素晴らしき恋人たち
ハリーが目を覚ましたのは、星がきらめく静かな夜だった
潮風も鳥の鳴く声もハリーには聞こえない
体に入ってくるものは、パチパチと木が燃える音と、目の前にある大鍋から臭ってくる薬草の苦い香りだけであった
ハリーは横に腕を投げ出し迷宮の壁に背をつけながら、小さな石段の隅に寝転んでいた
体には血でパリパリの攻略コートがかけられ、鉄臭い匂いが体の周りに漂っている
どうやら、縦1.5m、横2mほどの直方系の石段の踊り場に寝かされていたようで、2、3度寝返りを打つとそのままはるか闇の彼方に落ちてしまうようであった
ハリーの目の前には、迷宮の石段から崩れた石のブロックと、壁面の遥か上に生える巨木の枝や皮で作られた小さな焚き火があった
その上に、大鍋が鉄筋によって吊るされ、中の薬草スープがグツグツとその身を震わせている
ハリーは体を起こそうと肘に力を入れた
だがうまく力は入らず、体は動かなかった
肉体全体が熱を持っているらしく、炎も近かったせいか汗が止まらなかったが、肌には鳥肌が立ち、身体は寒がっているようであった
熱からくる頭痛も、ハリーの頭をかち割るかのようにごんごんと響いた
結局、ハリーは大汗をかきながらも、寒さに身を震わせ、横たわるしかなかった
しかし、妙に意識ははっきりしており、体はだるく重かったが、それなりに正常ではあった
しばらく明るい炎を見つめていると、踊り場から上に続く石段から、ブーツをコツコツと響かせてチェルシーが現れた
チェルシーは薪がわりの枝や木の皮を片手に、もう片方の手に折りたたみ式の小型万能ツルハシをストラップを通して持っていた
薪をハリーの近くに放ると、座るために持ってきたであろうブロックに腰をおろし、大鍋に沈んだおたまを回し始めた
「チェルシー…」
ハリーは掠れた声で、なんとかチェルシーに声をかけることができた
喉は乾ききっており、声帯は枯れ木のような状態になっていた
チェルシーはそんなか細い声に気づいて、ハリーの方を一瞥すると再びおたまを動かした
そして、自身の攻略バッグの中から木製の食器とスプーンを取り出すと
ハリーの頭の近くに置いた
「体からまだ麻痺毒が抜けてない
熱もひどいし、噛み傷も浅くない
それに、血を流しすぎてる」
チェルシーは無表情で淡々とそんな言葉を吐いた
ハリーには、炎の光に照らされるその顔がとても美しく見えた
こんな状況だからか、もともと美しいからなのか、おそらくどちらの要素も絡んでいた
チェルシーは大鍋からスープを救うと、ハリーの近くに置いた、木製の底の深い食器を手に取った
それに丁寧にスープを注ぐと、今度はハリーの近くに擦り寄るとハリーの頭を手で優しく起こした
「一層の壁を突き破って生える木には、さまざまな植物や虫、草が自生してるの
その中で麻痺毒に直ぐに効くやつを選んだから、頑張って飲みなさい」
ハリーは震えながらも左腕だけは動かせたため、寝転びながらもスプーンにわずかに乗ったスープを口にした
スープは苦く、匂いのきついものであったが、それでも随分と飲みやすいものだった
細かく刻んだキノコと、薬草の匂いを抑えるためのカナウミ(薬草の一種)のおかげか、特に味の苦味は気にならなかった
迷宮の壁面に生える潮生姜と、チェルシーの持ってきたであろう鷹の爪も、ハリーの体の芯から全体を温めていった
ハリーは自身が持ってきていた鶏肉が、潮風の塩に揉み漬けにされスープに入れられていることに気づいた
おそらくチェルシーがバッグから取り出して、使ったのだろう
鶏肉は少ししょっぱく感じだが、流しすぎた汗が輩出した塩分は水とともに摂取する必要があると考えれば妥当だった
おそらく、チェルシーがこの鶏肉を入れたのもそれを見越してであろう
チェルシーが持参したコンソメと潮風の塩がベースの素朴なものではあったが、スープのまとまりは見事なまでに完璧であり、まさに一つの美術作品であるかのようにハリーには感じられた
それもこれもチェルシーの綿密な栄養管理とレシピによるものであり、改めてチェルシーの料理の手腕というものに、ハリーは感動わを覚えた
不思議な体勢のままスープを飲み終えると、ハリーは再び頭を地面に降ろされ、今度は仰向けの体勢で寝転んだ
チェルシーは水を絞ったタオルでハリーの額の汗を拭きそのままハリーの額にそのタオルを置いた
ひんやりとした感覚がハリーの頭全体を素早く伝達していく
チェルシーは自分の分のスープを別の容器に注ぐと、それを啜った
しばらくそのチェルシーの様子を、ハリーは眺めていた
「…その、ありがとう…僕、いつのまにか気を失ってたみたいで…」
