磁石のような2人
闇の海を儚く漂う流木
そんな気持ちが正しいかもしれない
だが、それはまたしても奇妙な音によって遮られることになった
暗い海に飛び込んだところまでは良かったかもしれないが、いざ闇に包まれてみると、海の底のさらに下の方で多数の生足がペタペタと走る音
そして、助けを求めるような、あの聞き覚えのある情けない声が聞こえるのだ
チェルシーはどうしてもそれを無視してしまうことはできなかった
すぐに膝から顔を上げ、今いる地面にはいつくばるような形で耳を押し付けた
すると、やはり感じた音と同じ情けない声と音がずっと遠くに聞こえた
おそらく、チェルシーが闇の中に入らなければ気づかなかっただろう
絶妙に距離があり、聞き分けの効かないような不安定な音だが、確かにそれは聞こえる
チェルシーの耳がそれを脳に知らせる前にそう気づいていた
すぐにチェルシーはバッグを拾いあげて、登ってきた年輪路の廊下を降り始めた
溜まっていた疲労感を吐き出す事は出来なかったが、今はそんなことを気にしている場合ではない
全く、どこまでいっても手間をかけさせる
でも、何かが欠けていたチェルシーの心が埋まりそうな、そんな気がした
都合よく自分から離したつもりだったが、そんな事実は今のチェルシーの頭から過ぎ去っていた
問題の音の響く空間から、今いるチェルシーの場所は何層か層を跨いでるようで、来た道を覚えながら確実なスピードで年輪路を下っていく
幸いこの時リーパーは殆ど見かけなかった
おそらくその殆どが、その層のバカを追いかけましているからだろうとチェルシーは推測した
少し聞いただけでも、その何倍もの恐ろしい数のナマ足の音が聞こえたのだ
年輪路を駆け下りながらもチェルシーはバッグからリーパーを出し抜いた生肉セットのあまりを取り出し、いつでもリーパー達を出し抜く準備をした
どうやら"彼"はリーパーを躱す方法すら知らないのだろう
まあ、普段の様子から見れば当然のことだった
何度か層を下ると、今度はその"音"は耳に大きく響くほどに入ってきた
いよいよどこかでぶち当たるようだ
その時に掛ける言葉や仕草を一瞬考えたが、リーパーに追われている状況でそんなことをしている暇はない
あいかわらずヒィヒィだとか、普通は誰も来ないのに助けてだとか叫んでいるのが真下から聞こえる
つくづく哀れな男である
自分が行かなければ、お前を助ける奴はいないんだぞ
チェルシーは色のない声でそう1人つぶやいた
そしてついに問題の層の上層へ向かう階段を駆け下りて、またあの広い廊下を前にした
ここまであれだけ音を鳴らして駆け下りてきても全くリーパーに察知されなかったことから、やはり相当数がこの層に集まっているのだ
チェルシーの息はかなり上がっていたが、それでも休んでいる暇はない
すぐに、廊下にチェルシーは半身を乗り出そうとした
だが、叫び声をあげながら何かの血をベタベタと滴らせ、"彼"が風のような速さで通り過ぎていった
逃げるのに必死なためか、チェルシーに気づくことはなく、そのまま上層へ行く階段をスルーしていった
「っ…ハリー!」
チェルシーはすぐにハリーの後ろを追いかけるように廊下に身を乗り出したが、すぐにハッと気づいて息を殺しながら階段に身を引いた
その2秒経たない後に、先ほどチェルシーが目撃にした数の何倍ものリーパーの群れがハリーを追いかけていく
リーパー達がチェルシーに気づくことはなく、ただハリーをひたすらに追いかけ回している様子だった
おそらく、ハリーは血の池でコケたか何かでついた血を落とさずにここまできたようだった
この年輪路に入るまでに血の池で付着した血を落としてくることは常識である
コケて攻略コートをベタベタにした場合はそれを捨てろとまで言われているのに
当然、チェルシーは飲料用に持ってきていた水を使って、靴の裏についた血を落としてから年輪路に入った
ちょっとの血だろうがリーパー達は年輪路の端までやってくるというのに、あんなに血を滴らせながらこんなところに来ればああやって追いかけ回されるのも納得だ
だがしかし、このままハリーを放っておく理由もない
すぐに生肉セットを別の廊下に撒き、ハリーがもう一周この年輪路を回ってくることを期待した
迷宮内の内側とはいえ、おそらくハリーはもう何分も100メートルはある円状の廊下を全速力で走っている
そろそろ体力が切れてくる頃だろう
案の定ハリーはチェルシーの期待した通り、肩で息をしながらもチェルシーのいる廊下をもう一周してきた
リーパー達は通常の犬と違い足の筋肉が骨から崩れ落ちてるせいか、ノーマルの速さから随分落ちていた
