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ホルムの大迷宮  作者: ふくべおさひら
9/10




陽の光が真上から降り注ぐ頃には、ハリーとチェルシーは観葉植物を這う虫のごとく、巨大な木々を少しづつ上に進んでいた


まずハリーが先に高いところへ登り、次にバッグやツルハシを受け取る、その後にハリーがチェルシーを引き上げる


そんな事をもう何十回も繰り返していくうちに、2人は言葉を交わさぬほどに疲れ果てていた


登っても登っても終わりの見えない木々の道は、体力をジリジリとだが確実に奪っていく


迷宮内部にある迷宮を通っていけば、そうはならなかったかもしれない


だが、入り口を塞いでいた木々をどかすには、2人のささい力ではどうにもならなかったのだ


仕方なく、迷宮の内側を通る事をやめ、外側の木々や石段を登っているが、果たしてこれが上に続く道として相応しいかはどうかは分からない


このまま進んだ先に迷宮に合流する道があれば良いが、この木登りはそんな希望さえ2人から取り払うほど心身を削るのだった





「これ、普通に中を通っていくより大変じゃないか?」




重い荷物とチェルシーを引き上げ続けたハリーの腕はすでにパンパンに張っていた


痛みは翌日に響くような呻きを放ち、それが思わずハリーに泣き言を吐きさせた






「当たり前よ、正規のルートじゃないんだから…」



そう鋭さのある声で吐き捨てるチェルシーも、実際は随分疲れているようであった


木々で直射日光は防がれているとはいえ、強気な光は葉と葉の隙間から滑り込み、ハリーたちがいる空間の温度を上げていた


正午を迎えた今の時間はまさに、その温度が最高潮に達した瞬間であった


ウェールズの夏でも感じたことのない温度により流れ出る、滝のような汗を木々に吸わせながら、2人はまた一つ、また一つと疲労を押し殺して登り続けた


2人よりも何千倍も大きいある巨木の上を、ツルハシを使って登りきった時には、どちらもその巨大な木の幹に、思わずたへたり込んでしまった



これ以上は休憩を挟まない限り、2人とも足を前に進める気にはなれなかった


それほどまでにこのスケールの大きな木登りは、ハードな所業であった


時間としては実に3時間から4時間ほどあったが、少なくとも500m以上は登ったかもしれなかった


人生で一生分の木登りをしたと、ハリーは自分の震える腕を見て感じた




「もうヘトヘトだ」




ハリーは木の幹にうつ伏せで倒れこみながら、細かい木目に頬を擦りつけた


チェルシーも一旦荷物を降ろし、膝を曲げて女性らしく座った


2人とも体全体で息をするように、空気を取り込んだ


木々の呼吸によって生まれた美しい空気だけが、2人の心に安らぎをもたらした




ハリーは寝転びながら、チェルシーを眺めた


昨日の夜に見せたような、どこか不思議でミステリアスな雰囲気はすでになかった


彼女は足を折りたたみ、ただ静かに、木々から聞こえる鳥たちの音と風の音に耳を澄ましているように見えた



「何か聞こえるのかい?」



ハリーはチェルシーにそんなことしか聞けなかった


この世のあらゆる食べ物を食べ尽くしてしまった時に、食べたいものが浮かばない時と同じように、ハリーにはチェルシーに投げかける言葉が無かった


理由は様々だが、主に朝の口論が原因であることは分かっていた


その原因は、今日は特にチェルシーが"女としての体"に悩まされている、ということも一つだった




とにかく彼女は不機嫌で、まさに今にも破裂しそうな爆弾と言っても遜色ないのだ


危うい言葉を吐けば、その爆弾が反応して金属片を撒き散らしながら爆発するかもしれない


かと言って言葉が見つからないとはいえ、なんでもいいわけでもなく、それは慎重に選ぶ必要があった


ハリーはそんな状況に慣れていないことは自覚していた


当然、絞り出した言葉はジャムの付いていないパンや茹でただけの鶏肉のように無味であった





「別に、何か聞いてたわけじゃない

ただ少し疲れただけよ」



チェルシーはこめかみを手で押さえながら、痛む頭を少しでも癒そうと俯いた


彼女は美しい顔を歪ませながら、たまに緑に遮られた空を見上げたりした