チェルシーはハリーを再び一瞥し、またおたまを回し始めた
どうやら、彼女は一瞥する仕草が好きなようだった
きっと自分ではわかってないだろう
「リーパーよ」
「あいつらの神経毒のせいで体が一時的に動かなくなってるだけだけ、まだあと3日くらいは痺れが残るでしょうね」
チェルシーはおたまから再びスープをよそうと、自分の容器に注ぎ、啜った
ハリーはその仕草全てが、なぜかひどく印象に残った
「また救われたな…貸しはこれでいくつになったんだろうか…」
チェルシーは野菜と薬草を咥えながら、"さあね"と呟いた
昔から、ハリーはチェルシーにこうやって助けてもらってばかりな気がした
なんだかんだ言って、やっぱりハリーはチェルシーのことが嫌いなわけではなかった
苦手ではあるものの、嫌いではない
頭が固くて、すぐに怒るところは確かに好きとは言えないが、それも本来そのストイックな性格からくるものでしかない
それはもはやチェルシーのチェルシーたる特徴となっていたし、今更それがなくなったらそれはもはやチェルシーではなかった
チェルシーが自分のことをどう思ってるかも少し気になった
やっぱり、鈍臭くて容量の悪い自分のことをうんざり思ってるのかもしれない
ハリーは自分から抽出されるイメージを改めて思い浮かべてみた
しかし、その全てがマイナスの要素であり、一つとして良いところなんて浮かばなかった
考えるだけ、心が暗くなるだけだった
きっとチェルシーもそう思っているのだろうか?
それを知ったところで、どうしようもないが
「チェルシー…僕は君に謝らなきゃいけないことが結構ある」
「それに答えなくてもいい…でも聞いてほしいだ」
ハリーの体はスープのおかげで、随分と暖かくなっている気がした
薬草が体に染み渡り、鎖に塞がれた筋肉が徐々に躍動を始めていた
チェルシーは相変わらずスープを混ぜながら、ハリーの方を一瞥してまた無限に広がっている星空を眺めた
「城郭でのトンネルのことと、君の忠告を無視したこと、あとはこの攻略のことさ…」
「全ては君に決定権があったのに、僕が余計につっつきまわした…」
「すまない…」
スープは関節の詰まった体を解放するだけではなく、謝罪するための勇気をハリーに与えた
チェルシーはおたまを回す手を止め、寝転ぶハリーの手の近くに置いてあった容器を手に取ると、それに再びスープをついだ
ハリーは額のタオルをどけ、なんとかそれを受け取ると、今度は自力で左肘をつき右手を使おうとした
しかし、ハリーの体は数ある中でも右手が1番重症であった
全く感覚がなかったし、右腕の二の腕や肩が、電気を流されたかのように酷く痛んだ
それでもスープの薬草も、リーパーの毒に負けないほどの即効性を含んでいた
チェルシーに手伝ってもらいながらも時間かけながら壁に背をつけると、左手で足を組み直してあぐらをかいた
変わらず攻略コートを毛布のように被り、唇はふるふると震えていたが、スープをすするたびにその症状も少しずつ良くなっていった
「もういい」
チェルシー、静かで暗い闇の中ではっきりとそうこぼした
ハリーはチェルシーの顔色を伺う癖ができていたが、今回はどうやら怒っているわけではなさそうだった
「なんだかもうどうでもよくなった…
今更そんなこと言ってられるような段階でもないし」
チェルシーの横顔は、まるで深い夜に下から焚き火の日で照らされた場面の肖像画ののようだった
ハリーはその肖像画のタイトルを考えた
"疲れた少女"かそれとも"大鍋をつつく女"か
ハリーは色々考えてから"チェルシー"という題名が1番であることに気づいた
その姿はチェルシーの美しい部分を全て捉えている気がした
見つめられていることに気づいたチェルシーは"なによ"と、また美しい顔でハリーに応えた
「…僕に怒ってないのかい?」
ハリーは恐る恐る愚かなことを聞いた
チェルシーはそれに少し呆れたような顔をしながら、深いため息をついた
「あんた私がいつもいつも怒ってるみたいなイメージがあるみたいだけど、別にそうじゃないわよ」
「それにもうそんな気分じゃない」
それを皮切りにか、その後のチェルシーの表情はいくつも変わっていった
悩ましげになったり、切なくなったり
ハリーはその四季のように移ろう表情を本当に美しいものだと改めて感じた
なんだか、特別感傷的な気分になっていたからかもしれない
不思議な感覚だった
「そんなことよりも、すぐにこれからのことを考えなきゃ」
「あんた、その様子じゃ普通に口はきけるようね」
チェルシーは横目でハリーの体を全体的に見ると、そう言った