だが、それでも純粋な追いかけっこで追いつかれないという自信はチェルシーにはない
なにせ相手は犬である
彼らは走るために生まれたといっても遜色ないような動物なのに
それでも、ハリーはそんなリーパー達から逃げ続けていた
その運動神経と足の速さには、いささか感心する
「この…バカハリー!こっちよ!」
廊下のカーブでハリーが目に入った時、チェルシーはお腹の底から、半ば叫び声のような声を上げてハリーに呼びかけた
ハリーは顔いっぱいに汗をかきながらも、そんなチェルシーに気がついたようだった
ハリーはチェルシーのことがわかると、苦しそうな顔から一転、眉をハの字におろし嬉しそうな顔をした
「…チェルシー!先に行け!止まったら死ぬ!」
ハリーもカスカスの声でチェルシーに精一杯返事をした
あんなに来るなと言ったのに、なぜ来たのか
そんなことを今は聞けない
チェルシーはそのハリーの言葉に頷いて、すぐに上層へ続く階段を駆け上がった
最低でも5層は降りてきたために、ここからあの広場まで戻るにはそこそこの体力を割かれることを予想した
チェルシーはリーパーを分断するために指をナイフで切り、溢れ出る鮮血を生肉に押し付けながらそれをまた別の廊下に続く通路に投げた
ハリーが変わらぬ速さで階段を駆け上がるのを確認すると、チェルシーは次の層へ上がる階段へ向かった
ハリーもそのチェルシーが走っていく名残をしっかりと確認しながら、先ほどよりも全力でチェルシーの後を追いかけてきた
チェルシーは自分の記憶を頼りに、ドンドン上層へ上がっていった
生肉セットはすでに全て撒いてしまったため、自分が道を間違えればハリーもろとも自分までリーパーに噛み砕かれてしまう
長い廊下に差し掛かると、10メートル後ろを走るハリーがまだついてきているかどうかを確認するために、少し進んだところで彼を待った
フラフラになりながらも階段を上ってこちらに向かって走るハリーは、立ち止まるチェルシーに手で早く行けとサインを出した
その後ろからは、生肉セットによりかなりの数が分断されたものの、依然としてリーパーの群れがよだれを撒き散らしながら、2人の体に狙いを定めて足をかき回している
チェルシーが最後の層の手前の層に差し掛かった頃には、驚くことにハリーは疲労感いっぱいの顔になりながらもチェルシーに追いついていた
「あと少しよ!男見せなさい!」
チェルシー自身も休みなく階段や廊下を走り続けたせいで、汗が滝のように流れていた
めまいのするほどの運動量の中で、チェルシーはハリーにそう声をかけた
ハリーにはその言葉に対する返事をする体力も惜しむためか、代わりにチェルシーよりも少し前を走っていった
すぐにチェルシーが後ろを振り返ると、リーパー達もすぐそこにまで、ギラギラと歯を光らせながら迫っていた
これからどうすれば良いのか、上の広場までたどり着けても、そこから行けるところなんてほとんどない
ハリーを助けに来たはいいが、それ以降のことを想定する暇もなかった
どうする
チェルシーは後ろを走るリーパー達を見ながら、頭を巡らせた
だが、意識を少しだけそれに割いた瞬間、チェルシーは体がぐわんと揺れたことに気づいた
そして一瞬の間に、最後の層にあるあの教科書の広場の真ん中に大きく倒れこむと、チェルシーのバッグからストラップで下げていた大鍋が外れ、軽快に音を立てた
チェルシーは一抹の不安を考えた瞬間、運が悪いことにあの広場に出る最後の階段の最後の段でつまづいてしまったのだ
その際にストラップのベルトが足に絡みつき、すぐに起きる上がる事ができなかった
「冗談でしょ…!」
一瞬だ、一瞬走る事以外にものを考えただけでこんな事になってしまうなんて
この時ばかりはチェルシーは自身の走る才能と運の無さを呪った
すぐに醜いほえ声とペタペタと生足の響く音を鳴らして、リーパー達が階段を駆け上がって来た
チェルシーは絶体絶命の中で、今日2度目の死のビジョン感じ取った
汗はすでに冷や汗に変わり、体の底から冷たいものが込み上がってくるのを感じた
「チェルシー!」
背後でハリーが情けない声を上げたが、もう遅い
チェルシーはその瞬間本気でハリーを恨んだ
元はと言えば、お前を助けに来なければこんなことにならなかった
お前のせいだ
だが次の瞬間、すぐに自分の選択をとった自分が浮かび上がる
元から2人で攻略を行なっていれば、こんなことにはならなかっただろう
少なくとも助け合っていれば、知恵を共有していればこんなことにはならなかっただろう
恨み?