どうやら、チェルシーに巣食うものは、どうにも意地悪で強烈な自我を持った害虫のようであった


時には立ち上がれぬほど、時には木の幹に引っかき傷を刻むほどに、チェルシーは体を蝕まれていた


そんな状態で過酷な木登りができていること自体が、むしろ不思議なくらいであった


ハリーはそんな彼女の痛みや苦しみを完全に理解することはできないが、少なくとも本当に苦しそうであることだけはわかっていた




ただし、彼女に対して変に気を使ってもダメだった


値打ちのない優しい言葉をかけるのも、彼女のプライドを傷つけるだけに過ぎない


そのせいでハリーは今朝、回転式銃包のような罵声を浴びることになった


彼女を弱気にさせるような言葉を吐くことが、どんなに恐れ多いことかハリーはそまた改めて思い知ったのだ


そのこともあって、ただえさえすでに傷だらけ彼女の心身に、これ以上の追い討ちをかけることは避けねばならなかった







「少し休もう」



しかし、ハリーはそんなチェルシーの姿に思わず言葉が滑った




「なんでよ、私が辛そうに見えるから?」



チェルシーは数秒もかからずにそう返してきた



「それもあるけれど、昼時だよ

せっかくこんなでかい木の幹の上にいるんだ

昼食くらい食べるのも悪くないだろう」




「そう、それならいいわ」



ハリーはごまかし気味に、半ば無理やりチェルシーを休ませようとした



今回チェルシーはそれに合意したが、次はどうかはわからない


もしかすれば、この先もっと強情に休もうとしないかもしれない


ハリーはチェルシーが疲れた顔を少しだけほぐしたのをみると、安心するのだった



ハリーは2人分の荷物の詰まった攻略バッグを漁り、中から昼食用に残していたパンとハムを取り出した


持ってきたパンに持ってきたハムを乗せただけの簡易な昼食であったが、この気の遠くなる程長い木登りの後には、その質素な見た目ですら涎が止まらぬほどに食欲を掻き立てた


チェルシーにもそれを振る舞おうとしたが、彼女は腹の足しにもならぬような薄い一枚のハムだけを受け取ると、小動物のようにそれを齧った


ハリーにとっては、その昼食は体力を大幅に回復させる大変重要な時間であったが、チェルシーには先ほどと疲労感はあまり変わらないようであった





「やっぱり、今日はこれ以上進むのはやめておいた方がいいと思う」



ハリーは、自分の身の丈よりもはるかに長く険しい木々を見上げながら、そうチェルシーに検討した



「……………」




チェルシーは何も言わず、不服そうな顔でしばらくじっと木の目を睨み続けていた




「君だけじゃなくて、僕も疲れたのさ

そんなに急ぐ理由もないし、ここにはあの犬もいない、少しくらい休んだって誰も悪くは言わないないはずだぜ」




「ほらこの通り、もう動けないよ」




ハリーは再び木の幹にあぐらをかき、そして背中を幹につけた


果てしない木々達が、見えないほど先に続いているのが見えた


どれだけ体が回復していても、無限に近いものを目にすれば、やる気も根気もなくなるに決まっているのだ


ハリーはまだ十分に険しい木登りができる体力は残っていたが、別段嘘をついているわけでもなかった




だが、そんなハリーとは裏腹にチェルシーは一息ついて立ち上がると、痩せこけた自分の攻略バッグを片手に、まだ手も足をつけていない木々にその手をかけようとした


ハリーには何も返事をせず、ただ自分の意地だけで行動しようとしていた


ハリーはそれに慌てて体を起こし、すぐにチェルシーの近くに駆け寄った




「おいおいチェルシー、よせよ」



ハリーはうまく木の溝に足をかけれないチェルシーの後ろ姿に、不穏な空気を感じた


肩に手をかけようとしたが、おそらく振り払われるのがオチであった




「……………」




チェルシーはハリーの方を見向きも、返事すらもせずに、今度はロープをつなげた手製のつるはしを手に取ると、さらに高い位置にある木に向けて投げようと構えた


どうやらつるはしを引っ掛けて、1人の力のみで登って行くつもりのようだった


ハリーはそれに呆れることもできなかった



「そんなの、うまくいくわけない」



チェルシーが登ろうとしてる木を拳で叩きながら、ハリーはぐずる子供をあやすかのようにチェルシーを説得した