ハリーはその言葉の意味があまりわからなかった
口をきくもなにも今までずっと話していたではないか
「僕…なんか変かな」
ハリーは首を動かして、自身の体全体を舐めるように見回したが、特別おかしいところなどないように感じた
だがチェルシーは
「…おかしいとこだらけよ、あんたが自分で思ってるよりもね」
と述べた
ハリーはそれがますますわからなかった
自分はなんの変哲も無い、ただのハリーだ
落ちこぼれで、鈍臭い、タマ無しのハリーだ
ハリーは理由を聞こうと思ったが辞めた
そういったものは自分で見つけなければならないと、そう思った
しばらく2人は星空の下で沈黙しあっていた
ついにスープがなくなると、チェルシーは鍋を鉄筋からどけ、その中に水筒の水をいれた
そして、たわしでシャカシャカと鉄鍋をこすると、残った汚水を血の池の方へと放った
音もなく暗闇に吸い込まれていった水が、血の池に叩きつけられる音はすでに聞こえなくなっていた
わずかに動く首でハリーは石段の下を覗くと、転々と民家の灯りが見えた
ウェールズの光はまだ、ハリーの両目に届いていた
「チェルシー、君は夜は好きかい?」
ハリーは唐突にそんなことを聞いた
チェルシーが喋りたいかどうかは分からなかったが、ハリーは他にできることもすることもない
「別に…好きでも嫌いでもない」
チェルシーは少しぶっきらぼうにそう応えた
どうやら喋る気分ではなさそうに見えたが、ハリーはそれをわかって話を続けた
「僕は嫌いさ…」
「なぜなら…色々手を抜いていたこととか、不安なこととが全部流れ込んでくるんだ
僕だけのことだから、自業自得と言って仕舞えばそれきりだけどね」
チェルシーはハリーの話を特に遮ることもなく、後片付けを始めた
ハリーと自分の使っていた容器を先ほどと同じように洗い、乾かすために石段に裏向きに立てかけている
「夜はいろんなことを思い出すんだ…
君に殴られて情けなく泣いたこととか、浮遊岩盤の中に落ちた時のこととか」
「その殆どが僕をナーバスにさせる」
「そうすると、朝方まで寝られないんだ
自分の将来のこととか、今の自分成績のこととか、もし自分が死んだらどうなるかとか、次々に頭に浮かんでしまうんだよ」
ハリーはチェルシーを見ずに、星空を見ながら小さな声で続けた
星がとても綺麗な夜だった
「…そんなの誰だってあるわ」
すぐにチェルシーはそう応えた
ぶっきらぼうな声でだ
「そうか…確かにそうかもしれない」
「君もそうかい?チェルシー」
と聞いてみたが
「…だったらどうなのよ」
と悩ましい返事が来た
それはハリーにとっては嬉しいことだった
チェルシーの素直な部分が、少しだけ見えた気がしたからだ
少しだけだが、彼女が心を開いてくれている気がした
「…とにかく僕はそういう時に、ある歌を思い出すことにしてるんだ」
「そしたら、少し辛いのが楽になる」
「僕にとっては希望の唄ってやつさ…」
「古代の船に行った時に、みんなで聞いた歌だよ…きっと君も知ってる」
ハリーはそう話している間に、当時の聖堂院の全員で、古代の浮遊艦を見学するためにセオルまで行った時のことを思い出した
その時はチェルシーもいて、自分もいて、確かベンはまだいなかった
浮遊艦は巨大で、全長50m以上はあった
古代の技術で作られた船だからか、今では再現不可能な技術がたくさん使われていた
ハリーはわからないことだらけのこの浮遊艦がとても好きだった
無限に続くパイプ、小さく彫り込まれた文字のメーターが並ぶ管制室、そしてかつて人がいた名残がある空間
あの時の自分は悩むことなんて何一つなかったかもしれない
本能のままに生きて、そのうち死ぬものだと思っていた
現実はそうではなかったが
とにかく、ハリーはとある船員室にあった植物ような機械に特に興味を惹かれた
四角い土台に力強く咲いた金管の花の中は、暗闇で満たされた空洞になっていて、土台に黒い円盤を置くことで音がなる機械だった
その名前もわからない不思議な機械は、それ以来触ったことも見たこともなかった
だからか、それを古代船見学ツアーの係員が動かしていた時の様子を今でもよく覚えていた
機械の横の壁にかかっていた円盤を土台に乗せて電気を流すと、円盤がゆっくりと回る
そこに土台から伸びた針のようなものを円盤に落とすことで、金管の底から美しい歌が聞こえるのだ
驚くことに、古代文明の賜物にも関わらず歌詞の言語は、今のハリーたちの使っているものと殆ど変わらなかった
そのおかげか、ハリーは歌詞を一度聞いただけで覚えていた
"ヘイ!ハニー!
