エピソード7 ヒロコ(中編)大阪帰郷やで①
7月の肌にまとわりつくような湿り気を帯びた熱い夜。
窓の外では、街の喧騒が湿った空気にこもって遠く低く響いている。
私たちは、たーくんの部屋で冷房の規則的な稼働音だけをBGMに、言葉もなくダラダラとした時間を共有していた。
設定温度を少し下げたエアコンからは、時折「パキッ」と乾燥したプラスチックが鳴る音がして、それがかえって部屋の静けさを際立たせている。
私はたーくんに体を預け、彼の腕の温度をじんわりと感じながら、読みかけの雑誌をパラパラと捲っていた。たーくんはといえばテレビの音を消したまま、ただ流れる映像をぼんやりと眺めながら私の髪の毛をいじっている。
そんな、何者にも邪魔されないはずの、私たちの「聖域」のような時間。
ふいに、テーブルの上でたーくんのポケベルが鳴った。
液晶を覗き込んだたーくんの動きが、一瞬だけ止まる。
「電話せんでえーの? 私、ベランダに出よか?」
あえて茶化すように聞いてみる。
「なんで外に出んねん……ちょっと電話するわ」
たーくんはそのまま、電話の受話器を取り、折り返しの番号をプッシュした。
「……おぅ、智代か。……お疲れ」
目の前で繰り広げられる、親密そうなやり取り。
聞こえてくるのは「トモヨ」という女性の名前。
(女だ……)
漏れ聞こえる声は、どこか懐かしそうで、でも甘えているような、不思議な響きを持っていた。夏休みの予定か何かの話だろうか。仲は良さそうだけれど、今の私たちが持っているような「男女の熱」とは少し種類が違う気がした。
誰だろう。気になるけれど、追求はできない。それが私たちの間の「タブー」だから。
短い電話が切られ、受話器が置かれる。やはり何でもなかったのかな……。
私はたーくんにもたれかかりながら、探るように声をかけた。
「……お友達かな?」
「あー、学生時代からの友人で、会社も同じやねん。あっちは神戸の本社勤務で部署も違うから、こっちに来てからはほぼ会わんけどな」
「ふーん……」
本当だろうか。そんな疑念を振り払うように、私は話題を変えた。
「なー、たーくん。夏休みはどうするん?」
「俺は東京でのんびりするわ。ヒロコは?」
「私は大阪に帰って、お母ちゃんのご飯食べてくる」
「ええなぁ、おふくろの味か」
「……たーくんも、一緒に来る?」
冗談のつもりだった。けれど、たーくんは私の目を見つめてニヤッと笑い、静かに言い放った。
「……困るくせに」
「…………」
心臓が跳ねた。鋭い。
大阪には、私を待っている「彼」がいる。たーくんがそれを見抜いているのか、それともただの勘なのか。私は慌てて平静を装い、話を無理やり着地させる。
「……困らへんわ。何言うてんの。……私、9日の昼の新幹線で帰るから、8日はたーくんの家に泊まるな」
「うん」
「9日、見送り来てくれる?」
「そやな。仕事サボって見送り行くわ」
「ヒロコがいなくて寂しい?」
「はいはい、寂しいですよ」
いつもの軽口。
「私がいない間に浮気すんなよ」
本当はそう言いたかった。けれど、それは絶対に言えない。それを口にすれば、私が大阪で彼に会うことへの後ろめたさまで暴かれてしまいそうで。
そんなたわいのない話をしながら、私は今日もたーくんの腕の中で眠りにつく。
8月9日。大阪へ帰れば、私は「あっちの日常」に戻らなければならない。
たーくんの心臓の音を聞きながら、私は迫りくる帰省の日を、楽しみなような、逃げ出したいような複雑な気持ちで待っていた。
8月8日の夜、たーくんはなぜか急に思い立ったように、部屋の隅に積み上げられたままだった段ボールを一つずつ開け始めた。
「あんなに頑なに開けへんかったのに、どうしたん?」
「……いや、なんとなくな。このままやと、いつまでも東京の人間になれん気がして」
私は笑いながらその作業を手伝った。
ガムテープを剥がす乾いた音が、静かな部屋に響く。中から出てきたのは、冬物の服や少し埃を被った本。そして一冊の古いアルバム。
「うわ、見て! たーくん、めっちゃ可愛い!」
ページをめくると、そこには面影のある少年の姿があった。無邪気に笑う子供の頃のたーくん。
「オレめっちゃワワイイやろ」
照れくさそうに頭をかく彼。でも、私はそのアルバムを指先でなぞりながら、彼が歩んできた時間をほんの少しだけ共有できたような気がして、胸の奥が温かくなった。
そのままの流れで、私たちは部屋を徹底的に掃除した。
散らばっていた書類をまとめ、棚を拭き、窓を開けて東京の夜気を取り込む。段ボールが片付いていくたびに、この無機質なワンルームが、少しずつ「たーくんの家」から「私たちの居場所」に変わっていくような錯覚に陥った。
ひとしきり動いて汗ばんだ肌をシャワーで流した後、私たちは吸い寄せられるようにベッドへ潜り込んだ。整えられたばかりの清潔な部屋で、確かめ合うように、何度も、何度も愛し合った。
明日から離ればなれになることを、お互いの体温で打ち消そうとするみたいに。
翌朝。
カーテンの隙間からもれる真夏の光の中で、私は目を覚ました。
いつものように鏡の前でネクタイを締めるたーくんの後ろ姿を、ベッドの中からぼんやり眺める。