ハリーはチェルシーが強情を張っていることは見抜いていたが、なぜチェルシーがこんなにも気を張っているかがわからなかった


しんどいならしんどいと言えばいいし、休みたいときに休んでおくべきだとハリーは考えていた


でもどうやら、チェルシーの頭の中にはハリーの考えとは違う、ちょっとズレた意思が存在するようであった


ハリーはチェルシーの表面的な強情は見破れても、心の中の深い悩みや意思までは見抜けなかった


もしかすると、昨日チェルシーに言われた、自分のコミュニケーションの弱さや察しの悪さが原因であるかもしれなかった


そう思うと、血の気が引くような焦りが体から湧いて出た




「チェルシー、もうやめよう

今日は休むべきだ」



チェルシーが何度か頭上につるはしを投げたが、なかなか木の表面にうまく刺さらない


ハリーはチェルシーが4度目の投擲をする前に、彼女と木の間にその身を滑り込ませた


すると、チェルシーはハリーがよく見るムッとした顔をしながら、つるはしを肩より下に下ろした




「どいてよ…」



チェルシーはやはり不機嫌に、嫌いなものを見るような目でハリーを見た


そして不機嫌な口調で言葉を吐いた


ハリーはそれにはもう慣れっこだったが、まだそれに少したじろいだ




「チェルシー、もう休むんだ

ほら、つるはしを置いて」



ハリーはできるだけ彼女の意思を優先するつもりであった


強情や不機嫌も、彼女の特性の一つとして理解し尊重しようと思っていた


だが、それを見越しても今の彼女にはしっかりとした休養が必要であると考えた


何故なら、彼女の意思とは裏腹に身体は肩で息をしているし、顔は苦痛でいつもより引きつっている


彼女から入ってくる視覚的情報がそうすべきだと主張してきているからであった



つるはしを受け取ろうと左手をチェルシーに近づけると、チェルシーは後ろに二歩ほど下がった





「何?あんた私に指図するわけ?」



ハリーのそんな行動や発言に、チェルシーの不機嫌メーターは上がっていった


吹きこぼれそうなやかんのごとく、もはや不満の爆発が秒読みに差し掛かったチェルシーに対して、ハリーもまたさらに焦り始めた



「違う、そうじゃない

これは意見であってアドバイスだよ

君に指図するつもりだとか、そんなつもりは微塵もない

僕は君が心配だから言ってるのさ」



ハリーはなんとか言葉を選んだつもりだった


できるだけ冷静に、彼女を怒らせないように、スマートな会話を心がけた




「余計なお世話よ、あんたに私の体がどうだとかなんてわかるわけないわ」



チェルシーもそんなハリーの意思を組んだのか、声色は落ち着いていた


しかし、それは表面的で、おそらく傷の治りかけにできるかさぶたのようなものだった


その下にはふつふつと煮えたぎる血潮のように、怒りや不満が外に出ようともがいていた



「じゃあまだ登るって言うのかい?

確かにまだ日も暮れてないし、僕も君も体力は残ってはいるけど、その体力を温存するために今日は休んでもいいんじゃないかな」



やっていることは、もはやチェルシーが爆発するまでのチキンレースであった


しかし、ハリーとしてはそれでもなんとかチェルシーに休んで欲しかった


ハリーもこれに関しては、少し躍起な気持ちになっていた




「そうよ、まだ今日は登るわ

あんたがなんと言おうと私は先に進むの

休みたいならあんた1人で、ここで休めばいい」



「そんなこと言うなよチェルシー、休みたいとは言ったが僕は君が行くなら一緒に行くさ

ただ、僕には理由がわからないんだ

なんで君がそんなに先を急ぐのか」



「…攻略の方針を決めるのは私よ

あんたは黙ってそれに従えばいいの

何も難しいことじゃないでしょ」




「そりゃあ、本気かい?チェルシー」




「当たり前でしょ、朝そう言ったはずよ」





ハリーはもうお手上げであった


思わず手が頭の上の空気を撫でる



ハリーは朝の問答を思い出した



"あんたは私のバディとしての自覚を持つのはもちろんのこと、私の指示には絶対従って、私と約束したことは絶対守りなさい

リーダーは私で、この攻略の決定権は私にあるのも忘れないこと"



