死とは
無限に続くかと思われた木々と迷宮も、3日ほど登っていれば終わりが見えてきた
なぜなら、どんどん木々が少なくなっていって、迷宮の先が肉眼で捉えられるようになったからである
途中、何度も迷宮内部に入れる場所があったが、内部に入ったところで先に進むための階段や通路は木々が塞いでいた
しかし、いつまでも木々を登り続けることはできない
一層前半部である"年輪路"を通っていかなければ、後半部である"天界路"へ行くことは物理的に不可能なのだ
2人はそれを木々の頂上まで到達し、空高くそびえる天界路のある塔を見上げてから気づくのだった
2人のいた木々は大迷宮のだいぶ外郭に位置する場所であった
加えて天界路は年輪路と比べて塔も5分の1ほどに細く、この木々から天界路に直接向かうのは現実的には不可能であった
仕方なく外の木々を下り続けている間も、2人は絶え間なく口論を続けた
3日目になれば、チェルシーの症状も落ち着いて、いくらか機嫌はマシにはなったものの、それでも回数にして100回以上はそういった言い合いをしていた
木々の迷宮は終わりに近づいていたが、2人の口論に終わりが見えることはなかった
「なによ、不満があるならちゃんと分かりやすく説明できるように努めなさい!
あんたがモゴモゴしてるせいで、私はあんたがなにを言いたいのかわからないわ!」
「待てよ、嘘をつくなチェルシー!
君は僕の言ってることがわかってるはずさ!
そうやって、いつも理解していないふりをしているだけだろう!
毎回、僕が意見を言ってもそういう態度じゃないか!おかしいよ!」
「ふりなんかしてない!あんたの説明下手を人のせいにしないで!
それともなによ?私の理解力が足りないとかまた言い出すのかしら!?」
「それは事実さ、チェルシー!
君は嫌いだったり億劫なものに対してはいつも理解しようとすらしないじゃないか!
君がそんな態度なら、僕がどれだけわかりやすくまとめたところで意味がない!
僕だってうまく話せるように努力しているつもりなのに、君こそ理解する努力をするべきだ!」
「何…?何様のつもり!?それもいつものアドバイスだっていうのかしら?
それに話せるように努力をしてるですって?
そんなの微塵も感じられないわ!
アドバイスをする力だけは一丁前のようだけど、笑わせないで!
あんたの言うことなんかに説得力なんて一つもないのよ!」
「ああそうかい、ならいつまでもそうやって癇癪を撒き散らしていればいいさ!
だがきっと後悔するぞ!
こんなことを言ってくれる奴なんて、もう君の前に現れることなんてないからな!」
2人の会話はいつもこんな調子だった
最初は静かだが、お互い揚げ足を取ったり、皮肉を言ったりすれば、すぐにゴングのベルが鳴った
ハリーも最初はこんな争いに何の意味も見出せなかったが、何度もやっているうちに自分が言い負かされているのが悔しくなってきた
2、3回言い負かされた後から何度もチェルシーに対して反抗するようになったが、それでも一度でも勝てたことはなかった
チェルシーは本当に口が達者で、口喧嘩にとても強いのだ
どこでそんな力を鍛えたのかは知らないが、ハリーが知る限りでは、彼女より口喧嘩が強い人物はいなかった
ハリーは、チェルシーの言っていた通り、努力も何もしてこなかったせいで、口喧嘩やその類にはめっぽう弱かったが、それを差し引いたとしてもチェルシーは強かった
「余計なお世話だって、何度言わせれば気がすむのかしら?
あんたは学習しない虫と同じよ!
同じことを何度も何度も私に言わせて!
前に私が行ったことを最初から思い出してから、話すべきなんじゃないかしら?」
「わかったわかった、よーくわかったぞ
君が世界一正しくて、僕が世界一間違ってるだけだったな?
