智代」
タカはそう短く言うと、とっとと自分のシュラフに丸まり、ものの数分で規則正しい寝息を立て始めた。
(…ん?…あ? あれ?)
抱きしめてもこない。ひっついてもこない。
どころか、私の存在を忘れたかのように、満足げに深い眠りに落ちている。
(あやしい発見……)
私は寝袋からそっと抜け出し、テントの外で最後の一本のビールを開けた。
隣で眠る男の寝顔を眺めながら、独りごちる。
「……ま、ええか。今日はよぉ動いたしな」
タカの心の中にできた、私には見えない「空白」。
それが何で埋まっているのか、今はまだ、問い詰める時期ではないのかもしれない。
見上げれば、天の川が白く輝き、夏の星座たちが競うように光を放っている。
明日はどこへ行こうか、タカ。
私は冷えたビールを喉に流し込み、静かに夜の底へと沈んでいった。