"仰せのままに、ミセスチェルシー"



高圧的な言葉に、その時はハリーは思わず冗談が漏れてしまったが、ハリーはそんなチェルシーの言葉すら冗談だと思っていた


チェルシーが言葉の上で求めているハリーという人物とは、自分の言うことを聞き、常に自分の機嫌をとり、自分に黙ってついてくる人形のようなものだった



「それはもはや高慢の域だよチェルシー

威厳を保つ事やリーダーシップを取るという次元を超えている

僕らはチームであって、飼い主と忠犬じゃないだろう?

僕の意見にだって、少しは耳を傾けてくれたっていいじゃないか」



「あんたの言いたいことは理解したし、私とあんたとで十分に議論したでしょ

これ以上に話すことなんて何もないわ

それに、全てを総括した上で私はまだ先に進まなくちゃならないの

わかった?あんたと言い合う体力を残すくらいなら、私はまだ先に進みたい」




チェルシーは不機嫌な顔の割には、いつものように怒鳴り散らかすようなマネはしなかった


ハリーはそんなチェルシーから、本当に自分と話す体力も残っていないのだとわかった


彼女は無理をしているのだ


自分の体を理解して、分析した上で、いつもなら彼女でも尻餅をつくところを、震える二本の足で立っているのだ




「よーくわかった、君が先に進みたいというのはよくわかったが理由をまだ聞いてない

それが欠けている限りは君を先に進ませることは憚られるわけだ

僕にも君の身を守るという使命があるし、何より君が怪我や病気などになった時に後でとやかく言われるのは僕だ

一応、僕は君のバディなんだから、君を心配するのは当然だろ?」



「なによ、こういう時だけ自分がバディだってツラしないで

実際そんなの形だけに過ぎないじゃない

私はあんたにあれこれこうしろと言って、あんたは私の指示に従う

結局、私たちはそれだけの関係よ」



「そうかいそうかい、チェルシー

僕の方が勝手にそんな気持ちになってただけだったんだ。すまなかったな

でも、大事なのはそこじゃない

何故かって、理由をまだ聞いてないぞ」



「いいわ、理由を言ってあげる

私は今あんたを試してるの

あんたがどれだけ従順で、いかに私に反抗しないかどうかを調べてるわけ

実際はこうやって噛み付いて、私の前に立ちはだかって邪魔をしてる

あんたは忠犬にもなれないし、私にふさわしいバディにもなれないのよ」



ハリーは自分が怒ったりしたら、そこで負けだと分かっていた


チェルシーだって自分の気持ちを爆発させないように抑えている(言葉には存分に現れているが)