「あとで東京駅でな」
「うん、待ってるな」
ドアが閉まる瞬間の、カチャリという乾いた音。
その後の一人の部屋は、驚くほど静まり返っていた。
ついさっきまで隣にいた人の体温が消えた空間は、急に広く、そして冷房が追いつかないほど余計に暑く感じられた。
部屋を見渡すと、昨日一緒に片付けた段ボール、テーブルに残された使いかけのマグカップ、タオルの匂い。
その一つ一つが、ここが私の居場所ではないこと、私はあくまで「仮初めの同居人」に過ぎないことを突きつけてくるようで、急に胸が苦しくなった。
私は逃げるようにシャワーを浴びメイクを整え、自分の荷物をまとめ、名残惜しさを振り切って部屋をでる。
昼過ぎ。
真夏の太陽が線路のバラストを熱し、陽炎が立ちのぼる東京駅のホーム。
帰省客の大きな荷物と、汗を拭いながら歩くビジネスマンが入り乱れる喧騒の中、私はたーくんを待っていた。
約束の時間より少し前、人混みの向こうからスーツ姿のたーくんが、少し息を切らして現れた。仕事の合間を縫って駆けつけてくれたのが、その乱れた髪と、首元の緩んだネクタイでわかった。
「昼飯、食べたか?」
「ううん、食べる時間なくて」
「ちょっと待っとけ」
たーくんはそう言うと、ホームのキオスクへ向かって走り出した。
数分後、戻ってきた彼の手には、赤い包みのシウマイ弁当と冷たいお茶。
「これ、最高に美味いから。車内で食べ」
「ありがと……ほんま、たーくんいつも…ありがとな」
不意に喉の奥が熱くなって、絞り出すように言った。そんな私の様子を見て、彼は少し照れくさそうに笑った。
「なんやねん急に。寂しなったんか?」
「……そんなんちゃうわ」
強がって見せたけれど、発車のベルがホームに響き始めると、胸のざわつきは抑えきれなくなった。
「いい子で待っててな」
それが、今の私に言える精一杯の言葉だった。
あっちに彼がいることも、もうすぐそっちに戻ることも、全部飲み込んで。
私は衝動的に、たーくんの頬にチュッと音を立ててキスをした。
驚いたような彼の顔を焼き付けたまま、私は滑り込むように新幹線に乗り込んだ。
重いドアが閉まり、列車がゆっくりと動き出す。
窓の外を見ると、スーツ姿のたーくんが、私が見えなくなるまでずっとずっと大きく手を振ってくれていた。
指定された窓側の席に腰を下ろす。
膝の上には、まだ温かい弁当。
これから向かう先は、慣れ親しんだ大阪。そこには私の日常があり、待っている人がいる。
それなのに…
不意に、視界が滲んだ。
拭っても、拭っても、涙が溢れて止まらない。
(なんで……? なんで泣いてるんやろ、私)
たった1週間の帰省。またすぐにここに戻ってくるはずなのに。
それとも私は、この新幹線が物理的な距離だけでなく、たーくんとの「夢のような時間」を切り離してしまうことを、本能で悟ってしまったのだろうか。
流れる景色を追い越しながら、私は泣き笑いのような顔で、たーくんが選んでくれた弁当の包みを解いた。
シウマイ弁当を平らげ、冷たいお茶で一息つく。
ワゴン販売のチャイムが聞こえてくると、迷わずアイスコーヒーを注文した。プラスチックのカップにたっぷり入った氷が、カチカチと音を立てる。その冷たさを指先に感じながら、私の心はようやく落ち着いた。
窓の外を流れるのは、都会のビル群から次第に緑が混じり始めた、名もなき風景。
ざわついていた心を鎮めるように、私はバッグの底から「拝借」してきたアイテムを取り出した。
手に取ったのは、たーくんの部屋から勝手に持ち出してきたCDウォークマン。
蓋を開けると、中には彼がよく聴いていたマキシ・プリーストのディスクが入ったままだった。
ヘッドホンを耳に当て、再生ボタンを押す。
少し遅れて、ディスクが回転を始める小さな振動が指先に伝わってきた。
流れてきたのは、甘く切ないレゲエのリズム。
たーくんの影響でいつの間にか大好きになった、あの声。
都会的でいて、どこか潮風を感じさせるメロウなメロディが、私の耳元から全身へと溶け出していく。
(…うん…私は大丈夫だ)
音楽に意識を預けていると、複雑に絡み合っていた思考が、少しずつ解けていくのがわかった。
大阪に帰れば、私はまた「誰かの彼女」に戻らなければならない。
東京にいれば、私は「誰かの仮初めの恋人」で居続けられる。
でも、今はそのどちらでもない。
時速200キロを超えるこの空間だけが、私が唯一、何の役割も持たずにいられる場所なのだ。
(色々考えても、しゃあないな……)
自分に嘘をつくのは、もうやめよう。
「誰が一番好きか」なんて答えの出ない問いを繰り返すより、今はただ、この加速する列車の揺れと、マキシ・プリーストの歌声に身を任せていたい。
あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。
そんな情けない自分も全部ひっくるめて、今はただ、流れに流されてみよう。
私は深くシートに身を沈め、目を閉じた。
大阪に着く頃には、きっとまた「上手な嘘」をつける顔に戻っているはずだ。
この涙の跡が、乾くまでの間だけでいい。
私は、たーくんの匂いが残るヘッドホンを、もう少しだけ強く耳に押し当てた。