理解したよ、君は神様で言うことなすこと全て許されるわけだ
気に入らないことは全部考えるのをやめて、投げ出すのも君だけは許されるわけだ」
「自分に不利になったら話を逸らすんじゃないわよ!この嘘つきのろくでなし!」
「いいさ、何とでも言えよ
言っておくが君もやってることだ」
ハリーが口論を取りやめる時はいつも、この口上文句を使っていた
その後どれだけチェルシーが罵詈雑言を吐こうが、もう話を聞く気がないと言う意思表示でもあった
その後のチェルシーといえば、怒鳴りながらハリーのバッグを後ろから蹴ったり、前に立ちはだかってハリーの体を細くか弱い腕で押しのけたりした
ハリーはそれに返事も応答もせずに、足早にチェルシーの10歩先を歩いた
チェルシーもハリーがそんな態度を取れば、じきに諦めてぶつくさ言いながら、歩くのに集中するのだった
2人の頭を冷やすためには、それがいちばんの方法であった
でなければ、朝から晩までこれが続くのだ
流石に、ハリーもチェルシーもやってられなかった
大迷宮内部につながる入り口を見つけた時には、2人の機嫌も少しは薄まっていた
だが、依然としてどちらも口を開く気分にはなれなかった
幸い、その入り口には木が入り込んでなかったために、3日前とは違いあっさりと内部に入ることができた
中の構造は2人が通ってきた年輪路とほとんど変わらなかった
天井こそ草木や細い木々が絡まり、下層と比べて廃墟のような出で立ちであったが、逆にここまでくるとリーパーも攻略者もおらず、不気味なほどに静かだった
外装や下層への階段は崩れ去っていたり、小動物が隅に巣を作っていたりもした
下層のように血生臭く緊張した空気感とは違った、堅牢な静寂がこの年輪路にはあった
2人はその静けさに合わせて、沈黙のまま年輪路の廊下を歩いた
上層へ行く階段を上っている間に、ハリーはその静けさに耐えられなくなって、思わず話しかけた
「ごめん、さっきは言い過ぎた
反省してるよ、僕も冷静じゃなかった」
静けさに冷まされた心は、チェルシーに謝罪することすらも、何の滞りもなくできた
もはや口論のたびにこうやって謝っていたから、慣れてしまったのかもしれなかったが
今であれば何でも話せそうだった
「その通りよ、よく吠える犬はバカな犬にすぎないわ」
チェルシーは先ほどとは違った穏やかな声でそう言った
言葉こそ悪気を込めた嫌味なものだったが、声色自体には怒りや激情、不快や明確な悪意などは感じられなかった
落ち着いた、親しみのある声であると、ハリーの狼耳は聞き取った
この耳を得てからそういったことが不思議とわかるようになった
なのに口論は絶えなかったし、回数も前と比べて増えたていたので、有用に使えているかと言えばそうではなかった
チェルシーはというと、そんなハリーに見られたような肉体の変化はなかった
猫人間になることも、ハリーと同じく狼になることもなかった
足が速くなることも、前よりも性格の歪みが良くなることもなかった
彼女が一部分の変化を隠しているだけかもしれないが、目に見える体の表面などは変わっていなかった
ハリーにとっては、チェルシーは迷宮に入った後もいつものチェルシーだった
「何故僕は体が変化して、君は体が変化しなかったんだろうな」
ハリーは歩きながら、チェルシーにそんなことを聞いた
「そんなの知らない…考えても無駄だっていったのはあんたでしょ」
チェルシーは足元に散らばった壁の欠片を蹴りながらそう答えた
チェルシーの数歩先を歩くハリーを、壁のかけらは軽快に追い越していった
「まあ、それはそうなんだけど…
いざこの体で何日か過ごしてみると、不便なこともいっぱいあるんだ
できれば、一時的なものであって欲しい
特に用をたす時とか、尻尾や毛が邪魔でしょうがない」
その時、ハリーの尻尾は無意識に揺れていた
ふさふさで灰色の尻尾は、あまりハリーの意思で動かすことはできなかった
"しっぽを振るという行為"自体が、ハリーの頭の中に存在しないせいである
「何…?あんたまさか尻にまで毛が生えてるっていうの?」
チェルシーは少し目を丸くしながら、そう聞いてきた
彼女の質問は事実であり、ハリーの尻の周りは尻尾の付け根ということもあって、毛もそれなりに濃かった
もちろんこんな体になる前はそんなことはなかったのだが
「こんな事なら、ウェールズの野良犬に糞の仕方を教えてもらうべきだったよ」
ハリーは冗談を言うと、最近滅多に笑わないチェルシーが、困惑交じりに笑った
彼女の笑顔は実に久しぶりに感じた
ハリーはまた、しばらくその横顔に見惚れてしまった
「犬語を勉強しなきゃいけないわ」
「たしかに」
2人は静かな場所で、大きく、煩く声を上げて笑った
先ほどまで喧嘩をして、バラバラだったはずの2人の感情は一瞬だけ一つになった
ハリーは笑いながらも、片目でチェルシーを盗み見た