それとも彼女は本当に疲れるから、怒っていないだけかもしれない


しかし、この15年の半分くらいを怒って過ごしてきた彼女にとって、自分の感情を吐き出すことは体力だとかはあまり関係ないだろう




「なるほど、あまりいい趣味とはいえないが、君の言い分はよくわかった

君の試しとやらも存分に堪能したよ

いいさ、君がそういう態度なら僕だってそうすることにするさ

従順だな?犬のように、君が棒切れを投げたら僕はそれをうれしそうに尻尾を振りながら取りに行けばいいわけだ。構わないよ

そっちの方が楽だからな」



ハリーは両手を頭より上にあげて、お手上げのポーズをとりながら、チェルシーとの会話を終えた


これ以上彼女と会話をすることは、もはや精神をすりおろすことと同義でしかない


それをすっかり忘れていた


ハリーは彼女に背を向けて、下ろした攻略バッグを取りに巨木の幹を歩いた


その足取りは重く、精神を囲う心の網はズタボロに引き裂かれていた





「なによ、不満?そんな見た目で?」






チェルシーはそんなハリーに追い打ちをかけるように、ハリーの背中にそう漏らした




「悪かったな。こんな見たな目で」




ハリーはチェルシーの言葉を、無くした耳の代わりに得た新しい耳で聞いた


頭の上に生えた、可愛らしい狼の耳だ


大きな三角形で、中も外側も灰色の毛が雑草のように生え散らかしていた


やけに遠くの音も、チェルシーの言葉の底にある思惑や感情まで、この耳は捉えるのだった



だが、それだけではなかった




ハリーの体は大きく変態していた


この迷宮に足を踏み入れ、数十時間が経過してからというもの、ハリーは体が獣と人間を足して2で割ったような肉体に変化しているのだ


いつのまにか頭からは獣耳が生え、腰の付け根からは80cmほどのふさふさの尻尾が伸びていた



…こんな体になったことに気づいたのは、長い夜を超えた朝のことだった


ハリーが薬草スープを飲んで、ぐっすり眠ってから目覚めた時のことだ


よく覚えている







……

………








麻痺した肉体の痛みは、一晩過ぎれば消えていた


右腕にはまだ麻痺が残り、思うように動かすことはできなかったが、昨日と比べればそれなりに自由はきいた


立つこともできたし、歩くことだって可能だった


チェルシーはというと、そんなハリーに驚きと困惑を隠せなかった



「信じられない…リーパーの毒は3日から1週間は体内に残るって言われているのに

あんた一体どうやって…」



「さあ、自分でもわからない

でも多分、君の作った薬草スープがすごく効いたに違いないよ

ありがとう。礼を言わなきゃな」



「そんなの…それになんなのよ、その頭…」





「…ん?」



「それよ!頭の上!」




チェルシーは何かを取り乱したように、ハリーの頭の上を指差していた


ハリーはそれがなんのことなのか見当もつかなかった


鳥の糞でも被ってしまったのだろうか、そう思ってハリーは頭を左手で探った


だが、その予想は見事に外れ、そこには不思議で慣れない感触があった




「なんだこれ…?」



三角形で、やけにふさふさとした物が頭の中腹から前方にかけて存在するのだ


当然何かを被ってるわけでもないし、何かをくっつけているわけでもない



「耳よ!耳!犬の耳!」



ハリーはチェルシーが困惑の声を上げてから初めて、それが犬の耳であることに気づいた


どちらかというばそれは狼の耳であり、犬のそれよりも一回りほど大きかった


元あった耳のあたり、頭の側面を触るとそこにあるはずの人間の耳はどこにもなかった


灰色で肌触りの良い獣毛が広がっているだけであった


本来あるはずのものがなく、本来ないはずのものがあるというものは、不思議と同時に肌寒い感覚だった


音は若干上の方から聞こえてくるし、逆に音がよく聞こえすぎるしで、チェルシーから指摘されてからというもの、いつもの調子で音を聞くことができないのだ




「どうなってんだこれは…

チェルシー、鏡持ってないか?」



ハリーは頭を触りながら、自分が異様に毛深くなっていることにも気がついた


たった一晩では伸びるはずないほどに長く、よりくしゃくしゃになった髪の毛が視界の半分を遮っているせいで、前髪を上に上げなければまともに前方すら覗けない


体毛も異常に濃くなっており、胸毛や背中の毛など1つも生えてなかったのに、今や一面灰色の草原となってしまっている


ただ、体が劇的に変形するというよりも、一部がより獣に近くなったといった表現の方が近いかもしれなかった


目立ったところを挙げれば耳と体毛、そして尻から生える一本の尻尾だけ


顔つきや鼻、骨格などは以前のハリーとは変わっていない


チェルシーから受け取った手鏡を舐めるように眺めたが、やはり一部が表面的に変化しているだけだった


感情も別段獣的になったわけでもないし、思考も行動も狼のするようなそれに近づいているわけでもない


おそらく誰もが持つ体の奥深くに眠っていた野生が、少しだけ顔を出しているに過ぎないのだろう



迷宮にはそれを助長する力があるのだとハリーは予想した





「あんた…一体なんなのよ…」




チェルシーはさっきからそればっかり呟いていた


何か変なものを見るような目で、先程からハリーを見ているのだ


ハリーはそれに少しむず痒い感情を抱かざるを得なかった


見た目が少し変化しただけだというのに、そこまで珍しいものを見るような目をしなくてもいいのではないだろうか


そう思った




「僕にもわからないよ

けど、そんな大して変わったわけじゃない

耳と尻尾と毛がちょっと生えただけさ

何をそんなに驚いているんだい?」



なぜか、ハリーはチェルシーとの温度差に上手く対応できなかった


実際、自分の体が獣に近くなっているこの状況に対して、びっくりして腰を抜かすのが普通の反応なのだろう


だが、当の本人であるハリーの感情は水たまりに浮かぶ紙の小舟のように静かだった


むしろ、体は前よりも軽く、おそらくこの肉体に変化したせいで、傷の治りや回復力なども上がっている


ちょっと毛深くなってしまったのはあまり良いとは思えなかったが、それを差し引いても自分の体が理論的に良い方向に進化したことがなによりもありがたいことだった





「そんなの、驚かない方がおかしいわ!?

やっぱり変だと思ったのよ

昨日はリーパーの毒にやられても、数時間で口をきけるようになってたし

たった1日で毒を分解して、今は身体はスッキリ何事もなかったように元どおり

おまけに朝起きたら狼人間になっていたですって?」



「まあ、そういうことだね」




ハリーは腕を横に投げ出すしかなかった


ハリー自身でも、今の自分の状況がよくわかっていなかった


なぜ、自分が狼人間になっているのか?