髪を溶かして メイクを整えて
そろそろあいつが帰ってくる頃さ
指輪で女を終わらせるつもりなのかい?
自分を磨くのは女の使命なんだ
忘れちゃいけないよ
きみはいつでも恋人であるべきなのさ
あいつが帰ってきたとき
あいつの腕に飛び込むくらいしなきゃダメさ
僕の忠告を聞いてくれ
いつもいつでも
女なんてたくさんいるんだ
そしてあいつも所詮は男なのさ
カーラーを巻いたまま
あいつを見送るなよ
多分もう帰ってこないから"
それから同じような歌詞が、もう一度続いて曲は終わる
ハリーはこの歌詞が別段好きというわけではなかった
というか、どちらかといえば嫌いであった
偉そうな男が女に忠告するなんて世界は、自分と最も離れた場所にある気がした
そんな世界が美しいとも思えなかった
それはまだ自分が子供だからなのか、わかっていないだけなのか
その答えは、少なくとも今のハリーの中には存在しないようであった
ハリーが特に好きだったのはこの歌の音だった
低く優しい声と、軽快な金管楽器の音
次々に変化するコードとキー
そして、川の流れのように美しく流れていくメロディー
幼きハリー少年はこの曲を初めて聞いた時に、胸から込み上げてくるものを感じた
理由はそのあとに三日三晩考えたがわからなかった
音楽や芸術とはそういうものだ
分析するほどに、最初に得られた感覚から遠くなる気がする
「覚えていないかい…?確か君も一緒にいたと思うけど…」
ハリーは口笛でメロディーを再現しながら、チェルシーにこの歌の魅力を語った
しかし
「さあ?どうかしら…あまり記憶にないわ」
チェルシーはこの歌の事をほとんど覚えていないようだった
どうやら、聖堂院でもハリーだけがこの歌とあの場面を覚えているようだった
きっとチェルシー達、優秀な攻略家見習い達にとっては大した経験でも思い出でもなかったのだろう
それならば覚えていないのも無理はない
何か話しを作ろうとしてこの話題を出したハリーだったが、結果空中分解して終わってしまったようだった
なにせ、チェルシーは覚えてないし、それもとんでもなく昔のことだ
いわゆる"しけた"話だった
ハリーはこうべを垂れて、左腕で頭をボリボリと掻いた
自分の話し下手が、ここにきてその身を発揮した
諦めてハリーは再び沈黙の体勢に移った
だが、今度はチェルシーからハリーに声をかけた
「ちょっと歌ってみなさい…?そしたら思い出すかもしれない」
チェルシーは洗い物を終え、再びブロックに座って焚き火に薪を放り込んでいた
その顔は先ほどよりも、ほんの少しだけ笑っていた
ハリーは突然の要求に、一瞬声を失った
「…冗談じゃない、恥ずかしいよ」
苦笑いをしながらハリーはそれを断った
だが、チェルシーにフクロウのようにじっと見つめられてしまうと、なんだか断ることもできなくなってしまった
ここを乗り越えなければ、チェルシーとずっと仲良くなれないのではないか?