そんなものはおこがましいにもほどがある
自業自得だろう
体の奥から湧き上がった冷たいものの正体とは、まさにそれだった
ハリーのせいでは無い
自分のせいである
チェルシーはハリーの方を向けなかった
なぜなら、すでにリーパーの一匹が自身の顔面の30cm前まで飛びかかってきていたからだった
死とは訪れる瞬間、考える暇すらない
空虚と虚無、色でいえば白か黒
そのどちらかが視界に広がるだけで、あとは終わりだ
それがチェルシーの感じた死という物だった
だが、今回も違うようだった
少なくとも"まだ"
ゴインッという鈍い音が響くと、目の前にまで迫っていたリーパーが階段の奥へと吹っ飛んでいった
リーパーの群れは、空中を舞うリーパーを避けながらも、次々とチェルシーのいる手前でジリジリと爪の生える生足で地面をこすった
その存在しない虚ろな目の奥が見つめるのは、チェルシーの大鍋を片手にリーパー達を威嚇するハリーであった
「下がれ!お前ら下がれ!クソッ!」
ハリーは大鍋を力一杯振り回し、リーパーの群れに対して体で表現できる最大の威嚇を演じていた
チェルシーは自身の死を免れながらも、そんなハリーを目の前に唖然としてしまった
「チェルシー!立って!逃げるぞ!」
ハリーは足を震わせながらも鍋をリーパーを達に振り回し、果敢にもリーパーと対峙し続けていた
チェルシーはすぐに我に帰り、落とした荷物を直しほつれた足を解くと、すぐにハリーの後ろに回った
相変わらずハリーはリーパーに対して大立ち回りをしているが、それにもそろそろ限界が来ていた
「ハリー!こっち!外に逃げるのよ!」
チェルシーが大きな声を上げた時、今度はハリーに勇敢な一匹のリーパーが飛びかかった
そのままハリーは押し倒され、リーパーは覆いかぶさるようにしてハリーの喉元を狙った
「畜生!このクソ犬ども!」
ハリーがリーパーをどかそうとするも、すぐに別のリーパーがもみくちゃのハリーに飛びかかろうとしている
その前にチェルシーは持ってきていた発煙筒を擦って火をつけると、リーパーの群れの中にそれを放り込んだ
リーパー達が発煙筒にたじろいでる間に、チェルシーはククリナイフを開き、ハリーに覆いかぶさるリーパーの頭にそれを叩き込む
ゴリュッという鈍い感触が伝い、腐った血がハリーの顔に飛び散った
脳みそを飛散させぐったりとしたリーパーをハリーはすぐに蹴飛ばして、差し伸べられたチェルシーの手を取って立ち上がる
「あ…ありが」
チェルシーはそれに頷きもせずに大鍋を抱えると、ハリーの手を力一派引いて、あの外へとつながるアーチ状の出口へ走った
ハリーはといえばそのチェルシーの強烈な引きにがくんと首を揺らしながらも、よたよたと縺れながら足を動かした
発煙筒の火はすでに消えかけており、リーパー達が再び2人を狙う
刹那一瞬のタイミングで2人は外の石段に飛び出たが、石段のことを知らないハリーはその強烈な勢いのまま迷宮から空へ落ちそうになった
ギリギリでチェルシーが手を引いたおかげでハリーが落ちることはなかった
2人はその場で立ったまま安堵を覚え、へたり込みそうになるところだった
しかし、すぐにチェルシーは背後のリーパーのことを思い出し、ハリーを自身側に思い切り引いた
再びハリーは思わぬ引張力により、チェルシーを押し倒すような形で石段に倒れこんだ
そして次の瞬間、そのアーチ状の出口から、リーパー達が滝のような勢いで何匹も飛び出していった
勢いを殺せなかったリーパー達はそのまま、悲壮な声をあげながら、血の池へと真っ逆さまに落ちていった
中には間一髪で石段にとどまることのできたリーパーもいたが、そのほとんどが体から煙を上げ、夕陽の光により全身を焼かれていた
キャンキャンと声をあげながら石段で骨になっていくリーパーを驚いた瞳で眺めながら、ハリーとチェルシーはため息をついた