彼女は腹を抱えながら、目を細くしながら大笑いしていた
ハリーはそれを切ない顔つきと気持ちで眺めた
いつもこうであれば、どれだけお互い幸せで気が楽な事だろうか
2人とも笑顔ばかりで、顔をしかめることなんてない攻略が、どんなに嬉しいことか
ハリーは初めて、チェルシーの掲げる理想に触れた気がした
チェルシーはハリー以上に安定を求めていた
みんなが笑顔で、ストレスを感じない世界を夢見て、そして目指していた
どんなに気に入らないハリーとでも、こうやって冗談を言い合って笑うのが1番であると、彼女は思っているのだ
喧嘩っ早い性格の裏側に、そんな平和的な考えを持っているというのは、ハリーにはとても美しいとも感じるのだった
ハリーは自分が汚い感情や、やけに冷めた感情を持ち合わせた、醜い人間であることを知っている
だからか、チェルシーのような人物の事を理解するたびに、自分の醜さが嫌になった
反対に、チェルシーの心に触れると、ハリーは暖かい情熱や優しさを感じた
ハリーは安定というものが、どういうものかは知っていた
もちろん安定というものがそこまで長く続くわけがないのも、本当の幸せにつながるかと言えばそうではないというのも知っていた
安定とは、儚く、小さく、ささやかで不安定なものであるということを、ハリーはチェルシー以上に知っていると自負していた
そして、そんな物を求めるチェルシーのことが切ないののだ
チェルシーを見たり理解したりするほど、切なくて悲しいという感情が溢れてしまうのだ
端的に言えば、ハリーはチェルシーのことが好きだった
恋愛感情だとか、そんな大層なことではない
人間的にも性格的にも、彼女のような人物が好きだという話で、外見だとかそういったものではない
コントラストがある人間性と性格に、ハリーは芸術性すら感じるということである
美しいものを美しいということと同じように、チェルシーの良さはハリーの好きな良さと合致する
ハリーにとって、人間らしい人間というものはまさに、チェルシーの事であった
2人は思う存分笑い終えた後に、再び静かな年輪路を歩き始めた
チェルシーは不機嫌な顔をやめ、ハリーは背中を丸めるのをやめた
2人はその後はあまり喋らなかったが、ハリーの耳に不快な音は聞こえなかった
口論のない静かで短い関係を、2人は大切に過ごした
天界路への入り口を前にする頃には、チェルシーはスキップをしていたし、ハリーは鼻歌を歌っていた
2人よりも先に進んでいた先遣隊らしき攻略者達が、天界路の入り口付近で何人も力尽きているのを目撃した時には、流石に2人ともいつもの2人に戻った
「私たちと同じ期の攻略者たちだわ…」
チェルシーは切り株のど真ん中にそびえ立つ、鉄パイプのような天界路を前にそう呟いた
天界路は年輪路の3分の1ほどの直径しかなかったが、そのわりには年輪路をはるかに超える長さがあった
何しろ、二層の象徴である半径2000m以上の球体の迷宮が、片手で丸を作った時に収まるくらいしかないのだ
ハリーは身震いした
「見て、セオルの攻略協会のタグよ」
チェルシーは力尽きた攻略者の持ち物やコートを漁って、血まみれのドッグタグを拾い上げた
ハリーは思わず顔をしかめた
「よくそんなに躊躇もなく死体に触れられるよな」
ハリーは血の池や年輪路の道中で、何度も死体を目撃してからは、少しは慣れていたものの、いざ目にするとなるといまだに顔をしかめずにはいられなかった
よくよく考えれば、ウェールズや簡易迷宮にこんな死体があれば大騒ぎになっているずだった
こんなに自然に死体が転がっている状況はハリーにとっては異常だった
目の前の死体自体は比較的新しく、匂いもうじも湧いてはいなかったが、ハリーは彼らに触るという気にはならなかった
チェルシーはそんなハリーの気も知らず、次から次へと死体を調べていた
死体たちは5人仲良く天界路の壁にもたれたまま死んでいた
右の2人は女性と男性で、2人は手を繋いだまま死んでいた
どちらも首筋を何かに食いちぎられ、上半身のシャツは真っ赤に染まっていた
ハリーは生気のない目で彼らを見つめた
「この人たち…わざとここで死んだのよ」
チェルシーは左端の太った攻略者を探り終えるとそう呟いた
攻略者たちの血で濡れたチェルシーの手には、あるメモが握られていた
メモも血に濡れていたせいで、ハリーからははっきりとその文字を目にすることはできなかった
「これ見て…この人たちが残したメモよ」
ハリーはメモを受け取ると、目を細めて全体をにらんだ
メモには、汚い字でこう書き殴られていた
"我らは死してなお攻略者なり"
ハリーは最初、その意味がよくわからなかった
首をひねって、意味もなく別角度から血濡れのメモを眺めたところで、理解しきることは不可能だった
「大迷宮の攻略者ならば、後進の者のことを念頭に置くのは当然のことよ」