そんなことも頭をよぎった
「本気で言ってるのか…」
ハリーは緊張のため息を深く吐きながら、喉をさすった
数分前に痺れて動けなくなっていた人間に歌えというのは、チェルシーもいささか人が悪いのでは
だが、いざチェルシーを前にすると不思議な圧力が働いた
もはや、誤魔化すような空気に戻すことはできなかったので、ハリーは観念した
そして自分の喉や体に、果たして力を出せるかと信号を送った
「あんたがそんな話をしたんだから、それくらい責任持ちなさいよ」
チェルシーは散らかした焚き火の薪の中から、特別太いものを選別すると、微笑みながらそれハリーに差し出した
ハリーはそれをまだ痺れの残る左手で受け取り、自分の胸の前で立てた
ハリーはこの話をしたことに後悔した
なぜこんな話をしてしまったのだろうか
もっと別の、自分を追い込まずに済むような話でも、チェルシーの退屈を和らげたのではないか?
そんな話がないか、頭を爆速で回転させながら記憶を漁ったが、生憎そんな都合のいいものは見つからなかった
結局、またいつもの通り自分で種をまいて、そこから出た芽につまづいて転びそうになっている
ハリーの会話と人生とは、どうやら嬉しくもない共通点があるようだった
「…わかった、歌うよ」
「…でも下手とかいうなよ、痺れて喉とかうまく動かないんだから」
実は、ハリーはこの歌を歌うのは得意だった
授業を"ふけて"いる間に、誰もこないあのベンチでずっと歌っていた
一人で空を見上げながら、あの低く優しい声に出来るだけ寄せて歌っていた
そして、そんな生活を繰り返していくと、ハリーはこの歌を、本家顔負けとは言えまいが余興程度には歌えるくらいになっていた
しかし、人に披露する機会なんて無かったし、今何よりあのベンチにた時と同じように歌えるなんてわからない
そう考えると、ハリーは焦りの汗が噴き出した
緊張からくる心臓の鼓動の大きさは、ついに手を当てずとも感じるまでになった
喉は歌う前にもかかわらず、カラカラに乾いていた
それは、数分前に塩辛いスープを飲んだからかもしれないが
しかし、今回はやるしかない
今チェルシーを失望させるのは、自分が恥をかくことよりもずっといけないことのように感じた
「…じゃあ歌うよ」
ハリーは太い薪を、咳払いしながら口に触れるくらいに近づけた
息を大きく吸い、目を瞑り、恥をかく覚悟を決めながら色々な思いを巡らせた
"うまく歌えば、チェルシーも喜んでくれるかもしれない"
"下手だった時にはどう思われるのだろうか"
"もっと簡単な曲にしておくべきだったのではないか?"
だが、ハリーは歌う直前で、思いを巡らせすぎてしまった
そういや、どこまで歌えばいいんだ
1番まで?それとも2番も?
どのくらいの大きさで?
キーは1オクターブ下でもok?
自分が何も決めずに出発してしまったことにやっと気づいていてしまった
「…あの…チェルシー、どこまで歌えばいいかな…?」
ハリーは汗のたまった瞼を開き、思わずチェルシーに声をかけた
チェルシーは歌を聴く姿勢に入っていたのか、少し驚いた顔をした
そしてすぐに呆れた顔になると
「もう、1番まででいいわ
そんなの自分で決めなさいよ」
「いいから、さっさとやりなさい」
チェルシーは既に、スタートダッシュを失敗したハリーに呆れていた
そのせいで、ハリーは最初にリードできなかった分も稼がなければならなかった
ますます、歌いにくい状況を自分で作っているのだ
「わかった…なら歌うよ?」
ハリーは腹をくくるしかなかった
鼓動の鳴る心臓が、口から飛び出るかもしれなかった
ハリーはチェルシーを前に、伴奏も無しのアカペラを披露した
それは、自分で歌いながらも酷いものだと、途中からじわじわと感じた
出だしで歌詞を間違えたし、途中で息が切れて声が出なかった
音域は低い歌のはずだったが、いざ歌ってみるとそんなに低くはないように感じた
高音は出ず、気持ち悪い声が割れ目から漏れる水のように飛び出た
体に痺れが残るせいか、やはり声はカスカスで中身のない麩菓子のようだった
歌い切る直前で構成を忘れ、もう一度繰り返しのところで一度止まってから、また歌い直した
頭が真っ白のまま、曖昧な終わり方でハリーはその歌を歌い終えた
ハリーの体からは、歌い終えた瞬間から滝のような汗が止まらなかった
リーパーから逃げる時に全速力で走った疲労感よりもはるかに大きな疲労感を感じた