ハリーはそのままチェルシーの胸に顔を下ろしたが、すぐさまチェルシーはハリーの頬をぶち、体を押しのける
「…バカね、1人じゃ何もできないくせに」
チェルシーはひゅうひゅうと音を鳴らす風に髪の毛をなびかせながら、ハリーのことを見下した
チェルシーの足元で体全体を膨らませながら息をするうつ伏せのハリーは、しばらく動かない
しかし、息が整うと全くその通りとチェルシーに返した
「私が助けに来なかったらどうなってたかしらね、今頃標本になっていたところよ」
返す言葉もない、上体だけを起こしたハリーはまた呟くようにそう述べた
「そうだな…君がいなかったら、骨のまま年を越すことになってた…」
「すまない、助けてくれてありがとう」
申し訳なさそうな苦笑いでチェルシーの顔を見るハリーの顔はどこか青白かった
あれだけ走れば幾ら何でも疲れるどころか、もうしばらく起き上がれないのではないだろうか
チェルシーも張り詰めた体に覚える疲労感を殺しながら、ハリーに対しては強い感情を持ち続けた
本当なら、今の自分たちの状況に喜んでいたいが、自分とハリーはそんな関係ではない
「…なんでここまで来たのよ」
チェルシーは城郭のトンネルの時と同じような、愛情が微塵もしみていない言葉を、同じく冷たい声でハリーに投げかけた
「…………………」
ハリーはバツが悪そうな顔をしながら、下唇を噛んだ
そして、夕日に目を逸らしながらしばらく迷宮をこする風に揺られた
チェルシーも蔑んだような顔で無言のハリーを眺め続けた
「あんな状況で、1人残れるわけないだろ」
そうだろう、その通りだ
きっと誰でもこのハリーの選択をしていたことだろう
チェルシーも自身も素直にそう…と答えればいい思ったが、天邪鬼というか、納得できない感情がチェルシーの中でハリーに牙を剥いた
「あんたがいなければね、無駄な物資を使わずに済んで、予定も狂うことがなく、時間もきっかりに攻略できてたはずよ」
「それを、あんたが台無しにしたんだから」
チェルシーの心は荒れていた
たった数時間、チェルシーの心は人と関わらなかっただけで砂漠のように乾燥し、風に削られた岩肌のように尖っていた
死のヴィジョンというものを今日だけでいくつも見た気がした
それがもたらす精神と心のダメージが、言葉となってチェルシーの口からハリーへと投げかけられていた
色々な感情が入り混じり、喜怒哀楽が数秒に何度もシャッフルされるような不安定な状態だった
「なら、なんで僕を助けにきたのさ」
ハリーは相変わらず目を逸らしながら、そんなチェルシーに言葉を投げ返した
チェルシーはそれに少しだけ憤りを覚えた
こいつは何を言ってるのかわかっているのか
友達とはいえずとも、幼馴染を捨てていくほどに人間の感情を捨てろというのか
こいつは自分のことを血も涙もないような女と捉えているのか
だがハリーはすぐに訂正した
「すまない、助けてもらったのにそんな言い方はないよな…」
「ごめん…」
ハリーは再びうつむくように下を向くと、そのまましばらく口を開かなかった
「そうよ、いい?あんたは私に感謝すべきなのよ?言葉だけじゃなく心の底から
あんたを助けたのなんて気まぐれでしかない、足手まといを増やして私になんの利益があるのかしら」
チェルシーは嘘をついてばかりだった
足手まとい、きっとそんなわけない
ハリーがいれば、できることがたくさんあるだろう
なにせハリーは木登りが得意らしい
あの幹を退かせなくても、ハリーが先に登って自分を引き上げでくれる
ハリーは力が強い
あの木の幹くらいならなんとか壊せるかもしれない
ハリーは自分よりも成績が悪くて、人付き合いも下手くそで、いいとこナシ
そんな幼馴染のハリーに対してなら、気を使って言葉を選ぶ必要もない
気まぐれ?