チェルシーは死んだ5人の攻略者たちにそれぞれ十字を切っていた
ハリーは彼女の言葉をヒントに、彼らになって彼らの意思を考えた
「迷宮の中で死ねば、亡者になるからここで死んだってことかい?」
ハリーが答えを導き出す時には、チェルシーは5人全員への祈りを終えていた
ハリーはメモを太った攻略者の攻略コートのポケットに戻すと、彼らの顔をしゃがんで一人一人眺めた
幸せそうな顔をしている攻略者は1人もいなかったが、苦い顔をしているものもいなかった
どちらかといえば安らかに、彼らはなんの滞りもなく眠っていた
「亡者の呪いを受ける範囲は迷宮内部と血の池に限られるの
だからこうして迷宮の外にいれば、亡者にならずには済むって話よ」
チェルシーは潮風にオレンジ色の髪をなびかせながら、彼らを悲しそうに見つめていた
ハリーは頭の隅にあった、足をつかんだ亡者のことを思い出した
すぐ後に目の前の5人を見ると、なんだかやるせない気持ちになった
どちらにしろ、この迷宮での死とはろくなことにならないのはよくわかった
「亡者のことは考えるのはよそう
頭が痛くなるよ」
ハリーは膝に手をついて立ち上がると、5人の死体から離れた
転輪路へと入り口付近は、年輪路に生い茂っていた木たちが伸び、小さな森林のようなものを作っていた
ハリーはあてもなく中を少しだけ覗いた
だが、森林の奥の方で攻略者のものらしき持ち物が散らばっていたり、長軸つるはしが刃を上向きにして立てられているたの目にしてからは、すぐに覗くのをやめた
チェルシーはというと、まだ5人の攻略者を前に彼らを見つめていた
「チェルシー」
ハリーはチェルシーを呼んだが、チェルシーは反応しなかった
ハリーがゆっくり近づくと、チェルシーはハリーを一瞥してまた5人に向き直った
「チェルシー、どうした?」
ハリーはチェルシーのすぐ後ろまで歩みを進めた
すると、チェルシーはハリーを見ずに、はっきりとした声で喋り出した
「私が死んだ時、あんたは私をどうする?」
チェルシーの声は妙に重かった
ハリーは少し唸って考えてから、慎重に選んだ答えを返すことにした
「僕らは死なない、君も絶対死ぬことはないし、死ななければそんなことを考える必要はないよ」
ハリーが考えた中では最高の答えだった
どうなら、チェルシーはそんな答えを求めていたわけではなかったらしいが、ハリーの言葉にそうねと一言頷いた
ハリーはまた深く腕を組んで唸った
「もし、もし君が死んで僕が生き残ったとしたらだよ?」
ハリーは腕を組みながら、チェルシーを見た
チェルシーも振り返ってハリーを見た
「罪悪感に苛まれなれながら、亡者になった君をこの手で殺すしかないな」
ハリーは滅多にしない、鋭い目でチェルシーの奥底を覗いた
チェルシーはといえば、珍しいハリーに少し驚いたのか、重みのある言葉にたじろいだのか、あまりしない弱気な表情をした
そして、悲しそうな笑顔でそう…と呟いた
ハリーの狼耳は、チェルシーの感情を正確に捉えた
彼女は明らかにナーバスになっていた
ハリーは鋭い目をやめて、しょんぼりとするチェルシーに対して今度は手を横に広げた
いつものおどけたポーズだった
「安心しろよ、君を殺した後は僕もここを飛び降りて死んでやるから」
チェルシーはそんなハリーの軽い言葉を聞くと、暗い顔をしながらも微笑んだ
「あんたにそんな勇気はないわ」
ハリーはチェルシーの皮肉に思わず笑った
チェルシーが死んで自分が生き残った時に、果たして自分の言ったことが実行できるかなんてことは正直わからなかった
もしかしたら、亡者になった彼女を殺せずに、逆に彼女に頭をかじられて死ぬかもしれない
そうしたら、チェルシーは延々この迷宮を亡者となった体で彷徨い続けるかもしれない
チェルシーの言う通り、もしチェルシーを殺したとして、後で死ぬことができるかも、ハリーには正確には断言できない
「その通り、その通りさチェルシー
僕には君を殺す勇気も、自分がここから落ちて死ぬ勇気なんてものもない
だから、そうならないようにしてくれよ」
ハリーはチェルシーのナーバスで凝り固まった感情をどうにかほぐしたかった
思い詰めることは時には大事だが、チェルシーはそうなると周りが見えなくなることを、ハリーはよく知っていたからだ
「逆もまた然りさ、もしも僕が先に死んだ時は介錯を頼むよ
そいつで頭をぽっかり殴れば、流石の僕でも一撃KOでノックダウン必至だろう」
ハリーはチェルシーの腰から下がる折りたたみ式の短軸つるはしを指差して言った
チェルシーは幼少の頃から使っている年季の入ったつるはしを撫でながら、先ほどよりも少しだけ元気な声でもちろんと呟くのだった
チェルシーに殺されるくらいなら、死もまたいいものではないか?
ハリーは頭の隅でそんなことを思うのだった