このまま、死んでしまいたいとハリーは思った
ハリーは歌っている間、恥ずかしくて目を瞑っていたが、チェルシーはハリーの歌を瞬きもせずに聞いていた
チェルシーはそんな恥ずかしがるハリーを、先ほどと同じく、フクロウのように見つめていた
それにもハリーは耐えられなかった
一体どうしてこんなことになっているのか、ハリーには終始分からなかった
「…なるほどね」
ハリーが恥ずかしのあまり口を開けず、タオルで汗をぬぐっていると、チェルシーは落ち着いた声でそう述べた
「…下手だったかい?」
ハリーはすぐにそうチェルシーにそう聞いた
チェルシーは間髪入れずに何度も頷いた
その動きには妙にキレがあった
「そうね…へたっぴ過ぎて、どんな歌が全然分からなかったわ」
チェルシーは笑いながらそう言った
その笑みは、ハリーが幼い時に見たチェルシーの笑みと同じだった
それに、ハリーは心を打たれたような感覚を覚えた
やはり、チェルシーはキュートな笑顔の似合う美人であった
焦りの汗はとまり、ハリーの口は半開きになったまま動かなかった
そのままチェルシーは再び焚き火に薪をくべ始める
その微笑みの残る横顔は、あいも変わらず美しく陽に照らされていた
それは無表情な時よりもずっと美しく、美術館に飾られるほどだとハリーは思った
ハリーは歌を歌い終えた時に深く後悔したが、チェルシーの笑顔を見たときに、そんなことは別にどうでもよくなっていた
むしろそれにお釣りが帰ってきたような気もした
ハリーは難しい感情を含みながら、星空の夜を冷たい石段で越した
ハリーが疲れで目を閉じる頃には、チェルシーも迷宮の壁を背に、座りながらハリーの頭の近くで攻略コートに身を包ませていた
焚き火の日が消える頃には、闇は完全に二人を包んでいった
光のない世界で2人ぼっちになった
そんな事実にハリーは、熱を持った心を押さえつけるしかなかった
彼女はすぐに寝息を立てたが、ハリーはその寝顔を月明かりでずっと見ていた
言い表せないような鼓動が、その夜はずっと胸に響いていた
…
……
………
ハリーは再び、ヘンリーの体を借りていた
前に乗り移った金髪の少年を、前に目撃したドレッサーで再び眺めていた
よくみるとどことなく自分に似ている場所があると、ハリーは感じた
鼻のライン、頬骨の高さ、目の大きさ
まるで、ハリーの中にヘンリーがいるようにも感じられた
今は逆であるが
この間見た"夢"と違うところは、自分がヘンリーであることを知っているだけだった
それ以外に変わったところは、質素なホテルの一室に生気が宿っているくらいである
部屋には電気が流れ、ベッドの枕元にあるボロボロのランプは淡くその身を光らせ
天井ではシーリングファンが、関節の錆びた機械のようにゆっくりと回っている
右手の窓の外は相変わらず霧に包まれ、ボロボロのソファーは綿が飛び出たままだった
ハリーは理解していた
これは夢であり、夢ではないことを
頭はぼやけていて、眠れない夜のように考えることはできない
しかし、ここで頭をはっきりさせる必要などない
当然、夢だとか夢じゃないとか考える必要もない
現実でも現実でなくても、そんなことはどうでもいいことであり、語ることも思慮することも全て無意味なのだ
誰に言われたわけでもないがそう確信していた
それと、ハリーはひどく落ち着いていた
この前のように不気味な不安に襲われることも、分からないことから来る恐怖も、今回は感じることはなかった
何故なら、今回ハリーはなぜかヘンリーの体にひどく馴染んでいたからだった
2回目だからかこの顔も体も、随分前から"使って"いたような感触を覚えているのだ
鏡の中のヘンリーも、そのハリーの感情を表す顔をしていた
ハリーよりもずっと美青年で、清潔感のある顔だった
不思議とそれに腹立たしくはならなかった
しばらく、ぼんやりする頭でドレッサーの鏡の左端にある錆びを1つ1つ数えていると、廊下の方から前に聞いたタイプライターの音が流れてきた
壁が薄いのか、カタカタ、ジーという音が澄み渡る空のようにはっきりと聞こえる
ハリーは最初、その音に興味を示せなかった
前はあんなに生気のある音や空気を求めていたのに、今はそんなに必要なものではないとヘンリーの体が述べていた
それでも、タイプライターの音は永遠に響いていた
何分、何十分ドレッサーの前にいても、音が鳴り止むことはなかった