そうではない
あの情けない声が聞こえた時、チェルシーは少しだけ嬉しかった
すでに気持ちは一人ぼっちで、冷たく冷え切っていたのだ
そこに暖かなスープのような悲鳴が、流れ込んできたのだから
「ふん、それにあんたに暴力を振られた事、私は忘れてないからね」
チェルシーは再三蔑むような目でハリーを見下した
そう言葉にしてから、チェルシーは再びハリーに振られた暴力の感覚を思い出した
あの時、チェルシーは心の底からの恐怖を感じていた
それはリーパーや死がもたらす鋭い恐怖とはまた違うものだった
自分が考えていた事とまったく違う事実が存在した時のような、焦りからくるゆっくりと後から侵食してくる恐怖がハリーに対して感じられた
そのせいで、チェルシーは強気な格好をしながらも二の腕に震えるような寒気を感じた
当のハリーはそんなことに気づく様子も、わかってる様子もなく、悲しそうな渋そうな顔ですまない…と呟くだけだった
「……………………」
風が靡く石段で、それからチェルシーもハリーもまったく口を開かなかった
自然の音がその沈黙を一層際立たせる
チェルシーも自分が作り上げたその空気感に、段々と耐えられなくなってきた
よくよく考えれば、ハリーが怒ったのも自分に非がある
結局、今ハリーにこうやって言葉を吐くだけで随分と気分が良くなっている
チェルシーはハリーに対して、ちゃんと向き合わなければならないのも知っていた
だが、こう強く出てしまった手前、簡単に引き下がるわけにもいかない
事実、ハリーが選抜に選ばれるというのは間違っているとチェルシーは思っているからだ
しかし、現実はそんな事を語る段階をすでに終えている
こんなことを考えるだけ無駄なことは、チェルシーもうんざりするほどわかっている
それでも、なかなかそういう姿勢になることは難しい
素直になるということは、チェルシーにとってなにより辛いことのように感じられた
そんな形にならないことを考えているうちに、チェルシーは深いため息をついた
2人の自分による、無限に続く意味のない問答がうるさく脳内で響いている
それに耐えられなくなった頃に、仕方がなくチェルシーはハリーに対して少しだけ感情を開くことにした
「バカね…もうごめんで済むような次元じゃないのよ…」
チェルシーは大げさにため息をつきながら、わざとらしく顔を手で覆った
チェルシーとしては、出来るだけハリーに罪悪感を与えたかった
意地悪で陰湿なことかもしれないが、それが自分の"性"であるのだから仕方がない
トンネルの時のお返しであると考えれば、そんな感情は消えた
「さっきだってホントに危なかった…
あんた何にも対策してないじゃない…
教科書読んでない証拠ね」
チェルシーは指の間からハリーを眺めながら、嫌みたらしく説教のような言葉を吐いた
それがどこかチェルシーの感情を楽にさせる
相変わらずハリーは青白い顔を下げて俯いていた
そして、先ほどよりも細い声で、"ああ"と漏らした
「あんたは自分がダメだっていう自覚が足りないのよ…
知識だって経験だって、何一つとして足りてるものはないし、殊勝な部分もゼロ
これを機に自分を見つめ直すことを習慣づけるべきね」
「それに、人の心がわかってない
今の私の感情が分かる?