それを考えても、その答えに至るまでのヒントすらどこにも存在しない


まだ証明も解明もされてない数式を扱った問題を解くことと同じだった


それに、死者が亡者として生き返ったりする世界で、原因や理由を考えたところでしょうがないのではないかとも思った



「チェルシー、もうここは大迷宮なんだから何が起こってもおかしくはないさ

君だって明日には猫人間になっているかもしれないし、僕は本物の狼になっているかもしれないわけだ

そんなことに恐れていたり、いちいち驚いていちゃいざという時に気が持たない

とにかく、柔軟に対応するべきさ

きっと僕がこの姿になったのにも意味があるんだと思うよ」



ハリーはチェルシーを小さな子供をなだめるかのように説明した


チェルシーはそれが気に入らないようで、驚いた顔からまたムッとした顔にスライドした



「なによ?偉そうに語るわね

言っとくけど、私はビビってるわけじゃなくて、あんたのそのふざけたぬいぐるみみたいな姿が気に入らないだけよ

迷宮に挑む攻略者としてふさわしくないの

それに、勘違いしないで欲しいけど、私はあなたに説教される気なんで毛頭ない

もっと言葉を選んで頂戴」



チェルシーはフサフサになったハリーの胸に指を立ててハリーを押しながら、そう言った


ハリーはそれにため息をつくしかなかった



「わかった。悪かったよ

もうこんなことは2度と言わない

だからそうカッカするなって」



ハリーはおどけた顔で折れるしかなかった




「ため息をつきたいのはこっちよ」



最後はチェルシーにそう言って、不機嫌なまま朝の準備を続けるのだった



チェルシーはどちらかといえばしつこい女性の部類であった


絶対に自分が有利な状況で話を終わらせたいし、自分が正しいことを相手が理解するまで、もしくは相手が折れるまで、ずっとこの繰り返しをするのだ


そんなに怒ってて疲れないか?とハリーは一度聞いたことがあったが、その時も火に油を注ぐような状況になった事は言うまでもない


これから長い間彼女とつきあうためには、それなりに気合を入れなければいけないとハリーは思うのだった



その後も、口論を続けたまま2人は自分たちの荷物の整理と確認を続けた


チェルシーが持ってきた鉄鍋や重量のある攻略機材、食材などは全てハリーが持ち、そのほかのロープや簡易つるはしなどの軽攻略器は基本的にチェルシーが承った


チェルシーは仕分けの際に、ハリーが食料ばかりを持ってきているのに対して何度も険しい顔をした


ハリーが聖堂院の教科書すら持ってきていなかったことが分かると、彼女は烈火の如くハリーに対して怒り散らかした


ハリーはそんな自分に何度も自信を無くした


チェルシーが当たり前とか、最低とか、当然などという言葉を使うたび、ハリーは吐きそうなくらい気分が悪くなった


荷物の仕分けが終わった頃には、ハリーの尻尾と耳は垂れ下がり、まるで悪いことをした時に怒られた飼い犬のようであった


それでも、チェルシーはハリーのために自身の裁縫道具を使ってハリーのズボンに穴を開け、尻尾が通る穴を作った


穴の空いたズボンを乱暴に渡された時、ハリーはそのチェルシーの本当の優しさに感謝をせざるを得なかった


どれだけ罵倒され、厳しいことを言われ、彼女に対して憎しみの心を持つときがあっても、最後に優しくしてくれた時には、ハリーはそんな感情など全て忘れてしまった


人に優しくすると言うことをチェルシーは当たり前のようにこなしていたが、ハリーには中々できることではなかった