タイプライターを使っている人間は、相当なボリュームの書き物をしているようであった
仕方なく、ハリーは重い腰を上げて、廊下につながる部屋の扉を開けた
その際に、ドアに遮られてくぐもっていたタイプライターの音がよりはっきりと、艶のある音でヘンリーの体に届いた
タイプライターの音は、ヘンリーの耳には少し大きすぎるくらいだった
青白く、狭い廊下の壁全てに響き渡り、反響の勢いは半端ではなかった
耳を塞いでも、指の間から水のように染み込んでくるのだ
どうも、音源を断ち切るくらいしか、この音を止める方法はなかった
しかし、ハリーは別に嫌ではなかった
それは、タイプライターの音が規則的で美しいリズムに沿って鳴っていたからだった
心地よいまでに揃った音は、まるで歩兵たちの揃った靴音のようなものように感じた
そこでハリーは思った
これだけの音を揃えられるのは、やはりタイプライターを使ってから長い人間だった
その人物をハリーはもう一人知っている
聖堂院の院長、ウィンストン・スミスである
ウィンストンはいつも莫大な書類の処理に追われていた
ハリーが院長室を覗くと彼が寝ているところを見たことがないほどだった
いつも、タイプライターとにらめっこをしていたことも頭の端に思い出した
だが、その思い出もすぐに泡のように消えた
もしかすると、廊下の先にいるのはウィンストンなのかもしれなかった
こんな夢の中にまで、説教をしにきたのだろうか
それならば、ウィンストンも再び大迷宮に足を踏み入れたことと同義であった
しかし、その思惑は外れた
知っている人間かと思ったら、それですらなかった
鉄格子の向こう側のデスクに座って、タイプライターを叩いていたのは、見たこともない女性だった
黒と白のはっきりわかるメイド服を着て、丸い瓶底眼鏡をかけて、無表情な目でタイプライターを無心に打っている
ハリーは廊下に左肩をもたれると、その女性をしばらく眺め続けた
メイドの女性は、こちらに気づいているのか気づいていないのか、ハリーにはわからなかった
声かけたほうがいいのかも、自己紹介をしたほうがいいのかもわからないのだ
何故ならハリーはハリーではなく、ヘンリーなのだから
それにしても、女性は身長がものすごく高いようだった
少なくともチェルシーよりは高く、流石にハリーには及ばないが、女性にしては高身長の部類に入るくらいであった
そして美人だった
肌は白く、よほど丁寧に手入れしているからか、シミがひとつもない
ハリーの住む世界でこれほどまでに綺麗な肌を持つ女性は、皇女か貴族の娘くらいだった
チェルシーも負けないくらい美人だったが、彼女はチェルシーをさらに超える美人であった
美しさに差があるかどうかはわからないが、どうしてもそう感じざるを得なかった
彼女は潤った唇でコーヒーの入ったカップに口をつけると、慣れた手つきでタイプライターを打ち続ける
こんな人形が売られていても、なにもおかしくはないのだ
それはそれはとにかく上品で、気品のある女性だった
ハリーは音も立てずにメイドの女性を見つめていたが、肝心の美しいメイドは鉄格子の向こうであった
手を伸ばそうが届かないことは、前の夢で検証済みだった
だから、ハリーはメイドを眺めることしかできない
それでも、それだけで満足できた
腹が減ると飯を食らうように、美人を見たい時に美人を見ると満足する
まさにそんな感覚だった
「…お目覚めですか?」
先に口を開いたのは、メイドの方だった
タイプライターを打ち続けながら、自身の肌のように白く淡白な声をハリーに投げかけた
ハリーはそれに別に驚かなかった
メイドが自分に気づいていたかどうかは、さほど大切なことではなかったからだ
「…この間は、君はいなかったね」
ハリーは同じく淡白な口調でメイドにそう返した
ヘンリーがどういう喋り方をするのか、どのような振る舞いをするのかはわからない
だが、これだけは聞いておきたかった
するとメイドは手を動かしながらも、目だけでハリーを見た
「…奥にいましたから」
2人の会話は、熱湯で油を落とした鶏肉のようにパサついていた
ハリーもそんなつもりはなかったが、自然にそんな感じになっていた
メイドは奥と言ったが、それが鉄格子の向こう側にある暗い部屋のことかどうかは分からなかった
ハリーは廊下にもたれるのをやめ、鉄格子に手を通し、メイドがいる空間のほうで腕を組んだ
「僕はどうしてそっちに行けないんだろう?