コミュニケーションがてんでできてないわ、ちょっとは気を使って生きなきゃダメよ」
チェルシーは次は腕を組んだ
偉そうな姿勢をしながら足も組んだ
再び蔑む格好をしてハリーに言葉の槍を突きつける
「まあ、当然よね…
聖堂院であんな生ぬるい生活をしてれば、そうなってしまうのもわかるわ」
「自分を見つめるのも、他人を見つめるのも下手くそよね
だから人と上手く話せないのよ
わかってる?自分がコミュニケーション弱者って事」
チェルシーは自分でそう言いながら、"ああ、なんて嫌味な奴だろう"と感じた
ネチネチとそんなことをいつまでも言って
自分がハリーだったならば、今すぐ声の聞こえないところまで退散するだろう
だがチェルシーはやめない
なぜならこの姿こそが、チェルシーの本能の一部であるからである
人を蔑んで、随分と偉そうに語り散らし、自分より安定しない人間を論破して全否定する
言葉にすれば酷い様である
そこまでとは行かないものの、少なくともそういう感情がチェルシーの本能の一部に組み込まれていた
それがハリーを前にすると、思わず飛び出てしまうのだ
それは自分でもわかってはいないが、チェルシーの中でも、とりわけ素直な姿勢であった
言い換えればハリーとは、チェルシー自身の本能的な部分を出せるような相手であるということだった
それは、好きか嫌いかによるものではなく、もっと深く長い時間と記憶からくるものだった
誰しもこの世に生を受け、誰かと接して生きてきたならば、そういう人間が1人はいる
それが自分でわかっているか、わかっていないかはさほど問題ではない
ただ、それを持っていないか持っているかの違いである
チェルシーはハリーがそれに該当するので、一応は後者であった
ハリーがどう思っているかはチェルシーは分からなかったものの、少なくともチェルシーはそういうつもりだった
「もういいわ、こんなことをあんたに愚痴愚痴言ってもしょうがないし…」
チェルシーはまたわざとらしくため息をつき
片目だけを開けてハリーをみてみた
変わらず、渋そうな顔でボーッと一点を眺めている
これがハリーなりの反省の姿勢なのだろうか
そんなところまで、ハリーのことをチェルシーは知らない
「…あんた自分が変わる気あるの?」
チェルシーはひどく薄い声でハリーにそう声を差し伸べた
チェルシーにはまだ色々な愚痴や感情が残っていたが、満腹感で言えばもう十分だった
いろんな言葉を吐いた後に、チェルシーはそれをぶつけたハリーに対して、少しだけ申し訳ないという感情が生まれ始めていた
後は、ちょっとだけ救いの言葉をかけて、ハリーもチェルシー自身も納得して、この会話締める所までを想像しながら、チェルシーは今度は両目を開いてハリーをみた
ハリーは相変わらず"ああ"と気の無い返事をしながら、ボーッとした目をまた別の方向を向けた
ハリーはどこか遠い場所にいるようだった
目がとろんとしていて、体を揺すればそのまま崩れ落ちてしまうような、そんな気がした
無理もないのかもしれない
あんなに走った後にこんなに罵倒されて、説教を聞かされて
こんな状態でなければ、乗り越えることができないくらいにストレスを取り込んでしまったのだろうか
そう思うと、チェルシーは少しだけ焦った
「ねえちょっと…聞いてんの?」
チェルシーは上体をハリーの方へ近づけるて、ペチッとハリーの頬を軽く叩いた
ハリーは別に驚きもせず、ただ"ああ"とだけこぼした
相変わらず目はどこを見ているか分からず、先ほどよりもさらに淡白になった顔は、まるでミイラのように痩せこけて見えた
チェルシーはそんなハリーに違和感を覚えた
よく見ると、ハリーの黒目は焦点を捉えられず、止まってもすぐに泳いでいく
顔は死人のように青白く、額からは溢れるほどの汗が吹き出ていた
そして何より、ハリーはそんな自分に気づいていない
体に異常をきたしていることに対して、ひどく無関心な精神状態であるようだった
「ねぇ、どうしたのよ、大丈…」
ただならぬ感覚を覚えたチェルシーがハリーの肩を軽く叩いた
それはとても弱く、とても軽い、"えづき"のようなものであった
だが、ハリーは迷宮の壁に傾いたと思ったら、そのまま顔を迷宮の顔に打ち付けて、首を変な角度に曲げながらズルズルと壁に沿って体を崩した
「な…!どうしたのよ!ハリー!」
チェルシーは着ぐるみのように軽くなったハリーの体が、コチコチに固まっていることに気づいた
当のハリーはと言えば、ボーッとした顔から一転、悪い夢でも見たかのような、呆然としつつも焦ったような苦しそうな顔をしながら固まっている
うううとい苦しそうなうめき声をあげながら、ハリーは"分からない"と漏らした