ハリーはそんなチェルシーに対して、"人間的な差"を痛感していた


彼女は自分よりもずっと大人だった


我慢の方法や心の器の使い方をわかっているのだ


それに比べてハリーは突き通すほどの自信や感情も無い


忍耐力だって、他人を想う余地なんてものも無い


そんな自分に、ハリーは自分の感情が人間のもであるかさえも問うようにもなった


自分がチェルシーに良くしてあげたことなんてあっただろうか


言葉だけではなく、1度でも贈り物や形のあるお礼をしたことがあっただろうか


この穴の空いたズボンのように、ハリーはチェルシーから恩義の借金をしているばかりではないか


返すべきものも返せず、贈るべきものを贈れない自分を恥じるしかなかった



2人は朝の準備を終えると、問題の上層の年輪路への入り口へ向かって石段を踏みしめた


風は穏やかで、雨も降っていなかったが、空は曇っていてこともあってハリーの心はより憂鬱だった


先々と進む凛々しい顔のチェルシーを時々見上げながら、ハリーは石段を登った


いつも下を向いて歩いているせいで、石段の間から見える下の世界が、ハリーの胃を紐で結んだかのように小さくさせた


赤い海とそれを囲む城郭、その周りにびっしりと続く家々、そのさらに外側に広がる青く澄み切った空と雲


今ならば誰であっても、美しい写真を取れるのだろうとハリーは思うのだった


木の幹が大きく塞いでいる入り口にたどり着くと、チェルシーはその幹を叩きながら、ハリーに向き直った




「これよ、こいつが邪魔をしていたせいで私は立ち往生してたわけ

本来ならあんたを助ける前に、ここを通って先に行っていたはずなの」



チェルシーは相変わらず不機嫌な鼻を鳴らしていた


言葉の端々に、嫌味とも取れるような言葉も混じっていた


ハリーはいろいろ考えたが、今日のチェルシーの不機嫌ぶりは、やはり"アレ"が理由なのであると考えていた


チェルシーは思ったことや、必要なことをすぐに口にするタイプではあるが、そんな彼女でもそういった類のことは知られたくないようであった




「それなら、僕はこいつに感謝しなきゃならないわけだな」



ハリーは幹を手で撫でながら、慎重な言葉を吐いた


今のチェルシーを怒らせることは、また面倒な時間が増えるだけだった


すぐにハリーは折りたたみ型の長軸つるはしを取り出して、下部にわずかに空いた溝に差し込んだ


チェルシーがそうしろとは言わなかったが、チェルシーの顔色からハリーはそれを感じ取っていた


なにぶん、先程から顔色を伺うことには敏感になっていたからであった



ハリーが力を込めて幹を持ち上げようとした時、今度はチェルシーが淡白な口ぶりで喋り出した




「そうよ、あんたはそうやって私の顔色から察して、正しい行動をすればいい

いわば私たちは上司と部下の関係よ

私がやれといったらやるだけ

私がやるなといったらやらない

それをいつも念頭に入れておくこと

あんたは私のバディとしての自覚を持つのはもちろんのこと、私の指示には絶対従って、私と約束したことは絶対守りなさい

リーダーは私で、この攻略の決定権は私にあるのも忘れないこと。いいわね?」




「…仰せのままに、ミセスチェルシー」




「わかればいいのよ」



チェルシーはそれだけいうと、満足したかのように別の方向を向いた




ハリーはそれにやれやれとため息をついてから、つるはしに目一杯力を込めるのだった




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