何か知っているかい?」
聞かなければならないことは他にたくさんあった
彼女の名前や、ヘンリーとは何者なのか
そもそもここは一体なんなのか
しかし、ハリーが出した最初の質問はこれだった
まるでヘンリーがその答えを求めているかのようだった
「…成り行きです、その時が来れば鉄格子も開くことでしょう」
ハリーには一体何のことか、見当もつかなかった
時間が経てば開くのだろうか
「なら、今君がいるのも、この間はいなかったのも成り行きかい?」
ハリーは本題から外れた質問をしている気がした
だが、ヘンリーの体はこれが正しいと主張し続けていた
「…それは、貴方自身がそう決めたのです
私はそれに従っただけに過ぎない」
どこか、メイドが述べる言葉はハリーの思い浮かべるものとズレていた
それは全てがデタラメに聞こえ、どこか本質的な部分を持つようにも聞こえた
どちらにしろ、今のハリーでは完全に理解しきることは不可能だった
それからは、わからない事がたくさんあるにも関わらず、ハリーは何も聞けなかった
質問すること自体が、どこか罪のように感じたからだった
冷たい鉄格子はそんなヘンリーからどんどん体温を奪っていった
相も変わらず、名前もわからないメイドはそらからは、こちらも見ずにひたすらタイプライターを打っていた
することのなくなったハリーは、奥の暗い部屋を眺めた
暗くて何があるかなどは全くわからなかったが、人が居る気配はないようだった
仮に、このメイドが言っていた"奥"がその部屋ならば、彼女はハリーが叫び散らしていた時に、この暗い部屋で音も立てずにじっとしていたのだろうか
それは実に不思議なことだった
そしてそれ以上に、この空間からハリーが取り込むことのできるものは何一つなかった
メイドはタイプライターを打つだけ
自分は鉄格子より向こうには行けない
暗い部屋はずっと暗いまま
おそらくだが、今回は永遠にそれだけなのだ
仕方なく自身の部屋に踵を返し、細く長く青白い廊下を歩いた
メイドもそれを止めることもなかった
それにしても、青白い光というのは少し不思議だった
ハリーの見たことのある電灯は、皆黄色やオレンジ色だったからだ
一体どう言った原理でこの色なのかはわからないが、その疑問に割く労力も無駄な気がした
部屋に戻ると、ヘンリーは再び丸いベッドに腰を下ろした
結局わからないことだらけのこの場所に、ため息をつきながらしばらくぼんやりとまた部屋を見回した
すると、最初は気づかなかったが、部屋の端に見たことのあるものがあるのが目に入った
それは、あの金色の花の咲いた機械だった
幼少期に見たあの音の出る機械がそこにあった
見た目も感触も、全て幼少期に見たそのままの形で、部屋の隅にひっそりとうずくまっていた
ハリーはそれに驚きながらも、すぐに立ち上がってその機械に触れた
確実に、以前ここに来た時には存在しなかった
それに少しだけ興奮しながらも、スイッチや電源ランプなどをまじまじと舐めるように触った
どこからかはわからないが、とにかく電気は通っていたようで、電源の有無を示すランプは緑色に光っていた
根元の土台、円盤の回るテーブルにはすでに円盤が置かれていた
このまま針を落とせば、あの時のように音が鳴る状態であった
その光景を思い出したのは最近であったが、実際に触れるのは実に10年ぶりであった
ハリーは早速、スイッチを一つ入れて円盤を回した
そしてすぐに、円盤の1番外側に溝に針を落とした
そのまま機械を眺めながらベッドに腰を下ろして、音が鳴るのを待った
その間は、ヘンリーの顔ではあるが、ハリーは少年が夢を見ている時のような顔になっていた
10年ぶりの感動が、まさにその身を噴水のごとく飛び出そうとその時を待っていたのだ
違う曲の可能性もあった
円盤にも種類があるというのは聞いていた
しかし、ハリーは確信していた
案の定、花からはあの歌が流れ始めた
ハリーはそれに耳を澄まして、ヘンリーの体全身を使って受け止めた
まぶたの裏に書かれた歌詞をなぞりながら、僅かな大きさでメロディーを追った
部屋にはその2つの音が響き続けた
タイプライターの音はすでに、ハリーとヘンリーの耳からは消えていた
1人の魂ともう1人の体が、その音にそれぞれ揺れ続けるのだった