それからハリーは雷にでも打たれて、体を動かすことも舌を回すこともできなくなったのか、プルプルと腕や足を痙攣させた
「ちょっと!しっかりしなさい!」
チェルシーは先ほどのやり取りから一転、この驚くべき事態に困惑した
ハリーの背中や肩をさすり、声をかけたが、なんとなく効果がないようであった
ハリーの体はハリー自身が動かすことができないようであったが、チェルシーが動かすことはできるようであった
チェルシーは慌てながらもすぐに、ハリーに重たいバッグを降ろさせ、人間が横になる上で楽な体勢をハリーにとらせた
ハリーの攻略コートは血の池の血でパリパリに固まっており、チェルシーはそれをハリーから脱がすのに一苦労した
やっとの事でハリーから身ぐるみを取り去ると、ハリーの右腕に血の池で付着したものとはまた違う鮮血がべっとりとついていたのに、チェルシーは気づいた
「なにこれ…あんたどうしたのよこれ!」
その鮮血で汚れたハリーの右腕には釘でも打ち付けられた後の木材のように、ぽっかりと暗く深い穴が開いていた
そして、その穴から、虫が這い出るように赤黒い血がどくどくと流れ出てきている
沖に打ち上げられた魚のごとく、ハリーは口をパクパクとさせていたが、既に血の流しすぎでその口すら動かなくなっていた
ハリーの額に手を当ててみると、人が発するものとは思えないほどの高い温度がチェルシーの手に帰ってきた
なんとなくボーッとしていたのはまさに、この発熱からくるものらしかった
そこで、チェルシーの頭では再三、ウィンストンの言葉が鳴り響いた
"リーパーは牙に神経毒を持っているんだよ、それも即効性の高い厄介な毒さ"
ハリーのこの有り様や血の流れ方からして、この傷は間違いなくリーパーによる咬み傷であった
そして、あのリーパーの牙に含まれている毒によりハリーの体は麻痺しているのだ
おそらく、押し倒された時に噛まれていたのだろうとチェルシーは予想した
あれからもう10分ほど経っているため、当然体全体に毒が回りきり、症状が表面化するほどになっているようだった
ハリーはついには顔面まで硬直してきたらしく、表情は焦りからくる苦しみの顔のまま固まっていた
チェルシーはすぐに金属製の水筒に入れて持ってきた飲料用の水でハリーの傷口を洗い、慣れた手つきで腕の止血をした
この毒はまさに、誰かがリーパーのために生み出したとしか思えないような凶悪さを含んでいるとチェルシーは感じた
麻痺だけではなく、心拍数の増加や血流の促進により、対象者に多く血を流させることでそれだけ他のリーパーを呼び寄せるだけの匂いを生み出させる
出血多量による意識の混濁や、高い発熱による脳機能の低下も、まさにリーパーの小さな脳や体の進化によるものだとはやっぱり思えなかった
誰かが、意図的にリーパーを造った
それも性格の悪い、自分以上に陰湿な誰かが
事実である可能性は薄いが、チェルシーはそう思うことにした
ハリーはそのまま意識を失ってしまったようで、目玉が上を向いたまま頭をだらんと石段に投げ出していた
死んでいると言われてもおかしくない様子だったが、胸に手を当てると心音は聞こえていた
チェルシーはそんなハリーを眺めながら再び深いため息をついた
罪悪感を植え付けるつもりが、おそらくハリーは途中からほとんど聞いていなかったことだろう
朦朧とした意識の中で、また短気なチェルシーが怒っているくらいにしか思ってなかったのではないだろうか?
でも、まあそれでもよかった
体が麻痺する苦しい感覚で、少しは迷宮の恐ろしさを理解したことだろう
自分が言っていた、恐ろしい世界だということをわかってくれるだろう
それを踏まえたのならば、チェルシーはハリーが付いてくるのも悪くはないのではと思い始めていた
すぐにそういう感覚は首を振って跳ね飛ばしたが、次かから次に、まさに無限に体の奥底から湧いて出てきた
天邪鬼という言葉に、その一連の心の動きをまるで幼子を見るような目で見られているような感覚がした
そう考えると何だか恥ずかしかった
そして、チェルシーはハリーが付いてくることに何をそんなに反発していたのか、自分でもよくわからなくなっていた
本当は付いてきてほしいのではと考えたこともあったが、それだけは1秒もかからずに頭の中で否定した
そして、勝手に付いてきたという都合のいい解釈で終えた
でなければ、チェルシーは恥ずかしくて死んでしまうかもしれなかった
「私も本当にバカね…」
チェルシーは長いハリーの髪を撫でながら、沈みゆく夕日を眺めた
オレンジ色の光が雲の海に沈み、暗い夜がもうそこまできていた




